サクリフィス②
「……え?」
ヤンは耳を疑った。背中がすっと寒くなるのを感じた。
「新しい馬小屋番を見たかい。あれが本当の父親だよ」
喉の奥がぐっと詰まった。
フレデリックは表情のない顔で淡々と言った。
「クロチルドは満足そうだよ。なかなかいい男だからね奴は。これで男の子が生まれれば万々歳だ」
ヤンは呆然として兄を眺めた。フレデリックはヤンを見てフフと笑った。
「そんな顔をするな。不名誉なことだと思うかい? これは家のためだよ。跡取りさえできれば誰の子かなんてどうでもいいじゃないか」
その口ぶりには突き放したような冷たさと同時に自嘲が混じっているように聞こえた。
つかの間言葉を失った後で、ヤンはためらいながら尋ねた。
「どうしておれにそれを……?」
フレデリックは低く笑った。
「僕一人で抱え込むには荷が重すぎるからさ」
そして独り言のような口調で言った。
「突然大声で叫び出したくなるんだ。王様の耳はロバの耳! ってね。土の中にでも埋めないと僕のお腹の方がはち切れてしまいそうだ。……でもね、僕は家のためにこの話は墓場まで持っていくよ。守らなければならないからね、この家も、商売も。クロチルドだって同じことだ。だからある意味僕たちは不思議な絆で結ばれている。犠牲という名の運命共同体だ。双方の家のためなら何ごとも涼しい顔でやってのける。そして素知らぬふりで黙っていられるのさ。長男とはいえ、家のためにここまで尽くすのだから褒めてもらいたいぐらいだよ」
無意識にかわざとか、フレデリックは家のためという言葉を繰り返した。
「大体こんなことを言える相手なんてお前のほかに誰がいる」
頭の中には訊きたいことが山のようにあった。でもヤンは言葉が出て来なかった。
「お前はいいね、自由で。どうせまだジュールと続いているんだろう」
ヤンが目を上げるとフレデリックは寂しげに微笑していた。
「心配するな。お前たちに関わるほど僕は暇じゃない。それに今度こそ頭に穴をあけられては困るからね」
「兄さん……」
階下からベルナールの声がした。
「おい、ヤン、そこにいるのか。皆さんがお前のピアノをご所望だ。ひとつやってくれ!」
フレデリックが笑った。
「ほら、パパのお呼びだよ。聴かせてやれ」
そしてヤンの肩をポンと叩くと、そのまま自分の部屋へ入って行った。
ひとしきり父の期待に応えてから、ヤンはこっそりと屋敷を出た。客人の多い家にいるといつもよりさらに息が詰まる。中からはまだ賑やかな笑い声が聞こえている。ヤンの足はひとりでに森番の小屋へ向かっていた。夜も更けていたが小屋にはまだ明かりがついている。
小屋のドアをノックしてそっと開けると、フェルナンがストーブの前にかがみこんでいた。ヤンが声をかけるとフェルナンはニヤリと笑った。
「どうしました、坊っちゃん、浮かない顔をして」
「なんでもないよ。ピアノを弾きすぎて疲れた」
ヤンは小さく笑ってみせた。
「若奥様がみえてからここもずいぶんと賑やかになりましたよ。使用人も増えましたしね」
何気ないフェルナンのひと言さえ、ヤンには変に意味ありげに聞こえた。
フェルナンはストーブの前に置いた木箱を覗き込んでいた。ヤンがそばに寄って見ると、その木箱の中には野ウサギが入っていた。わらを敷いた上に寝かされ、足に包帯を巻いている。
「今朝森で見つけたんですよ。足をくじいているようなんで拾って来たんです。一応手当てはしてみましたがね、多分もう元のようには走れないでしょう」
野ウサギは体が小さく、淡い栗色の毛をしていて、箱の中で半分目を閉じて鼻を震わせていた。
「どうするんだい?」
「二、三日したらまた森へ帰します」
「でも、そんなことしたら」
「分かってますよ」
フェルナンはたっぷりひげの生えた口もとを曲げて皮肉な笑いをした。
「森へ帰したところでこいつは他の動物の餌食になるか、旦那様やお仲間に撃たれるかのどちらかでしょうな。でもそれがこいつの運命です」
「そんな。せっかく助けてやったのに」
「そうですね。助けておいて放り出すなんてかえって残酷だ。いっそひと思いに殺してやった方がいいのかも知れませんが、情が出ちゃってね。せめてもう少し動けるようになってから放しますよ」
森番は静かに言った。ヤンはひざをついて木箱の中のウサギを覗き込んだ。ウサギはまるで話が分かるかのように耳をそばだて、あきらめたような目でじっとしている。
ヤンはたまらない気持ちになってフェルナンを見上げた。
「置いておいてやれよ、ここに。親父に隠してここで飼ってやれよ」
「それはできません。あいつが吠えるもんでね」
そう言ってフェルナンは片隅でうずくまっているデュックを振り返った。猟犬は気の毒にも繋がれたうえに口輪をされていた。
フェルナンはウサギに視線を戻した。
「それに、こいつは野生のウサギです。飼いならすことはできません。結局森に帰すほかないんですよ。残酷ですがね、そうするしかないんです」
見つめているうちになぜかジュールのことを思い出した。急に彼のことが心配になった。
今頃あいつはどうしているんだろう。
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