新しい生活⑤

 乗合馬車の二階席からヤンはパリの街並みを眺めていた。

 隣に座った乗客が煙草のけむりを秋風に漂わせている。プラタナスの木々は黄色く色づき、舗道にその葉を散らしている。秋のパリは一番きれいだと彼は思う。三年ぶりの街はそれでもほとんど変わっていない。


 ベルナールの命令でドイツに送られたときは怒りと悔しさがこみ上げたが、いっそそんな父を利用してやろうと覚悟した。上等だ。ベルリンの大学で勉強できるのなら、むしろ有難いくらいだ。

 慣れないドイツ語にはかなり苦しんだが、余裕のないぐらいの方がちょうどよかった。転んでもただでは起きるまいとムキになって勉強した。


 しかし、父から便りが来ることはあっても、フランスに帰って来いというひと言は一度もなかった。父の怒りが解けないうちはあの家に足を踏み入れることはできないだろう。


 ベルリンの厳しい冬をひとりで三度越し、このまま呼び戻されることなくこの地で学位をとる覚悟を決めていたところに、突然オスカーからの手紙が来た。父が体調を崩したという。もうそちらを引き払ってどうか帰って来てくれという内容だった。気が弱くなった父は息子を手元に置いておきたくなったらしい。


 

 ドイツを離れ、夏にオルレアンへ帰った時、ベルナールはヤンの顔を見て嬉しそうに笑った。可愛い子には旅をさせよというが、なるほどその通りだ。しばらく見ないうちにしっかりした顔つきになったじゃないか。もう一時期の迷いに我を失うこともないだろう。あれは若いころの刹那の過ちだ。美しい少年にいっときだけ心を奪われてしまっただけだ──。


 そんなベルナールの思惑をヤンはすぐに察した。父は息子がしたと思い込んでいる。病人のようなふりをしているが顔の色つやですぐ分かる。自分から留学させてしまった手前、引っ込みがつかなくなったから仮病を使ってオスカーにあんな手紙を書かせたのだろう。


 ベルナールはひとたび安心すると今度は甘えたような声で愚痴を言った。お前がいないとどうも家の中が暗くていかんよ。去年は数えるほどしか狩りもできなかった。フェルナンと二人で森に入ってもつまらん。なぜもっと早くフランスに帰って来なかった。

 せがれの機嫌を取るような口調で矛盾したことを言う父にヤンは苛立った。ジュールから便りはありませんかと訊いてやろうかと思った。しかしジュールの話がご法度なのはヤンにもちゃんと分かっていた。あれは無かったことだ。処分が解けた時点で無かったことにされているのだ。

 

 休暇中フレデリックとは会わなかった。イギリスに長い間滞在しているという話だった。どうでもいい。あの人とはどうせ縁を切るんだ。ヤンはさっさとパリに戻りたかった。家にいるとジュールのことを思い出させるものばかりが目につく。居間にある古びたピアノも、ジュールが触った本も、引き出しに隠したままの彼の手帖も。


 森番の小屋へは近づかなかった。森にも行かなかった。考えるだけで古傷がうずくように胸がズキズキと苦しくなる。


 外国に三年も留学しようが、結局何にも変わらない。



 長すぎる夏休みを終え、また古巣の大学に戻ってきたヤンは、やっと息ができるような気がしていた。

 一人がいい。余計なものに囲まれているぐらいなら一人でいたい。


 新しい住み家は友人と入れ替わりに入ったアパートだ。階下には所有者の老婆自身が暮らしている。家族は地方の都市に引っ越してしまったが、自分だけはパリを離れたくないと頑固に召使いと一緒に住んでいる。若い男がいれば用心棒代わりになると言って学生を住まわせているが、それ以外には下宿人たちに何の興味も示さない。こんな暮らしが一番気が楽だ。


 そんなことを考えながら舗道を行き交う人々を眺めていると、小さい女の子を連れて歩いている学生が目に入った。ヤンは思わず二階席から振り返った。


「ジュール……?」


 まさかな、ヤンは思った。舗道を歩く二人の姿はどんどん小さくなって見えなくなる。他人の空似だろう。そもそもあれはリセにでも通っていそうな学生だった。


 ジュールはどうしているだろう。今頃どんな家の使用人をしているだろう。大切にされているだろうか。いじめられたりこき使われたりしていないだろうか。もう本は読まなくなってしまっただろうか。ざわざわと心の中に風が立つ。


 やめよう。もう考えるのはやめよう。

 隣から漂う煙草のけむりを嗅ぎながら、ヤンはきつく目を閉じた。

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