罠②
ジュールは少し緊張しながら男に従って歩いた。市松模様のタイルを敷いた通路を進むと左手の扉から中に入った。
目の前にはもう一つ大きな扉があったが、そこは閉まっていた。すぐ右側には紅い絨毯を敷いた螺旋階段があり、真っ白な壁には植物の模様の装飾が施されている。香を焚いているのか不思議な匂いが辺りに漂っている。ジュールは男について階段を昇った。
三階へ上がって突き当たりの部屋の前で男がドアをノックした。
「連れて参りました」
「入りなさい」
低くくぐもった声が聞こえ、隻眼の男はドアを開けた。広い部屋だった。壁際には数人の男たちが控えている。みな少し怖い顔をしている。一番奥の大きな書斎机に、恰幅のよい中年の男が座っていた。たっぷりとした口ひげを蓄えている。ジュールはこれが屋敷の主人に違いないと思った。
男が耳もとで小さく言った。──こちらがムッシュ・ルネだ。
「ほほう、随分きれいなのを寄越したじゃないか」
ルネという男は丸い目を細めた。目の奥には鋭い光が差していた。
「ジュールだね」
「はい」
「いくつだね」
「十五です」
「もう少しこちらへおいで」
ルネに手招きされ、ジュールは鞄を置き、おずおずと前へ進んだ。
「笑ってごらん」
「え?」
「笑ってごらん」
言われるがままにジュールは口の端を上げてみせた。なんだかよく分からない。
「いいね、可愛い」
ルネはひと呼吸おくと、まるで医者が診察するような事務的な口調で言った。
「肌を見せてごらん」
「へっ?」
ジュールは耳を疑った。
「聞こえないのかねさっきから。脱げと言ってるんだよ。上半身でいい。体を見せてごらん」
ジュールが躊躇していると隣に立っている隻眼の男が急かすように小突いた。
「早くしろ」
ジュールは訳の分からぬまま上着を脱ぎサスペンダーを下ろした。ボタンに手をかけて三つ四つ外したところでルネが鋭い眼光でじっとこちらを見ているのに気づいた。周りの男たちも一様にこっちを見つめている。異様な気配だ。
ジュールは怖くなり、手を止めたまま動けなくなった。すると隻眼の男が近寄っていきなりシャツを背中まで引き下げた。
「何するんだ!」
驚いて抵抗すると男は黙って後ろ手にジュールを掴んだ。
「痛い!」
ジュールは思わず叫んだ。すごい力だ。身動きが取れない。
「おいシモン、乱暴な真似をするな。あざでもついたらどうする」
ルネは苦笑しながら男にそう言うと、煙草を手に椅子から立ち上がり、ゆっくりと目の前にやって来た。
「見れば見るほどきれいな子だね」
ルネの大きな目がジュールを覗き込んだ。煙草のけむりが目の前を漂い、ジュールは少しむせた。目をしばたかせていると肉の厚い手が頬に触れた。ジュールは身の毛がよだち、思わず顔を背けた。しかしルネの太い指は構うことなく頬から鼻、鼻から唇、唇からあごへと、蛇のようにゆっくりと這っていく。目の端でルネの指の動きを追いながら、ジュールは鼓動がどんどん速くなるのを感じた。ルネの指は首筋から肩の方まで伸びた。
「申し分がない。上出来だ。背中を見せなさい」
男が手首を掴んだまま体を回転させた。ルネはジュールの体を舐めるように上から下まで眺める。
「ふむ、きれいな肌だ。滑らかで傷もない。足もまっすぐだ。少し細いが均整の取れた肉づきをしている」
ルネの口調はまるで果物の品定めでもするかのように淡々としている。
「これならすぐ店に出せるな」
ジュールは顔を上げた。店に出せる?
