秘めごと②
小屋のそばの川べりでは、積み上げた木の枝の束にもたれかかってジュールが本を読んでいるところだった。昼前にヤンが来てすまなそうに言った。親父の出張について行くんだ。明後日には帰って来るよ。猟銃の使い方は今度教えるから、のんびりやってろよ。そう言って優しく笑った。
カフスのついた真っ白なワイシャツに細いボウタイを結び、黒いベストを着たヤンはいつもより背が高く見えた。普段無造作に散らかっている髪も丁寧に櫛を入れたおかげできれいな波を打って後ろへ流れていた。かっこいいなとジュールは思った。貴族の人みたいだ。
やっぱり育ちというものはこういうところにおのずと出るのかも知れないと考えた。ヤンは汚れたシャツを着ていてもどこか凛として身のこなしがきれいだ。田舎育ちの僕が着飾ったところでやっぱり山羊番の仮装だ。卑屈な考え方は好きではなかったけれど、どうしてもそう思ってしまう。
人の気配がして顔を上げると傍らにフレデリックが立っていた。ジュールは驚いて、あっと声を上げた。
「驚かせたかい?」
「いえ、」
「本を読んでいるのかい?」
咎められたと思ったジュールはしどろもどろになった。
「あ、いえその、はい……すみません、もう、仕事します」
ジュールは本を閉じて立ち上がった。枝の束を抱えるジュールをフレデリックが笑いながら引き留めた。
「まあ待ちなさい、そういう意味じゃないよ」
ジュールはフレデリックを見上げた。この人もヤンと同じくらい長身だ。黒い髪はベルナールに、冷たい印象を与える目と少し鍵ばった鼻はイザベルにそっくりだ。
「これでもわざわざお前の顔を見に来たんだ」
「僕に、何かご用でも」
「うん、たまにはお前と話がしてみたいと思ってね」
「話……僕とですか?」
「いつも同じ本ばかりじゃ飽きるだろう。僕の部屋に来ないか」
フレデリックはジュールを伴って屋敷の階段を上がった。帽子で顔を隠すようにするジュールを見てフレデリックは可笑しそうに言った。母のことなら心配しなくていい。今日はもう街の方へ出かけたよ。お前はそんなに母が怖いのかい? ジュールは返答に困った。
「お前がヤンとピアノで遊んでいるのも知ってるよ。母のいない時を狙って」
「すみません。もう、入りません」
フレデリックは笑った。
「気にすることはない。ヤンに振り回されてお前も大変だろう」
ヤンの話をされるとジュールはどぎまぎした。
フレデリックの部屋はヤンの部屋のはす向かいにあった。ヤンの部屋よりもずっと広く、大きな書斎机とどっしりとした書棚が目に入った。壁には立派な額に入った絵画が何枚も掛かっていて、神話にでも題材を取ったのか描いてある人物は半裸だったり羽が生えていたりする。日当たりのいい部屋にも関わらず、その暗い色調の幻想的な絵がこの空間の雰囲気を一種独特なものにしている。ジュールはなんとなくこの部屋は苦手だと思った。
「さっき何を読んでいたんだい?」
フレデリックが尋ねた。
「『脂肪のかたまり』です」
「へえ」
フレデリックは眉を少し上げた。
「モーパッサンか。新聞小説の作家じゃないか。そんなのが面白いかい?」
「ええ、面白いです」
「お前にはちょっと早すぎるんじゃないかね。ああいう話は」
「そうでしょうか」
「ヤンが貸したのか」
「はい」
「ふうん。あいつがそんなのまで持っているとは知らなかったよ。荒唐無稽な冒険小説ばかりかと思っていた」
「はあ」
フレデリックは黙った。ジュールも黙った。途切れてしまった会話が行き場を失くしている。フレデリックは表情の読み取れない目でジュールを眺めている。その視線は壁に掛かった絵のようにどこか威圧的で捉えどころがない。ジュールはうつむいて所在なく帽子をもてあそんだ。
フレデリックはジュールから視線を外し、書棚の方へ向き直った。何かを考えるように黙って書棚に詰まった本を眺めている。
ジュールはこの沈黙を居心地悪く感じた。できれば早く戻って小説の続きを読みたいと思った。
するとフレデリックが背中を向けたまま唐突にこう尋ねた。
「お前はプラトニックという言葉を知っているか?」
ジュールは首を振った。
「知りません」
そうだろうな。フレデリックは頷いた。
「精神的な結びつきのことだよ。肉体的な結びつきはもろく、汚らわしい。肉体的な欲求を超えたところにあるものが精神的なつながりだ。そしてそのプラトニックな関係こそが尊いんだよ」
ジュールは首を傾げた。
フレデリックは続ける。
「肉体は、清くなければならないんだよ。交わりを持つほどに穢れていく。そうすると、精神も穢れていく。ところが人間というものはこと愛となると非常に弱い生き物でね。魂よりも肉体を愛するようになる。これが卑俗なのだ。諸悪の根源だ。プラトニックであることはすなわち清廉を意味するのだ」
「はあ……」
フレデリックはいやに饒舌だ。ジュールはその言葉の真意を測りかねていた。
「ジュール、僕はね、お前をこのプラトニックな理想の関係性を築くにふさわしい人間だと思っていたんだよ。ところがどういうことか全く道を外れてしまっているようなのでね、老婆心ながらお前に忠告を与えようと思ったんだ」
急に矛先が自分に向けられてジュールは不安になった。
「その……仰る意味がよく分かりませんが……」
するとフレデリックはジュールに目を向け、半ば呆れたような顔でフンと鼻を鳴らした。
「賢い賢いと誰かが吹聴するからどれだけ物分かりがいいかと思ったがそうでもなさそうだね。ありていに言えば、好きになった相手と簡単に肉体関係など持ってはいけないということだよ」
フレデリックは冷たくそう言い放った。ジュールはぎくりとして息を呑んだ。
「一度だけの過ちならともかく、毎晩のように逢引きするなど不埒極まりない」
フレデリックはそう言うと突き刺すような眼でジュールを見た。
「僕が何を言わんとしているか、お前にはもう分かるね」
ジュールは目の前が真っ白になった。言葉が出てこない。
ちょうどその時、オスカーが部屋をノックした。
「フレッド様、小作人が来ております」
「後にしろと言いなさい」
「それが急ぎで相談があるとかで……」
「分かった。今行く」
フレデリックはジュールを振り返った。
「少し待っていなさい」
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