サクリフィス④
エティエンヌの部屋に入ると、引っ越しの荷造りがしてあった。備え付けの家具だけが残っている以外は何もかもが空になっていた。ジュールが怪訝な顔をして荷物を眺めているとエティエンヌが説明した。
「ここを出るんだ。これ以上パリにいる意味はない。僕は医者になるのをやめた」
ジュールが驚いて顔を見るとエティエンヌは頭を掻きながら自嘲した。
「休み前の試験は惨憺たるものだったよ。もう落第できないからね。結局自分には向いてなかったってだけさ。これ以上は時間の無駄だ」
エティエンヌは机の上のワインのボトルを掴んでそのままぐっと飲むと、口を拭いながらジュールに向かってボトルを差し出した。
「乾杯してくれよ、僕の旅立ちに」
少し芝居がかった口調でそう言った。ジュールはボトルを受け取ると同じように口をつけて飲んだ。
エティエンヌは満足そうに微笑んだ。
「淋しくなるね。朝、君と顔を合わせることもなくなる。残念だよ。君との束の間の散歩が僕は好きだったんだ」
「そうですね」
ジュールは荷物を眺めながらぼそりと答えた。それを見てエティエンヌはフフと苦笑した。
「僕が人生に見切りをつけようとしている時にずいぶんあっさりとした返事だね」
「すいません。その、」
弁解する口調になったところへ被せるようにエティエンヌは続けた。
「いつもそういう風なんだね君は。優しい顔してるくせに愛想がなくって、そうやって武骨な相槌ばかりで、口数が少なくて。……まあ、きっとそういうところに彼も惚れるんだろうけど」
「え?」
エティエンヌはまたワインをひと口飲んだ。
「ヤンによろしく言っておいてくれよ。未来のドクターの輝かしい将来と、それから恋人たちの幸せをエティエンヌが願っていたと」
「恋人たち?」
エティエンヌはボトル越しにジュールをじっと見つめた。
「君はヤンの従弟なんかじゃないだろう」
ジュールはぎくりとした。
「僕は、」
「隠さなくてもいい」
エティエンヌが遮った。
「僕が知らなかったとでも思ってるの? 悪いけど僕は千里眼だよ。二人の様子を見てりゃそれぐらい見当がつくよ。これはただの親戚ではないな、ってね」
それに、と言ってエティエンヌはジュールを促して寝室へ向かった。ジュールがついて行くとエティエンヌはベッドによじ上って壁に耳をつけてみせた。
「こうやってるとね、君たちの仲睦まじい声が聞こえてくるんだ。この壁一枚隔てた向こうは君たちの寝室だからね。こんな古いアパートじゃ全部つつぬけだよ。こうやってよく聞いていたものさ、恋人たちがお互いを呼び合う、なんとも悩ましい声を」
ジュールは思わず口を押さえた。顔が火照って耳まで赤くなるのが分かった。
エティエンヌはベッドの上からジュールを振り返った。
「そんなに恥ずかしがるなよ。愛し合う相手がいるのは幸せなことさ。あまり幸せそうなんで勝手におすそ分けしてもらってたんだよ。悪かったね、下品な真似をして」
そしてベッドに座り直すと苦笑しながら言った。
「全くヤンにも呆れたもんだ。男の恋人を囲い込むなんて大胆な真似をするよ。しかし、いくら大家がばあさんだからって、嘘はいけないな」
エティエンヌはからかうような目でジュールを見つめた。
「でもまあ、正直に言ったところで同棲なんて許してもらえるはずないか。……もし誰かが告げ口して大家や門番に知れたらおしまいだね。君もそうだけどヤンだってこのアパートにいられなくなるよ。残念だろうなあ。ヤンはこの住み家を気に入ってるみたいだから」
ジュールは咄嗟にベッドへ乗り出すとエティエンヌの腕を掴んだ。
「お願いです、誰にも言わないでください。あなただけしか知らないのなら、どうかこのことは誰にも……!」
すがるようなジュールの目を見てエティエンヌはクスッと笑った。
「ヤンのこととなると君もそんな顔するんだね、健気だな。ああ、こんな恋人を持ってるなんて、彼がうらやましいよ。あいつは人の欲しがるものを何でも手に入れちゃうんだから」
「お願いです、どうか、何も知らないことにして下さい」
ジュールはエティエンヌの袖をきつく掴んで繰り返した。
エティエンヌは可笑しそうに笑った。
「君がこんなに必死になるなんて面白いね。なんなら君たちも僕と一緒にこのアパートを出るかい? どうにでもなるよ、僕の胸三寸で」
ジュールは青くなった。
「それは……脅迫ですか。あなたは、僕を脅迫するつもりですか」
「ああ、脅迫だね」
楽しんでいるような口ぶりで彼は言った。
ジュールは低い声で尋ねた。
「何が欲しいんです。お金ですか」
「そんなものは要らないよ。僕が欲しいのはね、」
エティエンヌはジュールに目を向けた。
「君だ。ジュール、僕は君が欲しい」
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