罠④

 ヤンは駆け足で森番の小屋へ向かった。大学の新年度が始まって初めての週末だ。何よりもまずジュールの顔を見たかった。

 

 ドアを開けると、フェルナンがテーブルに猟銃を並べていた。


「ああ、これは坊っちゃん、お帰りなさい。ご無沙汰しました」

「やあ、フェルナン! 帰って来たんだね。元気かい?」

「ええ、うちの方はお陰様で片付きました。それより坊っちゃん、これ、坊っちゃんが?」


 フェルナンは猟銃を指した。


「今確かめたら全部きれいに磨いてあるんでびっくりしました」

「ああ、それはジュールと二人でやったんだ。新品みたいだろ」

「……ジュールってのは、もしかして」

「どこにいる? 森かい?」


 フェルナンの顔がかすかに曇った。


「坊っちゃん。その子なら、もう居ませんよ」

「なに?」

「ジャンが言ってた子でしょう。あたしがいない間に坊っちゃんと森の手入れをしてたっていう……。木曜にオルレアンの駅まで送って行ったそうです」

「なんだって?」

「あたしは昨日帰って来たもんで。もうここには誰も居ませんでした」


 ヤンは小屋を飛び出した。

 屋敷に飛び込むとベルナールの書斎に駆け込んだ。


「お父さん」

「おう、ヤン。帰って来たか。ちょうどいい、お前に話があるんだ」

「ジュールはどこです?」


 ベルナールは黙った。そう来ると思っていた。


「ジュールはどこへ行ったんです?」

「落ち着け、ヤン」

「おれがパリに戻ってまだ一週間もしないうちに、」

「まあ聞きなさい」


 ベルナールの声が大きくなった。ヤンは我に返った。

「すみません」


 ベルナールは机の上で両手を組んだ。

「ジュールは、解雇した」

「解雇……?」

「パリに使用人の仕事の口があったので、そちらに斡旋した。今週ここを発った」

「どうして……そんな急に。おれに相談もなしに」

「なぜお前に相談する必要がある?」


 ベルナールにじろりと見返されてヤンは口をつぐんだ。


「あの子を解雇するのにお前の許可が必要だとでもいうのか」

「そうでは……ありませんが……」

「ヤン。ジュールのことは忘れなさい。あの子はもうよその家の使用人だ。もううちとは関係ない」

「ずいぶん冷たい言い方ですね」

「それに、お前だって、これから新しい生活が待っているのだから」

 ヤンは眉をしかめた。

「どういう意味です?」 

「お前を留学させることにした」 

「何ですって?」

「ドイツに行ってこい」


 父の唐突な言葉にヤンは面食らった。


「ちょっと待ってください。何をやぶから棒に、」

「その腐った頭を入れ替えて学業に集中しろ」

「はあ? 何のことです」

「まっとうな人間に戻るんだ」

「仰る意味が分かり……」

「黙って親の言うことを聞け!」


 ベルナールが珍しく声を荒げた。ヤンは唖然として父の顔を見た。いつもの父の様子ではない。


 ベルナールは大きく息を吐いて椅子に寄りかかった。


「ヤン。人の道を外れてはいかん」

「人の道?」

「お前はこれから医者になる人間だろう。滅多なことに惑わされてはいかんのだよ」

「何のことですか?」

「ジュールだ」

「……え?」

「お前とジュールの関係は、人の道に背いているんだよ。分かるね」


 ヤンはあっと叫びそうになってあわてて口を覆った。


「私だって、まさかと思った。信じたくなかったがね。あの子が、そうだと認めたのでね。もう置いておくわけにはいかなくなったんだよ」


 フレデリックに違いない。ヤンは思った。呼び出されて問い詰められたのだろう。きっとごまかすこともできず、うな垂れて頷いたのだろう。胸の奥がキリキリと痛んだ。


「……兄さんはどこです? 兄さんと話してきます」

 出て行こうとするヤンをベルナールがぴしゃりと止めた。

「やめなさい。あいつは留守だ」


 ベルナールはヤンをじろりと睨みつけた。

「お前は自分のしたことを恥ずかしいとは思わんのか。よりによって下男と間違いを犯すなど……」

 ヤンは父を睨み返した。

「それで、僕を島流しにするつもりですか。それが、僕への罰ですか」

「なんだその言い草は。留学させてやると言っているんだ。性根を叩き直して来いと言っているんだ!」

 父の声がひときわ高くなった。ヤンは思わず唇を噛んだ。


 ベルナールは息子を見つめると厳しい声で言った。


「甘えるなヤニック……いいか……勘当されないだけでも有難いと思え」


 ヤンは父の目に強い憤りと失望を見た。初めて見るその目にヤンは返す言葉を失った。


「これは親の命令だ。もう書類も揃えてある。余計なことはきっぱりと忘れて、勉学に勤しみなさい。分かったね」

 


 重たい足どりで森番の小屋へ来ると、フェルナンが手帖を差し出した。

「これ、坊っちゃんのですか?」

 ヤンは手帖を受け取った。それは、ジュールが書き取りをするときに使っていた手帖だった。置いて行ってしまったんだ。

 そっと開いてページを繰る。ミミズの這ったような下手な字が日を追うごとにきれいな綴りに変わっていく。ヤンはそれを見ながら胸が張り裂けそうになった。


 最後のページにはジュールの言葉が残されていた。


『ヤンへ、

 お別れです。さようなら。

 ありがとうって、ちゃんと目を見て言いたかった。

 僕は幸せだった。

 ずっと、これからもずっと僕の心は君のそばにある。

                           ジュール』


 ヤンはくらくらと眩暈を覚えた。これは現実だ。紛れもなく、ジュールは行ってしまった。もう取り戻すことのできないどこかへ。


 とめどもなく涙が溢れて来た。また失ってしまった。自分の愛する人を。


 ジュール……! ジュール……! 


 肩が激しく震えた。涙のしずくがページの上にぽたぽたと落ち、ジュールの字が滲み始めた。


 フェルナンは何も言わず、そっと森番の小屋から出て行った。

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