出会い④

 ギヨームは一週間後にやってきた。ちゃんとジュールのことは予約してあった。彼はもうアブサンを飲んでいなかった。ベッドの中でギヨームはジュールを人形のように丁寧に扱った。ジュールはそれがなんとなく嬉しかった。


 ギヨームの腕枕の中でジュールはそっと尋ねてみた。

「ねえ、どうしてみんなお客さんのこと先生って呼ぶの?」

 ギヨームは苦笑した。

「大学で教えているんだよ。だからさ」 

「何を教えてるの?」   

「文学だよ」

 ジュールの目がきらめいた。

「そうか。じゃ本をたくさん読むんだね」 

「読むよ。うんざりするほど読むよ」


 ジュールは仰向けに寝返った。両手で腕枕をして天蓋を見つめる。


「いいなあ、僕もうんざりするほど本が読みたいよ」

「君は本なんか読むのかい?」

「読んでたよ。馬鹿にしないでくれ」


 ギヨームは意外な顔をして眉を上げた。そもそもこの子はちゃんと義務教育を受けたのだろうか。彼はジュールに向き直って尋ねた。


「どんなものを読む?」

「最後に読んでたのは『ゴリオ爺さん』だった」

 ギヨームは瞬きをした。

「あの、バルザックの?」

「他にどんなゴリオ爺さんがいるんだよ」

 もっともだ。ギヨームは苦笑した。

「でも結局途中までしか読めなかった」

「他にも何かバルザックは読んだかい?」

「短編をいくつかと、『ウジェニー・グランデ』。そしたら夢中になって、バルザックばかり続けて読んでた」

 ジュールは淡々と答えた。

「なるほどね、分かるよその気持ち」


 ギヨームは微笑みつつも心の中で目を丸くしていた。こいつは驚いた。自分は少なからず彼を見くびっていたようだ。


「他にはどんな作家を読んだ?」

「アレクサンドル・デュマとか、ジュール・ヴェルヌとかさ」

「ジュール・ヴェルヌか。昔を思い出すなあ。月世界に憧れたもんだよ」

 ギヨームは懐かしそうに笑った。ジュールは目の端でその様子を見てクスッと笑うと、天蓋に目を向けてぼそりと言った。

「でもね、僕が好きなのはモーパッサン」


 ギヨームは不意を突かれたような顔をした。

「へえ、それはどうしてだい?」

「乾いてて、残酷で、後味が悪いから」

 ギヨームは思わず吹き出した。ジュールは悪戯っぽい目でギヨームをチラリと見た。

「可笑しい?」

「いや、上手く言い当てているからさ」

 ジュールは小さく笑った。

「冗談だよ。確かにあんまり愉快じゃないけど、でも冷たいようでいて情があって、読んでるとね、人間が所詮は滑稽な動物でしかないんだって思えてくるんだ。そういうところが好きなんだ」

「なるほどな」


 ギヨームは頷きながら自分の心が躍ってくるのを感じた。なかなか生意気じゃないか。もっと訊いてやろう。


「じゃあ、詩なんかも読むかい?」

「うん……少し読んだ。ボードレールとか、ユゴーとか……」

「ほう。例えばどんなのが好きだ?」

 ジュールは宙を見上げて考えた。

「そうだな……。『飛翔エレヴァシオン』という詩が好き。ボードレールの。最後のところが好き」


「──幸せな者とは、ひばりのような心で、朝の空を自由に羽ばたく。人生の上を飛翔し、物言わぬものや、花たちの言葉を、何の苦もなく理解する。……そんな感じだったかな」


