初恋④

 その夜、ヤンはベッドの中でまんじりともせず寝返りを打ってばかりいた。小屋の中での出来事が頭の中に何度も蘇る。手のひらに感じたジュールの温かい頬。引き寄せられるように身を乗り出した自分。もう少しで触れそうになった唇。背中に伝わった彼の体温。耳に残るあの苦しい告白。


 どうしてこんな風になってしまったんだろう。

 フレデリックの言った通りじゃないか。お前は近づきすぎたんだ。


 最初は単純な善意だったものが、いつの間にか特別な感情に変わっていくのを、本当は自分でも気づいていたのだ。退屈だったはずのオルレアンの休暇はジュールとの生活ですっかり色を変えた。打てば響くような彼との時間は楽しく、二人でいることがとても自然に感じる。そう思ってその居心地の良さに浸っている間に、引き返せないほど距離が縮まっていたのだ。健気に生きようとする彼に抱いた守りたいという気持ちは、いつしか別の思いにかたちを変えていた。ただの親切心からこの暮らしに彼を引き入れたくせに、いつの間にかジュールの持つ引力に巻き込まれていたのは自分自身だった。そしてそれに気づいた時はもう手遅れだった。


 目を閉じるとジュールの顔ばかりが浮かんでくる。そんな夜がもう幾日も続いている。こんなに心を支配されるといつ予想できただろうか。駄目だと思えば思うほど気持ちばかりが化け物のように膨らんでいく。


 そう、飼いならされたのはおれの方だ──。


 ジュールの声が何度もこだまする。君が好きだ。もう隠せない。

 どうしておれもそうだと答えなかった? 彼が使用人だから? まだ十五だから?


 違う、そんなことじゃない。お前は自分を守ろうとしているだけだ。ここまで踏み込んでおきながら、まだ自分だけ安全なところに留まろうとしているだけだ。震える声で苦しい胸のうちを打ち明けたジュールに対してなんという仕打ちをしたんだ。彼ひとりを傷つけてあんな風に逃げてしまうなんて……。


 ヤンは体を起こした。

 大きく息を吐くと、ベッドから立ち上がった。



 ジュールはベッドの上に体を丸めて泣いていた。何もかも台無しにしてしまった。出て行きざまのヤンの冷たい顔が頭から離れなかった。どうしてあんなことを言ってしまったのか。どうして心の中に秘めておくことができなかったのか。嫌われてしまったに違いない。明日からどんな顔をして会えばいい?


 忘れてもらおう。もう遅いかも知れないけど、何も聞かなかったことにしてもらうしかない。ジュールは涙を止めようと深く呼吸をした。


 その時、かすかにドアをノックする音が聞こえた。

 そばに寝ていたデュックが耳をそばだて、小さく吠えた。

 ジュールが体を起こすと、ドアがそっと開き、明かりを手にしたヤンが入って来た。


「ヤン……」

「こんな遅くにすまない」


 ヤンはぼそりと言うと台所のテーブルにブリキのランタンを置いた。

「君に、謝ろうと思って」


 ジュールはベッドから出るとそっと台所の入り口に立った。ヤンはランタンから漏れるろうそくの明かりを見つめている。


「謝るって」

「おれは卑怯だった。許しておくれ」

 そう言ってヤンは口をつぐんだ。ジュールはその意味がのみ込めずヤンの顔を窺った。


 ヤンは小さく笑った。

「君が病気なら、おれも病気だよ」

「……え?」

「ごまかしてたんだ。本気になるのが怖くて。おれだって隠してた。ずっと隠してたんだ」


 ヤンはガラスの中でゆらめくろうそくの火をじっと見つめた。それから静かに口を開いた。


「夜、ベッドに入るとね、君の顔が浮かんでくるんだ。そしてこう思うんだ。君はもう眠っただろうか。うなされたり怖い夢を見てはいないだろうか。そばにいれば君の髪を撫でてあげられるのに。大丈夫だよって、声をかけることができるのに。明日目が覚めればまた君の笑顔に会える。君の柔らかい声が聞ける、また笑い合うことができる。そんな幸せな一日が待っている。そう思うとおれは嬉しくなる。だから目を閉じてこう祈るんだ。どうか今夜も、僕の愛しい人がぐっすりと眠れますように、って」


