明暗
明暗①
「また増えてるじゃないか! いつの間に持って来たんだ?」
エドガーが素っ頓狂な声を上げた。気づかない間にジュールの枕もとにまた新しい本が積み重なっている。エドガーは本に近寄ると一冊手に取ってみた。
「今度は何だい?」
「『モンテ・クリスト伯』。無実の罪を着せられた男が、脱獄して大金持ちになって、自分を陥れた奴に復讐するって話なんだ」
「へえ。これ全部読んだの?」
「うん。もう少しで終わる。面白くてあっという間に読んじゃった」
ジュールが嬉しそうに答える。エドガーは呆れたような羨ましそうな目でジュールを見返した。彼の目は活き活きしてまるで子供みたいだ。
変わったなあ。エドガーは思う。
ある晩ジュールは数冊の本を抱えて部屋に戻ってきた。勤めを終えて疲れ果てているはずなのに、目だけが異様にきらきらと輝いていた。怪訝な顔をしてベッドにもぐり込んだエドガーをよそに、ジュールはろうそくを枕もとに持ってきて一冊目の本を開いた。夜中に目を覚ました時もまだ彼はページに目を走らせていた。
それからというもの、ジュールはすっかり本の虫になってしまった。昼につけ夜につけ本に顔をうずめている。昼間は箒をわきに挟んだまま壁に寄りかかって読んでいる。夜はろうそくが短くなるまで読み続ける。
一体どうしてしまったのだろうとエドガーは訝った。そもそもあんな難しそうな本を読めるほどの頭を持ってるとは思いもしなかった。しかもそばで見ているとかなりの速さで読んでいる。あれで頭に入るんだから大したもんだ。ちょっとページをめくってみたが、細かい字がずらずら並んでいるだけで意味が分からない。
アルファベットを小学校で習ったのなんてエドガーにとっては遠い昔のような気がする。母親の元を逃げ出してからは文字らしい文字など縁がなかった。だから字は苦手だ。小説など手に取ったこともない。こんな面倒くさそうなものが面白いんだろうか。こいつのおかげで自分の話を聞いてもらう時間が大幅に削られてしまった。
でもそんなことは構わない。彼は変わった。以前のような白けた顔や気だるそうな目つきはだんだんと影をひそめ、浴びるように飲んでいた酒をふっつりとやめてしまった。酒が残っていると本が読めなくなるからだと言う。
そのおかげで不機嫌に目を覚ますこともなくなったし、ちゃんと食べるようになった。そして何より、笑顔を見せるようになった。少なくとも自分といる時だけは屈託のない目で素直に笑う。その嘘のない笑顔を見ると、俺だけが本当のジュールを知っている、という気がして、秘密の特権を得たような嬉しい気持ちになるのだ。
エドガーは枕もとに積み上げられた小説を眺めながら思う。俺は知ってる。彼を変えたのは先生だ。そして先生の持って来る沢山の本だ。
火曜日のジュールは昼からうきうきしている。先生は毎週火曜日にいつも本を抱えてやって来る。先生が店に入って来るとジュールは子犬みたいに走り寄って行く。そして仲良さげに奥の扉へ消える。他の客に対する態度とはあからさまに違うので思わず失笑してしまうほどだ。相変わらずルネにこき使われて、嫌味なほど客を取らされているが、火曜日になればまた笑顔が戻る。そんなジュールを見ていると、エドガーは一週間に一度だけ生き返る花を見るような気持ちになるのだった。
「なあ、お前がそうやってやたらと本を読むのは何が原因なんだ」
ある夕方、ベッドの上で相変わらず分厚い本を抱きかかえているジュールにエドガーは尋ねてみた。ジュールはふと目を上げて、原因か、と考えた。
「多分、父さんだ」
「へえ? どういう意味?」
ジュールは苦笑しながら言った。
「僕の父さんはね、童話とか、昔話とか、一切してくれたことがないんだよ。ほかの子どもは色んな話を知ってるのに僕はそういうの聞かせてもらったことがないんだ。おとぎ話を聞きながら眠りにつくなんて友達がうらやましいって思ってた。だけどいくら父さんにねだっても、知らないって言われちゃうだけだから、自分で読むより仕方ないだろ。字を覚えたのもお話を覚えたいからさ。そしたら今度は読むことに夢中になっちゃった」
「はあ、なるほどな。そんなことがきっかけか」
ジュールはエドガーにチラリと視線を向けた。
「君だってお母さんにおとぎ話を聞かせてもらった思い出はあるだろ」
エドガーはすかさず笑った。
「チェッ、あの女がそんな、」
言いかけてふと口ごもった。
──ママン、おはなしきかせて。
頭の裏にあのサン=ドニの小さなぼろアパートの情景が浮かび上がった。仕事に出る前の母親がしてくれた小さな物語を思い出した。気持ちよく聞いている間にいつしか眠りに落ちて、知らないうちに母親は夜の街に出かけていた。ベッドに入った自分の額を撫でていた手はどんな感触だったか。
ママン、か……。
チェッ、下らねえ、忘れてしまえ。
思い出などない方がいい。思い出を持っていない人間の方が、持っている人間より幸せな時もある。
「まあ自分で読めりゃそれに越したことはないさ」
胸にこみ上げた湿っぽい感傷を隠すようにエドガーは笑った。
「それにしてもお前が本を読んでる時間は尋常じゃないぜ。よく頭がおかしくならないな」
エドガーの口調につられてジュールも苦笑した。
「確かに。ここまでくると中毒だな。自分でも分かってるよ」
それからふと真顔になると、ページに目を落としてポツリと呟いた。
「……だけど、読んでる間は色んなことを忘れられるからさ」
エドガーは口の端を上げたままジュールを見つめた。ジュールは目を伏せて力なく笑っている。目の下にはうっすらと隈ができている。
心の底に押し隠した感情は油断するとふいにこうやって表面に浮かび上がる。そんな時は涙が滲み出る前に心を乾かしてやるに限る。
「でもちゃんと寝ろよ。そんなツラじゃ客が逃げるぜ」
からかうようにエドガーが言った。
ジュールは笑いながらエドガーに向かってシャツを放った。
「うるさい、さっさと着替えろ」
効いたらしい。エドガーはそばかすの顔に皺を寄せて笑った。
そのうちエドガーはジュールに朗読をねだるようになった。エドガーの好きな台所での風呂の時間に、ジュールは彼の気に入りそうな話を読み聞かせた。ジュールの柔らかい声は聴きやすく、エドガーは湯に浸かりながら気持ちよく話に聞き入った。そして笑ったり、頷いたり、時にはうっすらと涙ぐんだりして朗読に耳を傾けた。ついには彼が部屋にいない時にこっそりと本を開いて自分で読んでみる気にさえなった。たどたどしく活字を指で追いながらふと我に返り、俺もすっかり感化されたものだとエドガーは一人で苦笑した。
ジュールが持って帰って来るのは小説や詩ばかりではなかった。たまに哲学や歴史の本まで抱えて来た。ジュールは眉間に皺を寄せてページを睨みつけていた。そのまま本を丸ごと食ってしまうのではないかと思うほどの気迫だった。こんなに集中されるとなんだか話しかけるのが悪いみたいだ。
それでも仕方なく、もう店の時間だぜと声をかけると、ジュールは現実に引き戻されたような顔をして、ああそうだねとため息をついて笑う。そんな時エドガーは彼を少し可哀そうに思う。名残惜しそうに本を畳む姿を見て、このままそっとしておいてやりたいと思う。
現実に引き戻されたジュールを待っているのは、いつもと変わらない、ルネの店だ。
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