新しい生活③

 色々悩んだ末、ギヨームはジュールをしばらく自宅で勉強させることに決めた。リセに入れるまでの間、彼にとって不足している科目を補う必要があると思ったのだ。

 フランス語や歴史や地理などはルネの店で相当教えた。しかしまだ普通の生徒と並ぶには勉強が足りていない。彼のためだけに教えてくれる個人教授が必要だ。


 その話をすると、ジュールはギヨームをこっそりと部屋へ呼んだ。


「これを見て」

 そう言いながら自分が持って来た旅行鞄を開けた。

「何だ、これは?」


 ギヨームは目を見張った。鞄の中には沢山の紙幣や硬貨の入った袋がぎっしりと詰まっている。


「チップだよ」

 ジュールは言った。

「ルネの店の客に貰ったものだ。こんなに貯まったんだよ」

 口の端を上げて少し得意げな顔をする。

「プレゼントも全部シモンに頼んで金に換えてもらった。あの人、あれで優しいところがあるんだ。僕のケガを自分のせいみたいに思って色々助けてくれた」


 ギヨームが口を開けたまま何も言えないでいると、ジュールは続けた。


「僕、これを学費にしたいんだ」

「え……?」

「あんな仕事をして貰ったものだから、汚い金かも知れないけど……。でも、これは、僕の復讐だから。だから、僕はこれを使いたい」


 ギヨームは少年の横顔を見つめた。キュッと結んだ口元と毅然とした目は自分の運命と闘おうとしているように見えた。


「分かったよ」

 ギヨームは頷いた。

「君が本気なら、私も本気で手伝おう」


                  ✽


 ジュールの生活は百八十度変貌した。

 ルネの店にいた頃の生活からは想像もつかない勉強漬けの毎日が待っていた。ジュールの稼いだ金は朝からやって来る個人教授代に変わった。ギヨームが探してきた老教師は数学や物理、自然科学をジュールに叩き込んだ。勉強するとはこういうことなのだとジュールは目の覚める思いがしていた。その厳しい指導のおかげで、今までほとんど勉強したことのなかった科目にも成長の兆しを見せ始めた。


 そしてギヨーム自らも本を抱えて部屋にやって来た。私が教えるから遅れを取り戻そう。ラテン語、口頭試問の練習。毎晩夕食の後は個人授業の時間になった。ギヨームの指導はこれまでと比べものにならないほど厳しくなった。だがジュールはあきらめなかった。人生を取り返したい。それだけだ。


「君はバカロレアというのを聞いたことがあるか」


 ある時ギヨームが改まった口調で言った。

「大学の入学資格試験だ。これに合格すれば大学で勉強することができる」

「大学で……?」

 ギヨームはうなずき、真剣な目でジュールを覗き込んだ。

「これからバカロレアに向けて準備していこう。大丈夫。君ならやれる」


 大学。

 そんな言葉は他人のためのものだと思っていた。でも自分にも可能性がある。自分が大学に進める──。

 そう思うと俄然気持ちが高揚してきた。

「はい。先生」


 もうルネの店の客ではない。僕の先生メートル。この人は舵取りだ。僕の人生を導いてくれる頼もしい舵取りだ。ジュールは父の目に似ているギヨームの笑顔に心から応えたいと思った。



 勉強の他に、時間が許す限りギヨームはジュールを街へ連れ出した。物怖じしている彼を何とかこの生活に慣れさせたい。賑わうパリの街へ繰り出し、シャンゼリゼ通りを歩き、展覧会があれば同行させ、オペラ座界隈のレストランで食事をさせた。ジュールは目を白黒させながらギヨームについて歩いた。そして当然のことながらその後はぐったりと疲れ果てた。勉強の時間よりも外に連れ出されることの方が神経のすり減る思いがした。


 夕食の後、ギヨームはいつものように本を抱えて彼の部屋をノックした。

「ジュール、私だ。いいかね」


 返事がないのでそっとドアを開けると、ジュールはペンを握ったまま机に突っ伏していた。口をうすく開いてくったりと眠り込んでいる。


 ギヨームは思わずクッと吹き出した。疲れが出たのだな。毎日相当気を張っているに違いない。ギヨームは笑いをこらえながら机のへりに腰かけて少年の顔を見つめた。可愛らしいな。こんな風に眠りこけていると十六とはいえまだ子供っぽい。


 見つめているうちにギヨームの胸はいっぱいになった。幸福という言葉は、ひょっとしてこのような瞬間にこそふさわしいのではないだろうか。あの野良猫のような眼をしていた少年が、今は自分の家で暮らしている。純朴な幼い顔をして居眠りをしている。

 ギヨームは手を伸ばしてそっとその髪に触れてみた。するとふいにジュールの唇が動いた。


「父さん……」


 ギヨームはドキリとした。

「……ジュール」

 応えるように低く声をかけると、ジュールは目を覚ました。そばに腰かけているギヨームを見ると驚いて体を起こした。


「先生!」

「よだれがついてるぞ。せっかくの美男子が台無しだ」

 ジュールはあわてて口の周りを拭った。

「……今ね、田舎の夢を見てたんだ」

 目をこすりながら恥ずかしそうに呟く。知ってるよ、心の中でギヨームは答える。父のことを思い出したのか。田舎の暮らしを懐かしく恋しく思ったのか。


 ギヨームはじっとジュールを見つめ、小さく尋ねた。

「ジュール。大丈夫か。くたびれやしないか、この生活は」

 ジュールは真剣な顔で首を振った。そして少し身を乗り出すと反対にギヨームに訊き返した。

「先生、僕、上手くやってるかな?」

 上手くやっている、という言葉の意味をギヨームはすぐに理解した。

「ああ、上手くやってるとも。そのうち慣れるさ。ゆっくり慣れればいい」


 二人は目を合わせ、小さく微笑み合った。二人だけの秘密を共有しているという感覚に、ギヨームは不思議な満足感を覚えた。


「さあ、目が覚めたところでラテン語の復習だ」

 そう言うとおもむろに手にした本を開いた。

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