サクリフィス⑤

 ジュールは愕然としてエティエンヌの目を見返した。


「君が今ここで僕のものになったら、見逃してやる。都合のいいことにヤンもいない」


 ジュールはゴクリと唾を呑み込んだ。

 エティエンヌは愉快そうに言った。


「君は僕の視線に気づいてなかったの? 鈍感だね。結構あからさまに見てたと思うんだけどなあ。君のそのほっそりとした腰や、吸いつきたくなるような唇なんかをさ。ああ、一度でいいからこの子を自分のものにしたいなあって」


 ジュールは口もとを震わせてうつむいた。ストーブの炭がパチンと弾ける音がした。


「怖いかい? 今夜だけだよ。今夜だけ僕の思い通りになれよ。そしたら僕は何も言わずにここを去る。約束してやるよ」


 エティエンヌはそう言ってジュールの顔を窺った。沈黙の中でまた炭の弾ける音がした。


 ジュールは黙ってうな垂れたまま、目をきつく閉じて肩を震わせていた。──が、急にクッと小さく吹き出すと、低く笑い出した。


 エティエンヌが怪訝な顔をするとジュールは顔を上げた。

 

「……なあんだ、そんなことか」


 小さくそう呟くとジュールは口もとを歪めて笑った。そして嘲るような目でエティエンヌを見返した。


「結局そういうことか。あんたもおんなじか」


 今までとは打って変わった乾いた口調でそう言うと、ジュールはコートを脱いでベッドの上に放った。それから四つん這いになってベッドによじ登り、猫のような仕草でエティエンヌにすり寄った。


「いいよ、思い通りになってやる。なんでも言うことを聞くよ」


 ジュールは挑発するようにエティエンヌに顔を近づけた。

「ほら、キスしてごらん。吸いついてごらんよ。そうしたかったんだろ。こんなこと、僕はなんとも思わないよ」


 目の前に迫ったジュールの瞳には今まで見たこともない妖艶な色が浮かんでいる。エティエンヌはその色に気圧されて思わず体を引いた。


「なに遠慮してんのさ。早くキスしろよ」


 そう言うが早いかジュールはエティエンヌの顔を両手で挟んで唇を強く押しつけた。エティエンヌはその濃厚な接吻に呼吸を詰まらせ、思わず顔を背けて肩で息をついた。


 ジュールはそれを見てフンと鼻で笑った。


「怖いだって? 僕がヤンしか男を知らないうぶな人間だとでも思ってた? 見くびるなよ。むかし僕が何をやってたか教えてあげようか。僕はね、だったんだよ。これまでに一体何人の男と寝てきたと思う? あんたをよろこばせるくらい僕にとっちゃどうってことないんだ。さあ、早く脱ぎなよ。いいことしたいんだろ?」


 そう言ってカーディガンとシャツを乱暴に脱ぎ捨てるとジュールはエティエンヌの上にのしかかった。そして彼の手を取って自分の背中の傷痕にその指を押しつけた。


「ほら、これはその証拠。ヤンはね、僕が客からつけられたこの傷痕にいつも優しくキスしてくれるんだ。早く消えるおまじないなんだって。可愛いことしてくれるだろ、過去なんか消えっこないのに。……でもね、僕は嬉しいんだよ。涙が出るほど嬉しい。あの人のために僕はきれいになりたいんだ。でもなかなかんだよ、あんたみたいな人がいるからさ。だからもう僕は開き直ることにした。慰めてあげるよ。あんた本当は悲しいんだろ。だからぬくもりが欲しいんだろ。分かるよ。僕でよかったらいくらでも慰めてやるよ」


 普段とは別人のようになったジュールにエティエンヌはすっかり呑まれていた。いつもの涼しげなヘーゼルの瞳は熱っぽく潤み、自嘲の滲む悲しい色に変わっている。色んな人間が奪ったであろう唇が、今度は自分の首筋を這っている。指先に触れたケロイドが彼の過去を物語っている。


 エティエンヌはいたたまれなくなってジュールの体を押しのけた。

「やめろ!」


 エティエンヌは起き上がると声を震わせて呟いた。


「もういい。……冗談だったのに。本気にするなんて君も馬鹿だな」


 精いっぱい強がってエティエンヌは笑った。笑いながら思った。自分の負けだ。愛する人との生活を守りたいがために、誇りを捨て、過去をさらけ出して、他人の思い通りになろうとするなんて。こいつは本物の馬鹿だ。


「……早く服を着て帰れ。心配するな。君たちのことは誰にも言わないよ」


 ジュールは黙って起き上がると服とコートを羽織り、何も言わずにそのまま出て行った。エティエンヌは動くことができずにベッドの上に座り込んでいた。


 しばらくすると壁越しにジュールがベッドに入ったのが分かった。

 そっと壁に耳をつけてみると、彼の嗚咽が聞こえてきた。押し殺した低い嗚咽は、ときに子供のような弱々しい泣き声に変わり、また魂のちぎれるようなむせび泣きにも変わった。

 人の泣き声がこんなにも痛いものだということをエティエンヌは初めて知った。


 彼は両手で顔を覆った。

 ストーブの炭はすっかり小さくなって消えかけていた。



 エティエンヌは翌日、ジュールのいない間にアパートを出て行った。入れ替わるように同じ日にヤンが帰ってきた。部屋のドアを開けるとヤンが振り返って大きく両手を広げた。


 彼の胸の中に飛び込んで唇を重ねながら、ジュールは心の隅でこの口づけをとても苦いと思った。


 ──君は僕が裏切ろうとしたことも知らずにこんなにも優しく抱きしめてくれる。君と一緒にいると言えないことばかりが増えていく。君が愛情を注いでくれるほどに、僕はどんどん小さくなってゆく。こんなにそばにいるのに、少しずつ君が遠くなっていく……。


 頬をつたうしずくは、久しぶりに会えた嬉し涙ではなく、色んな感情がないまぜになって胸を突きあげる、悔し涙だった。




サクリフィス[仏]:犠牲、生贄、犠牲的行為

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