袋小路③

 店に出なくてすむんなら好都合だ。それなら毎日でも喧嘩してやる。ジュールは部屋のベッドに腰かけて考えていた。エドガーはさっきから窓辺に立って鉄格子に手をかけ、不満げに窓の外を見ている。もう外は暗い。


「迷惑なんだよ。お前のせいで稼ぎ損なった」

 エドガーが低い声で呟いた。

「僕には有難いさ」

 ジュールが答えるとエドガーは怒ったように言った。

「馬鹿だな、お前。客を取らないと借金が増えるんだよ。お前だって元を取るまで全部ルネに吸い取られるんだからな。これじゃ商売あがったりだ」


 ジュールはエドガーに目を向けた。赤毛で色白できれいな顔をしているが、同時に何十年も生きて来た老人のような面影がある。


「君は、なんでここに居るんだ?」


 ジュールが尋ねるとエドガーは肩をすくめた。


「俺はルネに助けてもらったんだよ。立ちんぼだったんだ。通りすがりの男に声をかけて日銭を稼いでたところをルネに拾われたんだ。最悪だよ道端で取る客は。汚くて、金もなくて、乱暴で。どういうとこでやるか教えてやろうか。公衆便所だよ。最低だろ。でもそうするしかなかった。その前は泥棒したりなんかしてよくぶち込まれてた。家を出た後はずっとそんな感じだったよ」


 そう言うと窓辺にもたれてぼんやりと宙を眺めた。


 エドガーはもともとサン=ドニの出身だった。母親は娼婦で、父親は誰だか分からなかった。八歳の頃から母親のヒモに暴力を受けるようになり、たまりかねて十歳の時に家出し、モンマルトルに流れ着いた。似たような境遇の子供たちとスリや泥棒をして集団生活をしていた。そのうち男の街娼が多いこの界隈にやって来ては自分も道端に立つようになった。


「俺に言わせりゃここは天国だよ」

 エドガーはフフッと笑った。


「ちゃんと寝るとこがあって、食い物もあって、きれいなおべべを着て、客は金を持ってる人間ばかりだ。文句ないだろ。どうせここで働けるのもせいぜい二十歳ぐらいまでだ。ルネはとにかく若いのが好きだからな。大人になったらお払い箱だ。俺の契約はあと二年。俺の稼ぎじゃ延長されることもないだろう。だから俺は今のうちに庭の仕事を覚えとくんだ。ここを出たら植木屋でも庭師でもやって食ってけるように」


 さばさばとした口調でそう言ってあっけらかんと笑った。


 ジュールは眉を曇らせた。どうしてそんな乾いた気持ちになれるのか、どうしてそんな風に割り切ることができるのかさっぱり分からない。


 死んだという少年のことを思い出した。


「その、トマって奴は、どうして死んだの」

 そう尋ねると、エドガーの笑みが消えた。


「トマは……自殺した」

「自殺……?」

「あいつ、店に出るのをそりゃあ嫌がって、何度も逃げようとしちゃ連れ戻されてた。でもそのうち一人の客に惚れてさ。そいつは画家で、トマを気に入ってよくモデルにしてたっけ。それからトマはもう逃げなくなった。その絵描きに心底惚れこんで、いつもそいつが来るのを待っていた。ところが突然男は来なくなった。どうも画廊の娘と結婚したらしいんだ。トマは絶望して、ある晩、客を取った後、ベッドの上で喉を切って死んだ」


 エドガーは口もとを歪ませた。

「陳腐な話さ。こんな商売して一途に誰かを想うなんて、俺に言わせりゃ馬鹿のすることだ。トマみたいにいつまでも純粋でいるのは命取りだ。割り切れない奴が負けるんだ」

 彼は目の端でジュールを見た。

「俺はあいつを助けられなかった。相部屋のくせに役立たずだった。あいつ、可愛いかったんだよ……」

 ろうそくの光のせいか、エドガーの目が潤んで見えた。


「さっき言ったこと、謝るよ」

 エドガーは気持ちを変えるようにジュールに笑いかけた。

「寝言のこともからかってすまなかった。だけど、俺はお前のことを思って言っただけだ。早くその何とかいう男のことは忘れちまえよ。その方がお前のためなんだから」


 そんなことできっこない、とジュールは思った。

 