 唇から小さなため息が漏れた。


「これが本当の気持ちさ……。この心はもうすっかり君に奪われてしまった。おれも君と同じ気持ちなんだ。こんなにも君のことばかり……こんなにも……」


 顔を上げるといつの間にか傍らにはジュールが立っていた。潤んだ瞳でまっすぐにヤンを見つめ、唇を震わせている。


「ジュール……!」


 ヤンはジュールを力いっぱい抱きしめた。ずっと心に秘めていた言葉が口からこぼれ出る。


「おれは……君を愛してる……」


 熱い吐息と一緒にヤンの声がジュールの耳へ響いた。声にならない声が喉の奥で鳴った。涙がこぼれ、ジュールの頬をつたった。


 ヤンはその涙を拭うと、潤んだ瞳を見つめ、低い声でこう囁いた。


「さっきの……続きをさせてくれないか」


 答えるかわりにジュールはまぶたを閉じた。ヤンはジュールの頬を両手でそっと包み込むと、ためらいがちに顔を近づけた。


 その瞬間だけ、時が止まったような気がした。


 ヤンの唇が離れた時、ジュールは震えるような吐息を漏らした。なんという柔らかい、優しい口づけだろう。体じゅうから力が抜けてゆく。何もかもほどけてゆく。あの時テーブル越しに僕はこれを待っていたのだ。いや、ずっと前から僕はこれを求めていたのだ。人生で初めての、本当のキスを。


 二人はろうそくの光の中で見つめ合うと、もう一度唇を重ね合った。呼吸ができなくなるほどの、長い、長い口づけだった。


 ヤンの鼓動を感じながらジュールは目を閉じた。ヤンの背中は熱く、その首筋はいい匂いがする。彼の腕の中は、こんなにも安全で心地がいい。 


「ヤン、」

「うん?」

 ジュールは口ごもった。

「何だい?」

 ジュールは少し躊躇した後、こう言った。


「……僕の体に、手の跡をつけて」


「え?」

「僕の体を、ヤンの手の跡でいっぱいにして」

「ジュール……」

「お願い」


 ジュールは顔を上げた。ヘーゼルの瞳が熱を帯びてじっと見つめる。

 ヤンは戸惑った。しかし同時に抗いようのない波が自分の中にざわめくのを感じた。その波に自分自身が呑まれていくのも。


 ヤンは頷いた。

「……怖くないのか」

「怖いけど。でもそうしたいんだ……そうして欲しいんだ」

 ジュールはヤンの目をまっすぐに見つめてそう言った。

 

                  ✽


「ヤンの体は野生の動物みたいだね」

「ええ?」

「いつか図鑑で見たろ。細くてしなやかで、たくましくて、まるで豹みたいだ」


 二人はベッドに横たわっていた。乱れていた呼吸が少しずつ戻ってきた。開いた窓からは夜風が舞い込んで、汗ばんだ二人の体を心地よく冷やした。ジュールはヤンの腕枕の中でこっそりと涙を拭いた。そして体を起こすと、いい匂いのするその首筋に唇をつけた。ヤンはジュールの背中に手を回し、そのすべらかな肌を指の先でそっと撫でていた。


「豹か……」

 ヤンはフフッと笑った。じゃあさしずめ君の体は鹿だな。華奢で敏捷な鹿だ。

「君に食われちゃうじゃないか」

 二人は一緒に笑った。

 ジュールはもう一度ヤンに優しく口づけした。ヤンの唇はまるで誂えたように自分の唇にぴったりと合う。ジュールはうっとりとした目で静かに微笑んだ。


「……好きな人と愛し合うって、こんなに幸せな気持ちになるんだね」

 ヤンは瞬きをして、それから苦笑した。

「負けるよ」

「え?」

「とても十五歳の男の子の言うことには思えない」

「からかうの? こんなことしておいて」


 ジュールは少し笑ってみせた。が、すぐに真顔に戻ってぼそりと呟いた。


「本当だよ。……初めてだもの、これが幸せだと思ったの」

 ヤンは手を伸ばしてジュールの額にかかった髪をかき上げた。

「そうか、そうだね……。ごめん。もう茶化したりしない」


 ジュールはヤンの瞳を覗き込み、小さな声で言った。 

「ヤン。後悔しないでおくれね。間違いを犯したって、思わないでおくれね」


 ヤンはジュールの目を見返した。胸をぎゅっと掴まれたみたいに切なくなって、思わず彼の背中を強く抱きしめた。


「そんなこと、思うはずないだろう」


 ジュールは安堵したように微笑んだ。ヤンの髪を指できながら、その額に、まっすぐな鼻に、温かい頬にキスをした。


「嬉しいよ。僕は今、すごく、すごく幸せだ……!」


 ヤンを見つめるジュールの瞳には、喜びと同時に匂い立つような色香が差している。ヤンはこらえ切れずその唇に強く口づけを返し、大きなため息を漏らした。


「参ったな。ジュール、おれはもう君を手放せなくなった」

「放さないで。ヤン、僕はもう君のものだ」


 そうして二人は足を絡ませ、息を弾ませながら長い抱擁を交わした。


 外はいつの間にか空が白み始めていた。朝一番の雄鶏の声に驚いて二人は顔を見合わせ、小さく笑い合った。


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