秘めごと④

 今年は夏が終わるのが遅いようだ。フレデリックは照りつける太陽を遮るようにして苛々と屋敷へ戻って来た。


 玄関に入るところへオスカーが声をかけた。

「フレッド様、旦那様がお探しです。お客様がお見えですよ。あの例の、銀行の……」


 オスカーの訳知り風な目を見てフレデリックはうんざりした。


「またか。僕は三十までは結婚しないと親父に言ってあるんだけどな。そもそもあそこのお嬢さんはまだ女学校じゃないか」

「いや、こういうお話は早くにまとめてしまった方がいいんでございます」

 オスカーは急に説教めいた声で囁いた。

「そんな悠長なことを仰らず早く孫の顔を見せて、旦那様を安心させてお上げなさい」

「分かってるよ」


 フレデリックはため息をつく。訪問はこれで三度目だ。取引銀行の令嬢と結婚すれば商売も安泰。持参金は申し分ない。自分の意思とは全く別に父は話を進める。一家の長男の宿命といえば簡単だが、フレデリックはそこへ身を投げ出す覚悟がまだできないでいる。特に、自分がたった今目にしてきたものがまぶたの裏に刻み込まれてしまった後では──。


 屋敷へ入ろうとしたフレデリックをオスカーが引き留めた。

「あ、お待ちなさい」

 オスカーはフレデリックの前にかがみ込んだ。

「靴に泥が……」

 ぶつぶつと呟きながらフレデリックの靴についた泥を丁寧に拭き取った。


「オスカー、お前うちの森の中に泉があるのを知っていたか?」

 オスカーはきょとんとした顔をした。

「泉? いいえ、存じません。私はまず森の中へは参りません」

「そうだね。僕も知らなかった。あの辺には変わった野生動物がいるよ」

「さようですか」

「ああ、誰も知るまいと思って交尾をしているのさ」 

「動物とはそういうものでしょう」

 オスカーはどうでもよさそうな答え方をした。

「ふふ、そうだね」


 まるで動物だね。汚らわしいといったらない。フレデリックは心の中で呟いた。

「ささ、そんなことより早くお客様のところへ」

 オスカーはフレデリックを急かすようにして屋敷に入って行った。


 客間へ向かいながらフレデリックは思う。あんなことは動物に任せておけばいい。あの場所なら誰にも見つからないとでも思っているのだろう、全く、あの二人は盛りのついた動物だ。下等だ。


 ジュール──。


 彼が家に来た時からフレデリックの心はすっかりこの美少年の虜になってしまっていた。自分の心に正直になれというのなら、あのきめ細やかな肌に手を触れてみたいと思う。あの花びらのような唇の感触を味わってみたいと思う。


 しかしそれは叶わない。その身体に手を伸ばすことは許されない。遠くから眺めているだけで、その姿を紙の上に写し取るだけで自分の心を満足させるしかない。


 だがその隙にジュールに伸びてきたのは、別の人間の手だった。 


 あの女中のせがれは簡単に罪を犯せる人間なのだ。所詮過ちから生まれた人間は過ちしか犯せないのだ。

 なのに。

 あれはただの火遊びではない。


 フレデリックはありありとその光景を思い出す。

 二人は泉のそばの木陰で隠れるようにして抱き合っていた。おそらく泉から上がったばかりなのだろう、濡れた体に髪からしずくをしたたらせ、お互いの首に腕を絡ませて、心から愛おしそうに口づけを繰り返していた。二人は第三者の気配に気づきもせず、夢中で口づけを交わしながら草の上に重なり合った。それから……。


 フレデリックの心は嫌悪感に満ち溢れた。しかしそれと同時に、彼は二人から目を背けることができなくなるほどその光景に引き込まれてしまった。


 彼らは隙がないほど美しかった。肌をさらけ出して愛を交わす二人は、まるで森という額縁に収まったギリシア神話の絵のようだった。少年の今にも溶けそうな表情、そして彼を見つめる若い男の悩ましい顔。フレデリックは足元の泥さえ忘れて恋人たちの秘めごとを凝視していた。自分の息が荒くなっているのに気づいてフレデリックは我に返った。そしてジュールの身体をまるで我がもののように抱擁している弟の姿を見て、彼の心は弟に対する嫉妬と憎悪で膨れ上がった。あいつはまた涼しい顔で自分の大切なものを奪ってしまった。ジュールの心を捉えるという、一番的確なやり方で。奴の顔を見ろ、屋敷にいる時とはまるで別人だ。あんな甘い顔をあいつは誰の前でも見せたことなどない。