「すぐに出て来るんだね、すごいや」 

 ジュールは嬉しそうな顔をした。

「まあ、仕事だからね」


 素直に感心するジュールを見てギヨームはくすぐったく感じた。なにを赤くなっているんだ。若い子に褒められて照れているなんてそれこそ滑稽だ。


 今度はジュールがギヨームに向き直った。

「お客さんは誰が好き?」

「詩人かい?」

「そんなに頭に入ってるんだったら気に入ってるの何か聴かせてよ」

 挑発するような目でジュールがねだる。そのさまが妙に愛らしい。


 ふむ。ギヨームはベッドに半身を起こすと枕を背もたれにして座り直した。口ひげを撫でて少し考える。 

「これはどうだい」

 ギヨームは目を閉じ、静かに息を吸った。それからひと言ひと言噛みしめるようにゆっくりと言葉を繰り出した。


 『秋の日の

 ヸオロンの 

 ためいきの

 身にしみて 

 ひたぶるに

 うら悲し。

 鐘のおとに

 胸ふたぎ

 色かへて

 涙ぐむ 

 過ぎし日の

 おもひでや。

 げにわれは

 うらぶれて

 こゝかしこ 

 さだめなく

 とび散らふ

 落葉かな。』



 ギヨームは目を開いた。

「ヴェルレーヌの詩だよ。君なら知ってるかな」

 そう言いながらジュールに目を向けた瞬間、ギヨームはハッとした。その姿を見て心臓がドキリと音を立てた。

「ジュール……?」


 ジュールは泣いていた。


 仰向けになったまま、手をまぶたの上に乗せて、声を出さずに静かに涙を流している。


「どうした?」

 ギヨームが向き直るとジュールの口から小さな嗚咽が漏れた。 

「どうしたんだね、ジュール」

「なんでもない……ごめん……なんでもない……」

 震える声で呟きながらジュールは手の甲で涙を拭った。


 詩を暗唱するギヨームの声には、いつしかあの低くて澄んだ声が重なっていた。ジュールの耳にあの穏やかな優しい声が聴こえてきた。それは紛れもなくあの人の声だった。脳裏にはあの部屋がまざまざと蘇っていた。彼がヴェルレーヌの詩集を開いている。顔を上げてジュールに目を向ける。


 ──……どう?

 ──……暗いね。

 ──暗いよ。そこがいいんだ。


 あの明るい茶色の瞳。ジュールに向かって優しく微笑んだまなざしがまぶたの裏に鮮やかに蘇る。ジュールは心の中で彼の名を叫んだ。


 ヤン──!


 愛しい人。苦しいほど恋しい人。忘れることなんてできない。あの時、確かに僕は幸せだった。僕は彼がくれたすべてのものに包まれていた。僕はあんなにも幸福だった。彼と過ごした時間はあんなにも喜びに溢れていた。

 だけど、そんな時間はもう二度と戻って来ない。心の隅っこに押しやった過ぎし日の思い出。そして今の自分は、汚れ、荒みきって、さだめなくとび散る、ただの落葉──。


 泣き止もうと努めたがあとからあとから涙が湧き出てくる。一度ほどけてしまった感情はとりとめもつかないほど溢れ出してしまう。ジュールは寝返ってギヨームに背を向けると必死で呼吸を整え、枕で乱暴に頬を拭いた。


「……それ、いい詩だね」

 ギヨームに振り返り精いっぱい笑いかける。

「僕、今まで暗くてつまらないと思ってたけど、いい詩だね。あんまり暗唱が上手だから、感動しちゃったよ」


 ごまかすように笑って見せても、その顔はもう悲しく翳っている。目を伏せたジュールの唇が自嘲気味に呟く。

「その詩の意味……やっと分かったよ……」

「ジュール……」


 涙でぽってりと腫れたジュールの唇を見つめながら、ギヨームは胸の奥が締めつけられるような痛みを覚えた。

 この少年はどうしてこんなところにいるのだろう。頭の回転が速く、感受性が豊かで、小学校どころか中等学校ほどの知性をちゃんと持っている。どこでどんな教育を受けたのか知らないが、もしかしたら非常に利発な子なのではないか。だとしたら、なぜこんな裏小路の店にいて売春などしているのだ。人を疑い、怯えた、野良猫のような目をして。


「……今度はもう少し明るいやつがいいな。知ってるんでしょ色々」

 無理やり笑おうとするジュールをギヨームは思わず胸に抱き寄せた。この少年のために何かしてやりたいと思った。自分が彼のために何かしてやれることがあるとすれば……。


「ジュール、今読むとしたらどんな本が読みたい?」

 ジュールは濡れた瞳を宙へ泳がせた。

「そうだな……『ゴリオ爺さん』の続きかな。まだ半分ぐらいしか読んでないんだ。あと、ランボーの詩を読んでみたい」

 ランボーの詩集は結局ヤンに借りることはなかった。暗黙の了解のようにあの詩集はお蔵入りになっていた。本当はとても興味があったのだが──。


「分かった。持って来てやろう」

 ギヨームが言った。

 ジュールは目を見開いた。

「本当に?」

「ああ。来週、持って来てやろう。君を予約しないとね」

 ギヨームが優しく笑った。

 ジュールは息を弾ませてギヨームの首に抱きついた。

「ほんとだね、約束だよ! ありがとう──!」


 まだ睫毛も乾かないうちに嬉しさに頬を染め、満面の笑みを浮かべるジュールをギヨームはまじまじと見つめた。

 大きく開いた瞳はまるで生き返ったように喜びに溢れている。にっこりと笑った口に白い歯が並んでいる。こんなに明るい顔をするとは知らなかった。きっとこれが彼の本当の顔だ。屈託のない十五歳の少年の顔なのだ。


「楽しみに待ってなさい」 

 ジュールの髪を撫でながら、ギヨームは口もとをほころばせた。


 秘密の宝物を見つけたような胸のときめきを、ギヨームは感じていた。

 どうやら、私は恋に落ちてしまったらしい……。

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