「よかろう。シモン、もう放してやりなさい」
シモンはジュールの手を放しシャツを引き上げた。掴まれていた手首がじんじんと痺れて痛かった。ジュールは服を整えながら怪訝な顔でルネを眺めた。ルネは煙草のけむりを吐き出しながら悠々と椅子に戻った。
「結構だ、気に入ったよ」
「エドガーと相部屋にします」
そばにいた小柄な男が言った。
「いいだろう、歳も近い。体に合う着物はあるかね」
「部屋にトマの使っていたものが残っています」
ルネは不愉快そうに眉をしかめた。
「なんだ、まだ処分してなかったのか。ゲンが悪い。新調してやりなさい。店の方のベッドは使えるんだろうね」
「全部取り換えてあります」
「よろしい。今日から店に出す」
「今晩からですか?」
小柄な男が訊き返した。
「ああ。この子は見栄えがする。すぐに客がつくさ」
男にそう答えるとルネはジュールに向かってニヤリと笑いかけた。
その眼を見て背中に冷たいものが走った。
さっきから嫌な予感がしている。自分をそっちのけにどんどん進んでいく会話を聞いているうちに、頭の中に一つの疑念が湧いてくる。店に出す。ベッド。客がつく……。
まさか、ここは──。
「ち……ちょっと待ってください」
ジュールは無理やり声を絞り出した。
「その……僕は、何の仕事を……」
ルネはチラリとジュールを見ると不思議そうな顔をした。
「なんだ、お前さんは何も知らずにここへ来たのか」
ジュールは首を振った。
「使用人だと……そう聞いてきただけです」
ルネは声を上げて笑った。
「そうかそうか。なるほど、着いてからのお楽しみというわけか。あの男も人が悪いな。じゃあ説明してやろう。坊や、その通り今日からお前はうちの使用人だ。と同時に、ここで私が経営する店でも働いてもらう。まあ言ってみればそちらが本業だがね」
「それで、僕は何を……」
「お客様に奉仕するんだ。お前のその体を使って」
「奉仕?」
ルネは目を細めてジュールを見た。
「分からないかね。お客様の夜のお相手をするんだよ」
ジュールは絶句した。
やはりそうだ。この男が果物の熟れ具合でも確かめるような目で品定めしたのは、自分の売春宿で売りものにするためだったのだ。階段に漂っていた怪しげな香の匂いが蘇る。ジュールは震えあがった。
「いやです、帰してください! お願いです、帰してください!」
「そういう訳にはいかんよ、坊や」
ルネは椅子に仰け反ってジュールをじろりと見つめた。
「お前さん、稼ぎそうだからね」
鋭い目の奥がいやらしく笑っている。
「おい、あれを出せ」
ルネはそばにいた男に言った。男は胸ポケットから紙を取り出し、机の上へ広げた。
「契約書だ。サインしたまえ」
ジュールは後ずさった。その肩をシモンが捉え、机の前に押しやった。
「まずは三年の契約だ。稼ぎ次第で契約延長も考えよう」
ジュールは青ざめた顔で差し出された契約書に目を落とした。網の目をくぐるような巧妙な文章だが、要するにここでルネの使用人としての契約を結び、ルネの顧客に対する商業行為をするという意味のことが書いてある。
ジュールは首を振った。
「いやです! お断りします!」
「お前に断る権利はないよ。もうフレデリックに前金を払ったんだ」
「えっ?」
ジュールは耳を疑った。
「フレデリックが言っていたよ。弟にちょっかいを出す下男がいるから困っている、どうか引き取ってくれとね。ここなら思う存分男に抱かれることができるぞ。本望だろう」
息が詰まった。別れ際ニヤリと笑ったフレデリックの顔が浮かんだ。──しっかり働くんだよ。
「さあ、名前を書くんだ」
ジュールはなおも首を振った。
「いやです!」
その時こめかみに冷たいものが触った。耳もとで低い声がした。
「パトロンの仰る通りにしろ」
ピストルの銃口は驚くほど冷たく、ジュールは背中まで凍りついた。目の前には契約書とペンが突き出されている。
生きた心地がしないというのはこういうことなのだろう。
ジュールは震える手でペンを握った。言われるがままに名前を書いた。書き終わった途端、体じゅうがぶるぶると震え出した。
ルネは小型の金庫を開けると持ち重りのしそうな麻袋を取り出した。どさりと机の上に置くと、そばの男に言った。
「これをフレデリックに。私が満足していたと伝えなさい」
そしてまたあの事務的な口調で言った。
「連れていけ」
シモンがジュールの腕を取り、床に置いたままの鞄を拾った。ジュールはしっかりと掴まれたまま、引っ張られるようにして部屋を出た。
「後ほど店で会おう」
背後でルネの声が聞こえた。
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