罠③
ジュールはシモンに腕を掴まれたまま階段を降りた。建物の裏に出ると中庭があり、そこには二人の少年がいて煙草を吸っていた。ジュールを見ると二人は顔を見合わせて何事か囁き合った。そこへ食物の入った籠を抱えた少年が男と一緒に通りかかった。皆が同じような目で一様にジュールを見た。ジュールはうつむいて中庭を通り過ぎた。
中庭側にはもうひとつの建物があった。屋敷と同じく五階建てだった。中はひんやりとしてかび臭い。入ってすぐにある螺旋階段を後ろからシモンに急かされるように上った。一番上の階まで来ると、階段を囲むようにして六つの扉があった。その一つの扉の前でシモンが言った。
「ここがお前の部屋だ」
そしてドアを開けるとジュールを中へ押し込んだ。
細長い部屋には小さな窓が一つだけついており、粗末なベッドが二台、左右に振り分けて置いてある。壁際には洗面台を置いた小さなテーブルと椅子、その前に鏡が据え付けられている。ドアのすぐ横にはクローゼットがある。それら全てがこの狭い部屋の中に窮屈に置いてあった。
「左のベッドを使え」
そう言うとシモンは鞄を床へ置いた。
「着換えは新しいものが届くまでクローゼットに入っているものを使え。あとのことはエドガーに聞けばいい」
そして鋭い片目でジュールの顔を見据えた。
「逃げようと思うなよ」
低い声でそう言い残すとシモンは出て行った。ジュールは唾を呑んだ。ドアが閉まり、外から鍵をかける音がした。
ジュールは頭を抱えた。どうしよう。どうしよう……こんな馬鹿な!
ドアへ駆け寄って何とか開けようとしてみたが鍵は二重に回されていた。ジュールは振り返って窓に走り寄った。窓には鉄格子がついている。すぐ下にはさっきの中庭があり、誰かが建物の中へ入るのが見えた。ジュールは狭い部屋の中をうろうろと歩き回った。何とかしなくては。どうにかして逃げ出さなくては。気ばかり焦り、脂汗が体中に湧き上がる。
誰かが階段を上って来る足音がして、部屋の前で止まった。ジュールは身構えた。ガチャガチャと鍵を開ける音がしてドアが開いた。
「よう。お前が新人かい?」
入って来たのはジュールと同じぐらいの年格好の少年だった。クセの強い赤みがかった髪をしていて、色白の顔にはそばかすがある。袖をたくし上げたシャツの上に泥のついた大きな前掛けをしている。かかとまである紐靴にも泥がついている。
「俺エドガー。これから相部屋だな」
少年は人懐っこく笑った。
ジュールはとっさに鞄を掴むとドアへ走った。エドガーは素早くドアの前に立ち塞がった。笑顔が消えて挑むような目でジュールを睨みつける。
「頼む、出してくれ!」
ジュールは説明しようと必死でまくし立てた。
「僕はだまされたんだ、こんなはずじゃないんだ! 違うんだよ!」
「騒ぐなよ」
「ここから出たいんだ! 出たいんだよ!」
「騒ぐなって!」
エドガーはジュールの口を押さえ、耳もとに口を近づけて言った。
「ここに来てしまったら、あきらめろ」
いやにドスの利いた低い声にジュールはハッとしてエドガーの顔を見返した。彼の目は冷静で、どこか年寄りのような変な落ち着きがある。
「まあ座れよ。今飛び出したところで捕まるだけだ」
エドガーはジュールをベッドへ座らせ、自分も隣へ腰かけた。
「お前、売られて来たのか?」
ジュールは震えながら頷いた。
「そうか。気の毒にな」
エドガーは同情するような声で言った。それから少し間を置き、あっさりとこう言った。
「でも逃げられないぜ」
ジュールは狼狽してエドガーを見た。
「契約書にサインしたんだろ」
ジュールが頷くとエドガーは肩をすくめて笑った。
「じゃあ駄目だ。ルネはしつこいぜ。逃げたって連れ戻されるのがオチだ」
「無理やりサインさせられたんだ。ピストルを突きつけられて」
「そんなの知ったことか。どうにもならないよ。お前はもうルネと契約しちまったんだから」
