新しい生活④
家の中でジュールが一番親しくなったのはマチルドだった。この八歳の少女は一旦打ち解けると今度はやたらとジュールに構うようになった。彼女にとっては兄ができたような気持ちなのだろう。ギヨームとエレーヌにとっては、結婚十年目にしてやっとできた宝物のような存在だ。
口が達者でおしゃまなマチルドはいつも家族の中心にいたがり、注目を集めようとした。ジュールが来てからは何かにつけてジュールに相手をせがんだ。彼は喜んで遊び相手になった。
普段気を張っているだけにこの無邪気な少女と一緒にいると癒されるような気がする。油断してしまいそうになる。一度マチルドにせがまれて抱き上げてやったことがある。小さいが意外と重かった。
「重いんだね、マチルド。子ヤギみたいだ」
思わずジュールはそう口走ってしまった。あっと思った時にはギヨームが怖い顔をしてこっちに目配せしているところだった。
「子ヤギ? ジュールは子ヤギを抱いたことがあるの?」
「う、うん。一回だけね」
マチルドを下ろしながらジュールはわきに冷や汗をかいた。気をつけなければ。
それでも生活はうまくいっていた。エレーヌはいつも穏やかに微笑みかけ、生活のこまごまとしたことを尋ねた。ここはあなたの家なんだから遠慮することないのよ。足りないものがあったらちゃんと仰い。
母とはこういうものなのだろうかとジュールは想像した。会ったことのない自分の母を何となくエレーヌに重ねたりした。無邪気に母の胸で甘えるマチルドを見ながら、甘酸っぱいような、うらやましいような気分になるのだった。
マチルドは学校の送り迎えはジュールがいいと言い出した。アンヌが首を振ったけれども聞かないので、週に二日はジュールが気分転換も兼ねて送り迎えをすることになった。
学校の帰りにマチルドは近くにある公園に行きたがった。よく整備された広い公園で、敷地には宮殿のような建物がある。後でギヨームに訊いたらそれは議事堂とのことだ。
家に帰るまでのほんの少しの間、広大な公園のベンチに座ってマチルドを遊ばせながら本を読むのがジュールは好きだった。とても平穏で気持ちの良い時間だった。
ジュールはだんだんとこの暮らしに慣れてきた。
もう街へ出ても怖気づくことはなくなった。レストランの立派な内装を見ても気後れすることはなくなった。ナイフとフォークは上手に使えるようになった。
十七歳になったジュールを連れて家族は短い夏をノルマンディーで過ごした。滞在先のドーヴィルでジュールは生まれて初めて海というものを見た。
マチルドは当然のごとくジュールを離さず、砂の城を作ろうとせがんだ。二人は大西洋の潮風を浴びながら仲の良い兄妹のように戯れ、大きな砂の城を作った。
秋になり、ギヨームはバカロレアの合格率で定評のある近くのリセにジュールを通わせることにした。また勉強に追われる日々が始まった。
しかしジュールには明確な目標があった。バカロレア。人生の扉を開く鍵を、どうしても手に入れたい。学校の授業も家での勉強もその目標のための道のりだ。誰のものでもない、自分だけの道。こんなにはっきりとした自分の道を見つけたのなんて生まれて初めてだ。
リセではある程度仲の良い友人もできた。それでも友人たちとはつかず離れずの関係を保つように努めた。あまり仲良くなりすぎては危険だと思ったからだ。
そうしているうちに季節は移り変わった。ギヨームの家に来た当初の不安が嘘のように、ジュールはすっかりこの生活に根を下ろしていた。
そして十八歳の誕生日を迎える少し前、ジュールはバカロレアの一次試験を受け、それに合格した。
「よくやった。このまま行けば大丈夫。気を緩めず頑張りなさい」
目尻に皺を寄せ、満面の笑みを浮かべるギヨームを見てジュールは胸がいっぱいになった。軌道に乗り始めた人生を導いてくれたギヨームに心から感謝した。
「全て先生のおかげです。先生に会えなかったら、僕は今ごろどうなってたか分からない」
「いや、お前の努力の賜物だ。自分を誇りに思いなさい」
ジュールの肩を叩いてギヨームは微笑んだ。
二年半前に始まった男娼とその客の関係は、今や尊敬と信頼によって強く結ばれた間柄へと変わっていた。父子のようであり、師弟のようでもあり、またそのどちらでもない、不思議な絆でしっかりと繋がっている。
ギヨームは、愛という形のない感情がこの少年によって具現化されているのを感じていた。家族に対する愛情とは違う、特別な愛を注ぐ相手がいつもそばにいる、それが何よりの幸福だった。
私が一生大切にしよう。死ぬまで面倒を見よう。ギヨームはそう心に誓った。
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