サクリフィス③

 窓の外を眺めながらジュールはため息をついた。十二月は駄目だ。一番嫌いな季節だ。


 ジュールは重たくのしかかる記憶に圧し潰されそうになる。あのことがあったのは十四歳の十二月だった。ディディエが初めてジュールを自分のものにした日だ。あの時から歯車が狂ってしまった。大事なものを失ってしまった。色んなものが怖くて仕方なくなった。おどおどしながら暮らすようになってしまった。


 今日四つ目のグラスを割ったところで店主からもう帰れと言われた。一日頭を冷やして気分を変えて来いと言われても、家にこもって窓から外を眺めているよりほかはない。窓の外はぼんやりと霞んだ白い冬の空がうっとうしく広がっている。ヤンはオルレアンだ。ヤンの椅子を拝借して窓辺に座っていると、昔のことをどんどん思い出す。


 せわしなく浮き足立つ世間とは裏腹に、ジュールは十二月になると決まってこんな風にひどく落ち込んだ。ルネの店でも、ギヨームの家でも。そういえば初めてギヨームに会ったのも十二月だったな。ジュールは思った。自分が自暴自棄になっていた頃だ。先生はどうしているだろうか……。


 ジュールは頭を振った。やめよう。考えるのはやめよう。考えたって気持ちは沈んでいくだけなのだから。心も体も鉛のように重たい。僕が一体何をしたというのだろう。どうしてこんな重荷を背負わなきゃならないんだろう。

 ──それもこれも全てあの日に始まった。ディディエおじさん。僕の全てをぶち壊した、あの憎い憎い男。殺してやりたい……!


 悔しくて涙が溢れてきた。ジュールは久しぶりに泣いた。たった一人だから遠慮なく涙が流せた。ヤンがいたらきっと優しく慰めてくれるところだ。大丈夫だ、おれがついてるって。でも彼にはどうしようもないこともある。今はただ泣きたいんだ。一人で可哀そうな自分を憐れみたいだけなんだ。落ちるところまで落ち込んだら、また明日から働くだけだ。それだけだ。


                  ✽


「たったこんだけかい?」

 男は受け取った金を確認して不満そうにジュールを見た。 

「今日はこれで勘弁してくれよ。皿代とか天引きされちゃって。来月はちゃんと払うから」


 二人はブラッスリーの裏口にいた。男は金を仕舞いながらうんざりした顔をした。


「こんな細々と返されちゃあ気が遠くなるよ。あんたの従兄に都合してもらっていっぺんに払っちまったらどうだい?」

「そういう訳にはいかないからこうやって頼んでるんだろ。家には絶対に来ないでくれよ。来月にはちゃんと百五十フラン渡すから」

「分かったよ。まあせいぜい頑張って稼ぎな。よいお年を」


 男は同情するようにジュールの肩を叩くと去って行った。ジュールは小さくため息をついた。


 例の慰謝料はあと三百五十フランほど。毎月百フラン返して、残る五十フランは家賃としてヤンに……と言いたいところだが、現実はなかなかそうはいかない。安ブラッスリーの下っ端ギャルソンはやはり給料も分が悪かった。おまけに失敗をやらかしては天引きされる。寒さには勝てず出来合いのコートを買ったこともあり、ジュールの懐はカツカツだった。これじゃヤンに家賃を払うなどもっと先の話だ。


 クリスマスは一日中寝て過ごした。金のことばかり考えて嫌になった。一人で眠るベッドはとても冷たかった。ヤンが恋しくなった。

 しかし早く帰って来て欲しいと思う反面、彼の姿を見てまた劣等感にさいなまれる毎日が始まるのも気が重かった。休暇明けに学生たちが戻ってきてアパートが賑やかになるのも憂鬱だった。


 そういえば隣のエティエンヌはパリに残っている様子だ。仕事を終えて帰って来るといつも彼の部屋には明かりがついている。彼は里帰りしなかったのだろうかとジュールは窓を見上げながら思った。


 階段を上がるとエティエンヌの部屋のドアが少しだけ開いていた。廊下に明かりが漏れている。ジュールがふと立ち止まって覗くと、中にいたエティエンヌと目が合った。


「今晩は」

「やあ、やっぱり君もパリに残ってたのか」


 部屋からエティエンヌが笑いかけた。


「ええ」

「ヤンはオルレアンか。君を残して」

「ええ、その、僕は仕事だったから……。それじゃ……」


 ジュールが立ち去ろうとするとエティエンヌが呼びとめた。


「待てよ。……ちょっと入らないか」

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