秘めごと③

 どうしよう。知られている。

 ジュールは不安に駆られた。心臓が大きく高鳴って、帽子を握った手には冷たい脂汗が滲んだ。呼ばれたのはこの話をするためだったのか。何て答えればいい? フレデリックが戻ってきたら何と答えれば?


 知らぬ存ぜぬで押し通すか。何の話ですとしらを切りとおすか。そんな芸当が不器用なお前にできるか。そんなことを考えながら部屋の中へ目を泳がせているうちに、開け放した窓が目に入った。


 ジュールは近寄って外を見た。

 すぐ下は屋敷の裏で、フレデリックが小作人と話をしている。敷地の先にはいつもの森が広がっている。


 窓際にオペラグラスが置いてあるのに気づき、ふと手に取って覗いてみた。その途端、拡大された森番の小屋のドアが目の中に飛び込んできた。水の流れが分かるほど小川がくっきりと見える。ジュールは小さくあっと叫んだ。ここからは全部見える。ここからじゃ何もかもがお見通しだ──。 


 その時、窓から強い風が吹き込んだ。もう一つの窓際に置いてあった小型のイーゼルが倒れた。ジュールはオペラグラスを戻すと、窓のそばへ寄ってイーゼルを起こし、麻のキャンバスを持ち上げた。

 その時、キャンバスの下敷きになっていたスケッチのような数枚の絵が目に入った。


 スケッチを手に取ったジュールは目を疑った。


 そこに描かれていたのはジュールだった。一枚の紙の上にジュールの顔がいくつも描いてある。色んな角度で色んな表情をしている。顔だけではない。水浴びをしている絵もある。もちろん裸だ。全身を描いた絵は裸体ばかりだ。様々な方向から様々な格好をした裸のジュールが、赤褐色のコンテでデッサンしてある。その裸体からは描き手の強い主観が伝わってくる。それはまるで理想と欲望を同時に描き表したような絵だった。そしてその絵はなぜかことごとく上から乱暴に掻き消してあった。


 ジュールは唾を呑み込んだ。自分は見てはいけないものを見てしまった。早く元に戻さねばと思った。


 急いでキャンバスの後ろに絵を隠そうとした時、フレデリックが戻ってきた。ぎくりとした拍子に一枚手からすり抜けて床へ落ちた。フレデリックが近寄ってその絵を拾った。ジュールは息を呑んだ。


「……よく描けているだろう」

 デッサンを見つめながらフレデリックが呟いた。

「君は、こんなに美しいのに」

 ジュールはフレデリックから目を背けたまま、手に持った残りの絵を差し出した。

「僕……戻ります……」


 震えているのを悟られないように足早にフレデリックの脇を通り過ぎた。部屋を出ようとした時にフレデリックの声がした。


「僕の絵を褒めてくれないのかい」

 ジュールは何も答えられず、逃げるように部屋を出ると階段を走り降りた。


 フレデリックは絵に視線を落として自嘲気味に呟いた。

「うかつだったな……」


 ジュールは小屋へ戻ってきて本を開いた。何でもいい、忘れさせてくれるものに集中したかった。でも無理だった。台所のテーブルにひじをつき、両手で頭を抱え込んだ。デュックがジュールにすり寄って鼻を鳴らした。



 ヤンは三日後の夕方に帰って来た。帰って来るや否やすぐに小屋へ向かった。猟犬が尻尾を振って走り寄って来る。ジュールがその後に続いて小屋から出て来た。


「お帰りなさい」

「ただいま」

 ドアの陰でヤンが口づけしようとするのをジュールは押しとどめた。そして小さな声でここじゃ駄目だと言った。ヤンが不審な顔で覗き込むと、ジュールは下を向いてため息を漏らし、話があると言った。


「ヤン、もう、夜ここに来ちゃ駄目だ」


 二人は台所の椅子に腰かけていた。ヤンはボウタイを外してベストのポケットに突っ込んだ。ワイシャツの上のボタンを開けて空気を入れる。


「どうした?」

 ジュールは顔色が悪い。視線を下げてため息ばかりついている。

「どうしたんだよ」

「お兄さん、僕たちのこと知ってる」

 ヤンは黙った。片方の眉がピクリと上がった。

 それから低い声で訊いた。

「何があった?」

 ジュールは首を垂れた。

「部屋に呼ばれて、なんだか難しい話をされて。それで、その……好きになった相手と簡単にそんな関係を持ってはいけないって……」


 ジュールは上目遣いでヤンを窺った。ヤンは眉間に皺を寄せている。あれからフレデリックと顔を合わせることはなかった。それ以上の話は何もしていない。


「……おれのせいだな。油断してた」

「もう、夜ここに来ちゃ駄目だよ。僕はなんだか怖くて……」 

「分かった」

 ヤンはため息をついた。


「ねえ……プラトニックって、どういう意味?」

 ジュールがおずおずと尋ねるとヤンは目を丸くした。

「はあ? 一体フレッドは何を言ったんだ」

「肉体を愛するのは悪いことだって。そういうことをしたら、精神まで穢れるって」

 それを聞いてヤンは笑い出した。

「そんなことまで言ったのか。あの人の得意な精神至上主義だな。そんなこと君には関係ないじゃないか」

「僕が道を外れているって」

「潔癖な兄貴の言いそうなことだ。いいかいジュール、フレッドの言うことを気にするんじゃない。あの人は肉とか欲とかそういうことが嫌いなんだ。女にだって興味がないぐらいだ。そういうものには縁のない人なのさ。それだけだ」


 ──じゃあ、あの絵は一体何なんだ?


 ジュールはもう少しで口に出かかった言葉を呑み込んだ。

 あのスケッチを見た時、脳裏に忌まわしい記憶が呼び起こされるのをジュールははっきりと感じた。そういう絵だった。思い出すほどに得体の知れない大きな不安の塊が喉元へつかえて苦しくなる。

 でも、このことはヤンには言えなかった。言ってはいけないような気がした。


「そんな顔をするな。誰も穢れてなんかいないよ」

 まだ険しい顔をしているジュールを覗き込むと、ヤンはその鼻の先に音を立ててキスをした。

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