 ヤンのことを考えない日はなかった。ジュールにとってそれが何より辛かった。森番の小屋を思った。森を、その奥の泉を思った。オルレアンで過ごした一日一日がつぶさに蘇り、ジュールの心を圧し潰した。ヤンの優しいまなざしや低く澄んだ声、ピアノを弾くきれいな長い指、彼の熱い抱擁。ついこの間まであんなに近くにあったものがもうずっと遠くに行ってしまった。

 

 重たい体を引きずって屋根裏部屋のベッドにもぐり込むとジュールは枕に顔を伏せた。幸せな記憶の中に逃げ込みたかった。ヤンを繋ぎとめておきたくて心の中で彼の名前を繰り返し呼び続けた。だがその名前はもう意味を持たない。彼のしるしはもう跡形もなくこの体から消えてしまった。また失うだけの日々に戻ってしまった。ジュールは声を出さないようにして泣いた。たまに嗚咽が漏れた。エドガーにも聞こえていたかも知れない。そうして泣き疲れていつの間にか眠りに落ちるのだった。


                  ✽


「ジュールの様子はどうだね?」


 ルネがサロンの入り口に立って支配人に話しかけた。ルネが店に顔を出すのは週の半分ほどだが、その時は決まって支配人に様子を報告させる。

 

「もう十日ほど経つかね、あの子が来てから」

「はい、まだあんな顔してますが、それでも毎晩誰かしら客がつきます」

「ほう、それは感心だ」


 サロンの隅で怯えたような目をしてエドガーに隠れているジュールを見て、ルネは目を細めた。新調したシャツも似合っている。まるで花のようだ。自分に男色の趣味はない。だが美しい少年を愛でるのはこの上ない悦びだ。ジュールを眺めながらルネはふと思い出した。そういえばあの男もそんなことを言っていたような……。


 そこへ二人の客が入ってきた。ルネはそのうちの一人を見て親し気に声をかけた。


「しばらくだねえ、フレデリック。元気にしているかね」


「お久しぶりですね、ルネ」

「ちょうどお前さんのことを思い出していたところだ。逸材を頂戴して大変感謝しているよ。あんな器量よしは久しぶりだ」

「お気に召して何よりです。今日はちょっと彼を拝借しましょう。この男に試させようと思ってね」


 フレデリックは同伴した男を振り返った。無理やり正装したように見えるその男はフロックコートがまるで似合っていない。


「好きになさい。お前さんも変わった男だよ」


 変わった男というか、可哀そうな男というか……。

 ルネはサロンの奥へ向かうフレデリックを見送りながら煙草をくわえた。支配人がすかさず火を点ける。


 今度は二人連れの客だな。俺の知らない顔だ。誰の客だろう。目の端で盗み見ながらエドガーは思った。二人はまっすぐジュールの方に来る。エドガーはひじでジュールをつついた。ジュールはエドガーを見るとその視線の先に目を向けた。


 途端にジュールはアッと声を上げた。


「なんだお前、知り合いか?」

 エドガーが呑気に尋ねた。


「しばらくだね、ジュール」


 ジュールの目の前に立った男がうっすらと微笑んだ。 

「元気そうじゃないか」

 ジュールは顔を引きつらせて後ずさった。

「今日はお前に会いに来たんだ。お相手を頼むよ」


 奥の扉に消える三人の後ろ姿を横目で見ながらエドガーは不穏な空気を感じていた。しかし馴染み客がやってきてすぐに忘れてしまった。

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