サクリフィス

サクリフィス①

 ヤンは机から振り返り、となりの寝室の隅でベッドに丸くなっているジュールの足を眺めた。靴下の先が擦り切れて親指が見えそうになっているがジュールはまるで構わない。グレーの古いカーディガンを体に巻きつけるようにして寝転がり、冷たくなった足先を温めるようにストーブの方へ近づけている。


 秋から冬に移るにつれてジュールは口数が減っていった。その代わりため息の数が増えた。ぼんやりしていることが多くなった。少し猫背になったような気がする。


 疲れているんじゃないかと声をかけると、僕はヤンほど大変じゃないさと言って笑ってみせる。仕事のことを訊いても順調だと言って笑ってみせる。でもヤンにはその目が笑っていない気がする。考えすぎかも知れないが、話すことをあえて避けているように見える。


 休みの日は昼まで寝ている。どこかへ行こうと言っても人ごみは苦手だと言う。それならまた森に行こうかと誘ってみたが、十二月に森なんか行ったら風邪をひくよという答えが返ってきた。たまに本を読んでいるふりをしているが、ページが一向に進んでいない。焦点の定まらない目でぼんやりと考えごとをしている。


 仕事のひける時間を狙って迎えに行ったこともある。間の悪いことに大量に皿を割ってしまった直後らしく、店主にドヤされているところだった。ジュールはヤンに気づくと悔しそうに目を逸らした。



 クリスマスはちゃんとオルレアンに帰りなよ、とジュールは言った。家族がいる人は家族と過ごさなきゃ駄目だ。僕は一人でも平気だよ。どうせ休みは二十五日だけだし。


 ジュールを置いていくのは気が進まなかったが、ベルナールのしつこい手紙もあり、ヤンは一人オルレアンへ向かった。


                  ✽


 屋敷に着くと使用人の数が増えていた。フレデリックの妻のクロチルドが連れてきた女中たちだった。


 フレデリックはさきの春に銀行の令嬢であるクロチルドと結婚した。三階は夫婦のために使えるよう大きく改装され、ヤンの部屋は客間のある二階の端に移された。


 結婚式で顔を合わせた時、フレデリックはヤンと目を合わせようともしなかった。当然だ。自分に銃口を向けた弟の目などまっすぐ見られるはずがない。


 新郎より十歳ほど年下の花嫁は子供っぽく無邪気な顔をしていて、結婚もままごと遊びの延長ととらえているように見えた。およそ釣り合うという言葉とは縁の遠い夫婦だ。教会でフレデリックの隣に並んだ新婦を見てヤンは思った。逆に言えば政略結婚という言葉がこんなに似合う夫婦もなかろうと思った。


 しかし春以来に会うクロチルドは少し雰囲気が変わっていた。落ち着いたというか、大人びたというか、そして以前よりずいぶんふっくらとしていた。動作もゆっくりだった。

 妊娠しているな、とヤンは察した。もともと膨らんだドレスの上からははっきり分からないが、だいたい六か月目ぐらいだろう。

 しかし本人や家族から聞かない前にそれを言ってはぶしつけだと考えたので、黙って差し出された手に口をつける真似をした。


 その年のクリスマスは親類縁者がやたらと押しかけて、屋敷の居間はいっぱいになっていた。晩餐にはジビエ料理が並んだ。ベルナールが狩りで仕留めたというイノシシや鹿の肉を前に、本人自らナイフを持って取り分けた。この秋はだいぶ腕を上げた。鹿はなかなか難しいが今回は肉を損なうことなく仕留めたと熱弁をふるっている。どうやら息子が相手をしなくなった代わりに狩り仲間ができたらしい。


 ベルナールは乾杯の時に特別にクロチルドを祝った。やはり思ったとおりだ。孫ができるという嬉しさは格別なものなのだろう。一同が注目するなか、クロチルドはゆったりと微笑んでいた。イザベルは素直そうな嫁を気に入っている様子で隣に座って何かと話しかけていた。


 おめでたがはっきりしたからには何か祝いの言葉を言わねばなるまいと思い、食事の後ヤンは一人で三階に上がっていくフレデリックを捕まえた。

 あれからほとんど口をきくことはなかったので少しぎこちなく感じつつも、ヤンは祝福の言葉をかけた。


「お父さんはずいぶんご機嫌ですね。早く初孫が見たいって顔に書いてある」


 するとフレデリックは周りに誰もいないのを確かめてからそっとヤンの耳に囁いた。


「──あれは僕の子ではない」

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