再会④
ヤンの住所はすぐに分かった。歩いて行けるような距離に住んでいるとは思わなかった。呼び鈴を鳴らすと門が開き、
ミシミシと音を立てる螺旋階段をジュールは努めてゆっくりと昇った。階を進むごとにどんどん胸が高鳴っていった。ヤンの部屋の前でジュールは大きく深呼吸し、外套を脱いでわきに抱えた。二度躊躇して三度目に思い切ってノックすると、かすかな足音がしてドアが開いた。
「やあ……」
ヤンが顔を覗かせた。
「来たね。……入れよ」
ジュールは緊張して部屋に入った。広いがずいぶん時代がかったアパートだ。壁も窓も古くてだいぶ年季の入った内装だ。壁際には長椅子が置いてあり、窓のそばに大きな勉強机があった。その上には本だの紙の束だのが無造作に積み重なっている。
ヤンはドアを閉めるとジュールではなく机の方へ向かった。
「論文を書かなくちゃいけなくて、それで、教授に会いに行ったりして……」
言い訳をするような口調で散らかった紙の束を揃えている。
「……フランスに戻ってから色々忙しくてね……」
ジュールを見ないで独りごとを言っている。何だか変だ。さっきのヤンとは違う。他人行儀というか、なんとなくよそよそしい感じがする。
本当なら部屋へ入った瞬間に彼の胸に飛び込みたかった。また会えるなんて夢みたいだと言いたかった。だがジュールはそのきっかけを逃したまま、ヤンの発する微妙な距離感にとまどいを感じていた。間の悪い時に来てしまったのだろうか。彼の口から優しい言葉が出るのを期待していたのだが。せめて、よく来たねとか、また会えて嬉しいとか、そんな言葉を聞きたかったのだが。
「外出許可は貰えたのか?」
「うん。知り合いに会うって言ってきた」
「君の雇い主というか、そのご主人とは……」
「奉公先で出会ったんだ」
ジュールは用意しておいた話をする。奉公先。別に間違ってはいない。ジュールはルネの使用人だったのだから。
「それで、僕が読み書きできるのを知って、ちゃんと教育を受けさせたいって、僕を引き取ってくれた。バカロレアの一次試験に受かったんだよ。今度は二次を受ける」
「すごいね。大学に行くのか」
「ああ、そのつもり。この僕がだよ。全部、先生のおかげなんだ」
先生ね……。ヤンは心の中で呟いた。
カフェで会った男の話がまた脳裏に蘇る。
──ジュールが世話になってるのはね、大学教授の家だ。あの教授もジュールの顧客だったのさ。或る客が悪戯をしたせいでね、ジュールは客を取れなくなったんだよ。あの店じゃだいぶ売れていたようだけどね、いずれにせよあれは手垢のついた使い古しさ。そんなのを引き取るなんて、あの先生もお人好しだよ……。
ヤンの頭はあの男の話でいっぱいだった。ルネの店。男娼。売春。ヤンは混乱していた。目の前のジュールからは想像もつかない話ばかりだったからだ。
「ドイツ語だ」
ジュールが机の上の本を手に取った。外套をまだわきに抱えたままだ。
「置けよ、外套」
ジュールは気がついて少し恥ずかしそうに笑った。
そう、このはにかんだ笑顔。おれの知っているジュールだ。あの男の話は何だったのだろう。ヤンの頭の中でせめぎ合いが起こる。
「……三年ぶりだね」
長椅子の上に外套を置き、ジュールがぽつりと言った。
ヤンは頷いた。そう、三年ぶり。長かった。その間、いったい君は……。
「ねえ、ベルリンってどういう……」
「君は、何をしてたの」
ジュールの問いかけをヤンが遮った。
「え?」
「引き取られる前、どんなところで働いてたの」
「どんなって……屋敷さ。お金持ちの」
心なしかジュールが身構えた気がした。
「何をしてたの」
「掃除夫だよ」
「それだけ?」
「そうだよ。そんなことよりベルリンの……」
ごまかすようにジュールが笑いかけたその時、ヤンが低い声で訊いた。
「──じゃあ、ルネの店って、何だ?」
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