エドガーはさらに続けた。
「そもそも逃げようったって無駄だ。ルネの子分どもを見たろ、あんなのがいっぱいいて、その辺をうろうろしてるんだ。ルネはこの店以外にも色んな商売やってるから。ここはあのヤクザの巣窟なんだ。とにかくこの屋敷からは出られないと思いな。俺だってここに来てから一年経つけど、一度も出てねえもん」
「え……?」
「こないだまでトマっていうのがいたんだけど、あいつは馬鹿だから何回も逃げようとした。結局死んだけど」
「どうして」
エドガーはそれには答えずジュールのベッドを触った。
「これはトマが使ってたベッドだ」
ジュールはぞっとしてベッドから立ち上がった。エドガーは笑いながら上着の裾を掴んで引き戻した。
「大丈夫だよ。幽霊なんか出ないよ。ついでに店の方のベッドはきれいに片付いてるから安心して使いな。どうせトマの部屋を使うんだろ」
そしてすぐにこうつけ加えた。
「あ、仕事のときの部屋って意味だよ。ここじゃ客は取れないだろ。あとで説明してやるよ」
エドガーは改まった様子でジュールの方を向くと、上着の襟を直してやりながら兄のような口調で言った。
「お客の言うことはちゃんと聞くんだぞ。逆らったり反抗したりするなよ」
ジュールは青ざめ、エドガーの手を振りほどくと両手で頭を抱えた。
「こんな馬鹿な…嘘だろう、嘘だ。使用人だって聞いていたのに……!」
それを聞いてエドガーはあっけらかんと笑った。
「俺だって使用人だよ。庭師の真似事やってるんだ。見て分かるだろ」
エドガーは前掛けのポケットから植木鋏を取り出して見せた。
「ここに居る連中はみんな使用人だよ、ルネの屋敷の。表向きはね」
ジュールは中庭で見た少年たちを思い出した。では彼らもそうだということか。
ルネの理屈ではこうだ、とエドガーが言った。ルネの店に客がやって来る。で、客と俺たちが勝手に出会って勝手に恋愛して、勝手に寝る。でもルネはそんなの知ったこっちゃない。客が払う金はあくまでも飲み代だ。
「警察は? 警察は何してんだい。こんなの不法だろう」
ジュールが声を潜めるとエドガーは馬鹿にしたように笑った。
「ルネを引っ張って俺らを自由にしたところでどうなる? 泥棒や立ちんぼが増えるだけさ。あいつらにとっても犯罪を防ぐためにはちょうどいいんだ。だから見て見ぬふり、お見過ごしさ。それにルネの店は特別だ。だってその警察のお偉いさんがお客さんだもの」
エドガーは秘密をばらすように言うとクククと笑う。ジュールは眉間に皺を寄せた。なに笑ってるんだ。こいつ頭がおかしいに違いない。
「いつから店に出るの?」
明日の天気でも尋ねるような調子でエドガーが訊いた。今日から店に出す。ルネの言葉を思い出した。手の中にまた脂汗が湧いた。
「そうかあ。着いたばっかりでご苦労さん、まあ頑張れよ」
ジュールはすがるような目でエドガーを見た。
「何とかならないのか?」
「何ともならないよ。言っただろ」
エドガーが冷たく言った。もうお前はここの人間だ。せいぜい稼ぎなよ。この生活も悪くないぜ。慣れりゃ楽なもんさ。そう言ってエドガーはまた年寄りのようにひっそりと笑った。
ジュールは呆然とした。
まんまとフレデリックの罠にかかってしまった。パリに着いてから数時間も経たないうちに、ジュールはあっさりと彼の用意した落とし穴に突き落とされていた。
エドガーはジュールの顔を覗き込んだ。
「で、お前の名前は?」
ジュールは口をつぐんだ。
「答えろよ」
エドガーはジュールのあごをぐいと持ち上げた。目の端でエドガーを見上げて、ジュールは小さく答えた。
「……ジュール」
「よろしくな、ジュール」
エドガーは満足そうに微笑むと、冷たくなったジュールの手を取って力強く握手した。
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