ヤンの話
ヤンの話①
おれが十八歳の時だ。
おれは大学の一年目で、学校のそばの家具付きアパートで暮らしていた。その建物は独身の勤め人が住んでいたり、おれと同じように医学部の学生が多く住んでいてね。寮のような雰囲気だった。アパートは六階建てで、おれは中庭側の三階に部屋を借りていた。
週末の夜になると学生たちはみんなこぞって街に繰り出す。盛り場に出かけては、そこで客を探している娼婦や若い女工を口説いてみたりするんだ。普段勉強に追われてる学生たちはそうやって気晴らしをしてるわけさ。おれは窓から中庭を見下ろしながら、みんなが意気揚々と出かけて行くのを眺めていた。よく一緒に行かないかと誘われたけど、おれはそういうことに興味がなかった。だから週末の夜はいつも一人で過ごした。学生たちのいないアパートは静かで居心地がよかったからね。
その夜も週末で、みんな楽し気に出かけて行った。おれはいつものように窓からみんなが中庭を通って行くのを見ていた。中庭に面した他の窓はどこも明かりが消えていて、急にひっそりとした。
突然、「君は行かないのかい?」という声が聞こえた。おれは声のした方を振り仰いだ。建物の角を挟んだ五階の窓に明かりがついていて、眼鏡をかけた男がこっちを見下ろしていた。
「いや、おれは興味ない。静かでせいせいするよ」
「僕も賑々しく出かけるのは苦手さ」
その男はハスキーな声で笑うと親し気に尋ねた。
「君は医学生かい」
「ああ」
「どうりで見かけた気がする。一年生かな。名前は?」
「ヤニック・ルグランだ。あんたは?」
「コンスタン・モロー。僕も医学生だ。ねえ君、暇なら僕の部屋に遊びに来いよ。安いワインしかないけど飲むかい?」
「ああ、行くよ」
おれはその学生の部屋へ遊びに行った。
それが、コンスタンとの最初の出会いだった。
コンスタンの部屋はおれの部屋より少し狭くて、勉強机の上には本やら書きかけの論文やらが無造作に積み重なっていた。コンスタンは椅子に腰かけて、ベッドに座っているおれにワインをすすめた。彼はほっそりとした顔で静かなまなざしをした青年だった。
「ふうん。十八で
「いや、親父は貿易商だよ」
「じゃあ君はなんでまた医学部に?」
「おれは後継ぎじゃないんでね。次男でしかも女中の子だ。何か手に職をつけて独立しようと思ってさ」
「手に職か。まるで職人にでもなるような言い方だね」
「おかしいかい? だって医者なんて修理工になるようなもんだろ」
コンスタンは呆れたように笑った。
「変わったことを言う奴だ。それは違うね」
「そうか?」
「違うよ。扱うものが違う。椅子直しじゃないんだ。医者はヒトを扱うんだよ」
「へえ、気取ってるね。腕が良ければいいじゃないか」
「いいや。医者はね、腕も大事だけど、ここだよ」
コンスタンは指で自分の胸を指して見せた。おれは思わず声に出して笑った。
「なぜ笑う?」
「だって、そんなこと、教授でも言わないよ」
「笑いたかったら笑えばいい。だけどね、どんなに知識を蓄えても、立派な論文を書こうとも、腕が良くても、結局ここがなければヒトの修理工にはなれないさ」
そう言って今度はおれの胸に指を当てた。
「分かったよ。肝に銘じておくよ」
軽くいなすようなつもりでそう答えると、コンスタンはチラリと皮肉な目をこちらに向けた。
「まあ、君のように反抗心から医者を目指すなんて僕にとっては愚の骨頂だがね」
その言葉は心の中に石を落とされたようにカチンと響いた。
「なんだって?」
「後継ぎじゃなかろうが女中の子だろうが、そんなこと僕にとっては医者になることとは何の関係もない。君のひがみ根性だ」
矢を放つような物言いにおれは苛立ちはじめた。
「分かったようなことを言うね」
「言うとも。君の医者を目指す動機は哀れな自分を強く見せたいがための虚栄心だ。まだ反抗期のお坊っちゃんてところだ。どうだい」
図星だった。コンスタンは口もとに笑みを浮かべている。
おれはぐうの音も出なかった。コンスタンはお構いなしに続けた。それで医者になられた日には患者が気の毒だ、と。
「……じゃ、あんたは何だ? 医者の息子か?」
「いや、違う。でも親父は僕が医者になることを望んでる。僕もそれを叶えたい。下級ブルジョワ階級の見栄だね」
「あんただって似たようなものじゃないか」
「そうだね」
コンスタンは苦笑して自分のワインを空けた。
おれはコンスタンに興味を持った。八つも年上でおまけに初めて会ったばかりの人間にこうも辛辣にやられるとは思ってもみなかった。まるで見透かすようにおれの心の奥底にあるドロドロとしたものをすくい出して、それを一笑に付す。
でも不思議と腹が立たなかった。それどころか妙に愉快な気分にさえなった。ハスキーな声で繰り出す容赦ない物言いはおれの好奇心をくすぐった。もっと話してみたい、この男をもっと知りたいと思わせる何かを彼は持っていた。
コンスタンはルーアンの出身で、決して裕福といえる家ではなかった。父親は彼が正式なドクターになることを望み、かなりの無理をして息子をパリの医学部にやっていた。だから彼は余計に家族の期待を一身に背負っていた。袖口のすり切れたシャツを大事に着て、月々の支払いをなんとかやりくりして、爪に火を灯すような暮らしをしていた。医学部には付きものの留年も経験した。それでもあきらめずに黙々と努力し続けてきて、ようやく病院での研修を終え、もう少しでその夢が叶おうとしているときに、彼はおれと出会ったんだ。
それからおれは何かと理由を作ってはコンスタンの部屋を訪れるようになった。週末ともなれば夜遅くまで彼の部屋に入り浸った。
コンスタンの話は機知に富んでいて、皮肉で、おれは結局いつも説教をされて終わる。それでも嬉しかった。おれはどこか説教をされたくて彼に会いに行ってるようなところがあった。誰かに叱ってもらいたかったのかも知れない。
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