袋小路②
翌日、エドガーは食堂でジュールの向かい側に座って彼を観察していた。彼は朝から口をきかない。自分がここにいることを認めたくないみたいに顔を伏せて虚ろな目をしている。
「なあ、」
ジュールの隣に座っているオリヴィエが声をかけた。
「お前、昨日僕の客を盗ったろ」
「……え?」
ジュールがぼんやりと訊き返した。エドガーはまずいと思った。昨日彼が相手をした客はオリヴィエの馴染みだ。
「あれは僕の客なんだ」
オリヴィエがジュールを睨む。
「そう」
ジュールはぽつりと呟くとまた目を伏せた。
「そうって。お前新入りのくせにひとの客を盗るなんて図々しいじゃないか」
オリヴィエの声が大きくなった。別のテーブルで食事しているルネの部下たちがチラリとこちらに目をやる。エドガーは低い声でオリヴィエを制した。
「やめろよ。こいつはまだ何にも知らねえんだよ。勘弁してやれよ」
オリヴィエは憮然としてジュールに訊いた。
「チップ貰ったか」
「チップ?」
「そうだよ。お金だよ。貰わなかったか? 僕によこしたら許してやる」
「おい、それは筋が違うだろう」
エドガーが言いかけたところに、ジュールがポケットから銀貨を一枚出してテーブルに置いた。
「くれてやるよ、そんな金」
ジュールは立ち上がると食堂から出て行ってしまった。エドガーは舌打ちするとその後を追いかけた。後ろではオリヴィエが銀貨を前に隣の少年と目を丸くしていた。
箒を片手に外へ歩いて行くジュールをエドガーは捕まえた。
「なあ、なあって」
ジュールは立ち止まった。掃除夫の格好をしているせいか彼は昨夜より幼く見える。
「チップは取っとけよ。馬鹿にならないぜ。最後に役に立つのは金なんだから」
ジュールは何も答えず中庭へ出た。
目の端でざっと見回しただけでもあちこちにルネの部下がいる。門にも入り口にも男が立っている。屋敷の窓を見上げると窓際にルネがいて誰かと話をしている。
「逃げ道なんかないぜ」
エドガーが見透かすように言った。彼は日除け帽を被ると手袋をつけ、中庭の半分ほどありそうな大きな花壇の前にしゃがみ込んだ。
「おかしなところなんだよ、ここは」
雑草をむしりながら背中で話しかけた。
「オスしかいないサル山と同じだ。ボス猿のルネに気に入られようといつの間にか客をつけることに必死になってるんだ。誰が一番売り上げるかって、見えないとこで躍起になって。馬鹿馬鹿しいだろ。そう仕組まれてることに気づきもしないで、みんな一生懸命さ。こんな下等な場所にすら競争があるなんて、下らないよな」
ジュールは帽子を目深に被ったエドガーを眺めた。この赤毛の少年は本当に肌が白い。日に当たると真っ赤になりそうだ。今日のような天気では庭仕事に帽子は不可欠だろう。
「お前にもそのうち馴染みの客がつくよ。お前、可愛いもん」
エドガーが帽子の庇を上げて笑いかけた。ジュールは不愉快そうに眉間に皺を寄せた。
「そんな顔すんなよ。あんなに暴れといて結局は初日からちゃんと客を取っただろ」
彼は花壇に向き直るとまた雑草をむしった。その背中を見ながら、ジュールの脳裏に昨夜のことが蘇った──。
客に肩を取られて行く時は恐怖で逃げ出したい気持ちに駆られていた。けれど、階段を上りながらジュールは奇妙な既視感に襲われた。二階の廊下。突き当りの右の部屋。それはディディエの家とまるきり同じだった。部屋に入った途端、時間を巻き戻すかのように何もかもがあの頃に引き戻された。客の顔がディディエと重なった。抱き寄せられて強引に唇を奪われた瞬間、頭の中が真っ白になった。
──怖がることはないんだよ、さあ、私の言うことをお聞き。──ぐずぐず泣くな、黙って俺の言うとおりにしろ。──君はきれいだねえ、まるで人形みたいだ。──お前は可愛いなあ、マリオンそっくりだ──マリオンそっくりだ──。
客の声とディディエの声が頭の中でごちゃごちゃになった時にはもう何も分からなくなった。麻痺したような感覚の中で自分の体はおのずから客のものになっていた。封じようとした記憶はあっけなく掘り起こされた。後に残ったのは空っぽになった心と体だった。
ただ、頭の片隅で、あの名前だけがいつまでも鳴り響いていた──。
「なあ、ヤンって誰だい?」
出し抜けにエドガーの声がした。
「えっ?」
ジュールは我に返り、驚いて彼を振り返った。
「どうしてそれを、」
「昨夜ずっと寝言でその名前を言ってたよ」
ジュールの顔がこわばったのを見て、エドガーはニヤリとして立ち上がった。
「当ててやろうか。お前の男だろ」
喉がグッと詰まった。エドガーは我が意を得たりという顔で笑いながら、吐き捨てるように言った。
「チェッ、やっぱりそうか。やめろやめろ、下らねえ。忘れてしまえ」
「なんだって?」
思わずキッとなると、エドガーは口の端を歪めてまたニヤリとした。
「寝言で男の名前を呼ぶなんて笑わせるよ。何があったか知らねえけど、こんなとこに売られといてまだ未練がましいこと思ってちゃ駄目だ。情けねえ奴だな」
「余計なお世話だ」
苦しそうに目を背けたジュールを見てエドガーはフンと鼻を鳴らした。そして嘲るような目つきでさらにこう続けた。
「でもさ、しっかり客の相手はできるんだから、大したもんだよな。要するにお前は、筋金入りの男好きってことだ」
聞き捨てならない言葉にジュールは目を見開いた。怒りがこみ上げるままエドガーに詰め寄った。
「……もういっぺん言ってみろ」
「何べんでも言ってやるよ。お前は筋金入りの男好き……」
エドガーが言い終わらないうちにジュールは力任せにその横っ面を引っ叩いた。エドガーは不意打ちを食らって瞬きをし、すぐにものすごい形相でジュールの胸ぐらを掴んだ。
「殴りやがったなこの野郎!」
二人はあっという間にお互いの襟を取ったまま地面に転がった。少年たちが寄って来て喧嘩だ喧嘩だと囃し立てた。
「何やってんだお前ら!」
すぐにルネの部下が駆けつけ、エドガーに馬乗りになったジュールを引き離した。エドガーはなおもジュールに掴みかかった。そこへもう一人やって来てエドガーを羽交い絞めにした。
「お前に何が分かる!」
「うるせえ!」
怒鳴り合う二人を男たちは引きずるようにしてルネの部屋へ連れて行った。
その夜、二人は店に出ることを許されず屋根裏部屋で謹慎ということになった。
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