袋小路④
満面の笑顔で客を見送った後、エドガーはポケットのチップを触った。今日はいい稼ぎだった。
ふと思い出してサロンを見渡した。ジュールの姿はない。支配人に訊くと、彼は気分が悪くて先に部屋へ帰ったと言う。エドガーは嫌な予感がした。気になるので支配人を言いくるめて自分もあがらせてもらうことにした。
薄暗い螺旋階段を昇る。妙に静かだ。
屋根裏部屋のドアに手をかけ、そっと押し開けようとした、その時。
中でガタンと何か倒れるような音が聞こえた。エドガーは不審に思ってすぐにドアを開けた。
「どうした? ジュール、いるのか」
真っ暗な部屋には窓から入る薄明りだけがぼんやりと差している。だが、その明かりに照らされて、何かが天井からぶら下がってうごめいている。その影を見てエドガーは息を呑み、大きく目を見開いた。
「やめろジュール!」
咄嗟に叫ぶとエドガーはその体に飛びついた。
ばたつくジュールの足を支えながら片方の手で机に手を伸ばした。引き出しを開けて植木鋏を掴み出す。それからそばに倒れていた椅子に上って腕を伸ばし、天井の梁にくくりつけてある紐を鋏で絶ち切った。
その拍子に二人は折り重なったままどさりと床へ落ちた。
エドガーはすぐ起き上がると床に転がっているジュールを押さえつけ、首に絡みついたサスペンダーを切った。途端にジュールは吐きそうなほど強く咳込み出した。
「馬鹿野郎……!」
エドガーはジュールの背中をさすりながら押し殺した声で叫んだ。
「……こんな真似しやがって……!」
むせて激しく咳込むジュールをかばうようにしてエドガーはその体を抱き起こした。
「もうちょっと遅かったら……もうちょっと遅かったら、お前……!」
喉の奥がゼイゼイと音を立てる。エドガーの顔の上に映った鉄格子の影が十字架みたいだ。
「死なせるもんか。死なせてたまるかってんだよ!」
背中をさすりながら何度もそう繰り返すエドガーの顔をジュールはかすんだ目でぼんやりと見つめていた。
「わけを話せ」
呼吸の戻ったジュールをベッドへ座らせると、エドガーは隣に腰かけてその横顔を睨みつけた。ジュールはろうそくの火を見つめている。血の気が引いてまるで死人みたいだ。
「……あの客なんだ」
ジュールが低い声で言った。
「あいつなんだ、僕をここに売ったのは」
「あの、二人連れの?」
ろうそくを見つめるジュールの目が歪みはじめ、みるみるうちに涙が溢れ出す。
「殺してやりたい……あいつを殺してやりたい……!」
絞り出すようにうめき声を上げるジュールを見て、エドガーは小さく問いかけた。
「……何があった?」
✽
仕事部屋に入るといきなりジュールはフレデリックに掴みかかった。しかしすぐにもう一人の男に取り押さえられた。
「どういうつもりだ!」
ジュールが叫ぶとフレデリックは呆れ顔で冷ややかなまなざしを送った。
「気焔を吐くな、お前はここの商品だろう。客に掴みかかってどうする」
「何が商品だ、だましやがって!」
なおも声を荒げるところをもうひとりの男に口を押さえられた。ジュールは男の手の中でもがいた。
「今日はお前のサービスを受けに来たんだよ、お客として。この男の相手をしてやりなさい。彼は
フレデリックはそう言うと男に頷いた。お前の好きなようにしていいよ。僕はここで見ているから。男はジュールに向かってニヤリと笑いかけた。ジュールはぞっとして叫んだ。
「いやだ!」
「どうせもう散々客を取ったのだろう。今さら気取るな」
「全部貴様のせいだ!」
「まだ分かってないな。お前は僕の忠告を踏みにじっておのれの身を汚したんだ。だからこうやって罰を与えるんだよ」
「勝手なことを……! 詐欺師め……! 大嘘つきめ……!」
「何とでも言え。愚かな奴だ。僕に従ってさえいればこんなことにはならなかったのに」
フレデリックはベッドのそばの椅子に腰を下ろした。そして感情のない目でジュールを見つめると呪いの言葉でもかけるように低い声で言った。
「犯した罪は罪で償え。ここでせいぜい罪を犯し続けるといい。ここはお前にはうってつけの流刑地だ」
その言葉は杭を打ち込んだようにジュールの心に突き刺さった。
立ちすくむジュールを嘲るようにフレデリックは笑った。何してる、我々はお客だよ。僕はルネの友人だ。お前に拒否権などない。さあ、黙ってこの男の言うことを聞け。
「色んな男に抱かれる気分は格別だろう。どうだい、ヤンのことはきれいさっぱり忘れたかい?」
残酷な笑みを浮かべてフレデリックは続けた。
「もっとも、ここまで汚れてしまえばもう合わせる顔なんてないだろうがね」
ジュールは言葉を失った。
魂を抜かれたように、体じゅうから力が抜けていった。
✽
「あいつはずっと見ていた。僕が男の言いなりになるところを、うすら笑いを浮かべて、じっと見ていた。男は僕を奴隷のように乱暴に扱った。こらえ切れずに叫び声を上げたら、あいつは嬉しそうに笑った。僕は悔しくて涙が出た」
ジュールは自分の体を抱きしめるようにして震えていた。
「まるで動物をいたぶるみたいに、おもちゃをバラバラにするように、あいつは僕をぶっ壊したかったんだ。自分じゃ手を下さずに、他人にやらせて、自分はニヤニヤしながらそれをずっと見てるんだ。僕はベッドの上からあいつを呪った。地獄に落ちろと叫んだ。そしたら、あいつは声を上げて笑った」
ジュールは床にひざまずき、両手で顔を覆った。喉の奥から引きちぎるような慟哭が溢れ出す。
「エドガー、僕は死んでしまいたい! 僕はもうこの世から消えてなくなってしまいたい……! そしたら楽になれるのに……楽になれるのに……!」
──僕は一生君に感謝する。この命は前より何百倍も価値があるんだ──。
今さらあんな言葉に何の意味があるというのだ。もう会えないのだ。もう合わせる顔などないのだ。ヤンの姿が、遠く、遠くへかすんでいく。
エドガーは泣き続けるジュールをじっと見つめていた。それから背中を撫でて、そっと声をかけた。
「ジュール、一度死んだと思えばいいんだよ。そしたら辛いことなんかもうないだろ。一度死んだと思って全部忘れてしまえ。俺がルネに掛け合ってやる。二度とあの男を入れるなって。だから、頼むからあんな……」
もういいよ。震える声で言うとジュールは首を振った。もう、どうでもいいんだ。どうでもいいんだ。
行き止まりだ。この店の前の道のように。行き止まり。袋小路。もう、どこにも進めない。
心配そうに見つめるエドガーをジュールはゆっくりと見上げた。
「……すまなかった。もう、あんな真似はしないよ」
あきらめきった目で弱々しく呟いたジュールを見て、エドガーは久しぶりに泣きたい気持ちになった。
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