ふたつの心①

 箒を手に店の外に出るとふとジュールは空を見上げた。

 今日は一月には珍しくいい天気だった。夕暮れの空は淡い紅色と青が溶け合って雲を彩っている。犬と狼の間という奇妙な名前のこの時間がジュールは好きだ。晴れた日の夕暮れに見えるこの不思議な色あいの空が、ほんの少しだけ心を和ませてくれるからだ。


 店の前を掃除していると常連が通りかかった。


「よう、あとで一杯やりに行くからな。ケツ洗って待ってろよ」


 ジュールは作り笑いを返しながら心の中で舌打ちした。下品な奴だ。あいつは酔っぱらうとしつこいから嫌だ。


 場所を変えようと箒を引きずって店の角に向かった時、後ろから突然声をかけられた。


「……ベルジェ君? ベルジェ君じゃないか?」


 いきなり苗字を呼ばれ、驚いて振り返ると、そこには外套に身を包んだ若い男が笑いかけていた。


「やっぱりそうだった。横顔を見てあれって思ったんだよ。久しぶりだね」


 それは、マルセルというリセの同級生だった。


「やあ……しばらくだね」


 ジュールはタブリエで手を拭いてからにっこりと笑って握手した。──が、内心嫌なところを見つかったと思った。ジュールが一番避けたかったことは、知り合いに出くわして働いているところを見られることだったからだ。

 しかし学生の多いこの界隈ではやはりそうはいかなかった。


 マルセルはパリ生まれパリ育ちの生粋のパリっ子だ。屈託のないブルジョワのお坊っちゃんといったところで、リセに通っていた頃はそこそこに仲良くしていた。いつもとびきり仕立てのよい服を着て学校に来ていたが、今日の衣装もおそらく新調したばかりだろう。


 お決まりの挨拶の後で、マルセルは箒を片手に持ったギャルソン姿のジュールを見て不思議そうな顔をした。

 

「なんだいその格好?」

「うん、……実は、ここで働いてるんだ」

 見られてしまったからにはもう正直に答えるしかない。

「この店で?」

 マルセルは目を丸くして剥げかけた安ブラッスリーの看板を見上げた。


「なんで? バカロレアはどうした?」

「合格したさ、勿論」

 ジュールは即座に答えた。なぜか語調が強くなってしまった。


「今は、ただ、事情があって知り合いの店を手伝ってるだけだ。大学は来年登録しようと思ってる」


 思わず口から出まかせにヤンと同じことを言っていた。


「君は? 君は今、どうしてるの?」

 マルセルにそれ以上のことを訊かれる前に今度はジュールの方から問いかけた。


「うん、僕はパリ大学の文科だ。それから教授資格試験アグレガシオンのために高等師範学校の準備講座も聴講してる」


 ジュールは目を見開いた。頭を後ろからガツンとやられた気がした。


「高等……師範学校……?」


「ああ、将来はクレマン教授のように古典の研究を専門にして、いずれはパリ大学の文学部で教鞭をとるのが目標さ。そう言えば教授はお元気かい? まだ先生のお宅に住んでるの?」 

「え? あ、いや、今は……」

「へえ。いやね、きっと君とはどこかで顔を合わせるだろうと思ってたんだよ。てっきり大学か高等師範学校に行ってると思ってたからさ。君はあのリセでも優秀だったからね。しかもクレマン教授の書生みたいな感じだったろう。だから絶対また会えると思ってたんだけど。……まあブラッスリーで働いてるんじゃ会うわけもないか」


 マルセルは悪気もない様子でそう言った。


 ジュールは忌々しい気持ちでマルセルを眺めた。この一つ年上のちゃっかりしたパリっ子は、試験が近くなると決まってジュールのとったノートを書き写していたものだ。成績はいつもジュールの方が上だった。

 なのにこいつがパリ大学の文科だなんて。しかも自分が目指していた高等師範学校で聴講しているだなんて。


 マルセルはジュールが腹に抱えているものなどには気づきもせず、ひとしきり大学の様子を報告した。しかし彼が喋った内容はただジュールの頭の中を通り過ぎていった。


「どういう気紛れか知らないけど、こんなところで働いてないで早く大学に行けよ。大学の図書館はすごいぜ。君なんか飛び上がって喜ぶよ」


 マルセルは何の邪念もなくそう言って笑うと、それじゃあと背を向けて去って行った。ジュールは突っ立ったままその後ろ姿を見送っていた。


 旧友に会えて嬉しいという気持ちはなかった。頭に残ったのは、敗北という二文字だけだった。


「──畜生!」


 空の色はもう変わっていた。犬と狼の時間はいつしか過ぎて、辺りを冷たい闇が包み始めていた。




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