 フレデリックは客間の前で立ち止まった。

 いや、──ひとりいる。

 コンスタン。


 そうだ、思い出させてやろう。あの時、ヤンが人目もはばからず大声で泣いていた、失ったものを。性懲りもなく同じ罪を犯すなら、もう一度あの苦しみを思い起こさせてやろう。


 ドアをノックするとにこやかに客人に声をかけた。

「やあ、いらっしゃい。ご無沙汰しております」 


                  ✽


「ジュール、新しい本を持って来た……ジュール?」

 ヤンは小屋の中を見回した。ジュールの姿はない。

 後ろから声がした。 

「ジュールはいないよ。馬小屋で手伝いをしてる」


 振り向くとフレデリックが立っていた。

「なぜ兄さんがここに?」

「ヤン、話がある。僕を避けているようだからこちらから出向くことにした」

「避けてる?」


 フレデリックは鼻で笑った。

 ヤンは兄に向き直った。


「何の話です」

「単刀直入に言おう。ジュールとの関係を絶ちなさい」


 ヤンの顔が一瞬こわばった。がすぐに笑いながら返した。

「あいつは弟みたいなものですよ」

「お前は弟と寝るのか」


 思わず口をつぐんだところをフレデリックは被せるように続けた。

「夜中に出て行くかと思えば今度は森の中で逢引きとはね。まったく、あんな光景に出くわすとは、安心して散歩もできない」


 その言葉にギョッとしてヤンはフレデリックを見返した。


「あんた、まさか……」

「あの泉は二人だけの秘密の園か。お前たちにも呆れたもんだ」

 しばし言葉を失った後、ヤンは頬をひきつらせたまま皮肉な笑みを浮かべた。

「……参ったな……」

「もう認めるね」

「森の中まで追いかけて来るとは思わなかったよ。ひとのことコソコソとスパイみたいに嗅ぎつけて。兄さんらしいや」

「コソコソしているのはお前の方だ」


 ヤンは苦笑して頷いた。


「そうですね。じゃあ潔く認めましょう。ええ。僕はジュールを愛しています」

「今度は開き直りか。恥知らずな」

「何とでも仰ってください。どうします。親父に告げ口でもしますか」

「そんなつもりはないよ。そんなことをしたらあの子はここにいられなくなる。あの子はお前の悪しき習性の被害者だ。ヤン。また悪い病気が出たようだな。お前はもう一度同じ過ちを繰り返すつもりか」


 それを聞いてヤンの顔から笑みが消えた。


「どういう意味です」

「二年以上も前のことだからきれいさっぱり忘れたかい? あのことは親父も知らないからね。お前はひとに自分の不始末の尻拭いをさせておいて、もう何事もなかったかのようにあんな年下の少年を垂らし込んでいる」


 頬を引きつらせた弟を見てフレデリックはうっすらと笑った。

「あの子もコンスタンのようにならねばいいがね」


 ヤンは険しい目でフレデリックを睨んだ。


「コンスタンの話はやめて下さい。ジュールとは何の関係もない」

「お前と関わった人間はろくなことにならないと言ってるんだよ」

「コンスタンの話はしないでくれ」

「可哀そうだったね、彼は」

「もう言うな」

「ひとの人生を振り回した挙句、最後は……」

「やめろ!」


 ヤンは思わず声を荒げて怒鳴った。珍しく紅潮していた。

 フレデリックは黙って冷ややかに笑っている。ヤンは言葉が出て来なくなった。こぶしを握りしめた手が所在なく垂れ下がる。


 突然猟犬の吠える声がした。ヤンはハッとして振り返った。半開きのドアのところにジュールが立っている。


 フレデリックはヤンを一瞥すると黙って小屋を出て行った。出て行きざま、ジュールの耳に囁いた。


「引き返すなら今だぞ」


 ジュールは目を伏せた。


「……聞いてたのか」

 力のない声でヤンが言った。


 ジュールはヤンを見つめた。さっきの彼の悔しそうな横顔。怒鳴り声。あんな怖い顔を見たのは初めてだ。そして今、目の前にいるヤンは、殴られた後みたいに放心して、ものすごく悲しそうだ。こんな顔も、今まで見たことがない。


 少しためらった後、ジュールは尋ねた。


「……コンスタンって、誰?」

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