出会い①

 ルネの店に来てもう二か月が過ぎようとしていた。

 フレデリックはあれ以来姿を見せない。日々はただ気だるく過ぎていった。朝は昨夜の酒が残ったこめかみを押さえながらやっとのことで起きる。昼間はぼんやりとかりそめの仕事で時間を潰す。そして夜になると絹のシャツを着て店に出る。そんな毎日だけが淡々と続いてゆく。


 エドガーとはあの日からかなり打ち解けた。ルネのところに来た当初は突き放すような顔をしていたエドガーだが、あのことがあってから今度はやたらとジュールを気にかけるようになった。おせっかいで情があり、何かあったら全部俺に言えよと勝手に兄貴分を気取っている。世の中をはすに構えて見ているような話し方も嫌いじゃない。一緒にいると気が紛れる。


 店では相変わらずジュールはよく売れた。それをいいことにルネはジュールの値段を上げた。それでも客は減らなかった。ルネは気を好くしてどんどん客を取らせた。一晩に何人も相手をした。ジュールはただ黙ってルネの言いなりになった。



 エドガーはそんなジュールを苦々しい気持ちで見ていた。

 あの夜──ジュールが首を吊ろうとしたあの夜──を境に、彼は針が振り切れたように変わってしまった。初めて会った頃の潔癖さがなくなってしまった。開き直ったような顔つきになった。ありていに言えば、売春をしている少年に見えるようになってしまった。

 自分だってはたから見ればそうかも知れない。でもジュールは短期間のうちにこの世界に染まりすぎだ。


 ルネの店にいる少年の中でも彼の容姿は群を抜いている。しなやかな細い体にシミひとつないきめ細かい肌。部屋で体を洗っているところなんかちょっと見とれてしまうぐらいだ。

 店に出ると客はみなジュールを振り返る。光沢のある薄紅色のシャツを着て、誘うような雰囲気を体じゅうから発散している。あいつが醸し出す人を惹きつける匂いは誰にも真似できない。自分が見てもたまにドキッとするのだから、客が惚れるのは当然だ。

 彼は店にいる間ずっと酒を飲み続け、途切れることなく客を取っている。身繕いをしてサロンに戻ったと思ったら、バーカウンターでアブサンをあおって、また別の客と一緒に奥の扉から二階へ上って行く。ご苦労なこった。一晩にいくら稼いでいるんだろう。今じゃルネの一番のお気に入りだ。


 もちろん売れるのはいいことだ。もう自殺しそうなそぶりもなければ逃げそうな気配もない。それどころかこの生活にしっかりと根を張ってしまったような感さえある。

 だがそんなジュールを見て、エドガーは一抹の不安を感じるのだった。本当にこのままでいいのだろうか。あいつはこのまま根っからの男娼になって身を亡ぼすんじゃないだろうか。


 夜更けに階段を昇る重たい足音がする。ジュールが勤めを終えて屋根裏部屋に帰って来る時だ。

 エドガーは彼が壁にぶつかりながらやっとのことで部屋に戻ってきて、這いずるようにベッドにもぐり込むのを知っている。その度に幼いころ垣間見た母親の姿を思い出してしまう。

 白粉おしろいの匂いをさせて男に媚を売っていた母親。稼いだ金をみんなヒモに吸い取られ昼間からやけ酒を飲んでいた。憐れな女だと子供心にそう思っていた。

 そりゃ自分だって結局は同じようなことをして生きている。でも俺は必ず足を洗う。エドガーはそう決めていた。でもジュールは──。


「まあ、余計なお世話だ」

 エドガーは仕入れてもらったパンジーに土を被せながら独りごちた。あいつとの相部屋は悪くない。自分から話しかけることはほとんどないが、二人でいると黙って俺の話を聞いてくれる。他の連中のように嫌がらせや悪口もやらない。しかし、だ。


 エドガーは土にへばりつくように横たわっている死んだ花を見た。彼もこんな風に見えないところで腐りかけているのではないだろうか。


「根が腐ったら終わりだからな…」


 エドガーは気づかない間に死なせてしまったその植物を引っこ抜いた。全体がどす黒く変色している。これはなんの花だったっけ? もう覚えてないや。エドガーは死んだ花をパンジーのそばに埋めた。


                  ✽


 ルネの店にもクリスマスの飾りが施された。エドガーはルネに買ってもらったモミの木をサロンに備えつけた。少年たちは楽し気に飾りをつけた。

 ジュールは少し離れてその様子を見ていた。田舎では教会の前にモミの木が立っていたっけ。小学校にいた時分は十二月になるとアランや他の子どもと一緒に飾りをつけに行ったものだ。あの頃は楽しかったな……。


 そう考えてジュールはあわててぎゅっと目を閉じた。何を思い出しているんだろう。考えるんじゃない。昔のことなど、考えるんじゃない。もう僕は、あの頃の僕ではない。


 ジュールは毎日の生活の中で思い出すことと考えることから極力逃れようとしていた。そうすることで過去の自分と今の自分とを切り離そうとしていた。客が悪戯に覚えさせたアブサンのおかげでジュールは酒の力を借りることを知った。濁った緑色のその酒は甘くて苦い、心と体を切り離すのが楽になる薬だ。手っ取り早く酔うにはちょうどいい。後で何倍もの憂鬱が待っていることなど考えなくていい。


 ──罪は罪で償え。


 あの男の言葉が蘇るたびにジュールの胸は苦しくうずき、その痛みを消すためにさらに強い痛みを求めた。見境なく客を取るのも、翌日に響くほど酒を飲むのも、すべては痛みの上塗りでしかない。でもそれでいい。他人の手垢にまみれたこんな体はいつでも滅びてしまえばいいのだ。そうすれば僕の罪は償われたということになるんだろう。ジュールはそう思っていた。そしてそんな暮らしを続けているうちに、いつしかオルレアンで過ごしたひと夏の記憶はもう手が届かないほど遠くに消え去ってしまった。


 ぼんやりとしているジュールを見つけてエドガーが近寄ってきた。

「お前も飾りつけやれよ」

 子どもっぽい顔でにこにこしながらガラス玉を差し出す。

「僕はいいよ」

 ジュールは白けた目で笑いながら首を振った。


 一番の客が店に入ってきた。やあ、きれいな飾りだね。ジュールはいるかい? ジュールは振り返り、客に微笑む。こんばんは。待ってましたよ。客はジュールの肩を抱いてバーカウンターへ向かう。お前に会えるのを楽しみにしてたよ、アブサンを飲むかい? ええ、じゃあご馳走になります……。


 エドガーは飾りを手に持ったまま、黒いカーディガンを着たジュールのほっそりとした後ろ姿を見送った。背中がやたらと大人びて見えた。

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