初恋③

 夕方、ジュールは台所のテーブルでいつものように書き取りをしていた。ヤンもいつものように角を挟んで座り黙って本を読んでいたが、今日はこの沈黙がなんだか不自然な気がしていた。


 ふと本から目を離して彼の筆跡を眺めた。ヤンの書き方を手本にしていたせいか、ジュールの書く字はヤンの字によく似ている。癖まで似ている。ヤンにはそれがなんとなく可笑しい。

 ヤンは小さく笑みを浮かべながら、一生懸命ペンを動かしているジュールの横顔に目を移した。


 彼のビスケットのような色の頬は、内側から灯をともしたようにうっすらと赤みが差し、襟足の髪はいつも緩く丸まっていて、それが細いうなじにかかっている。その首を少し傾けるようにして文字を追う目にはまっすぐに伸びた長い睫毛が影を作っている。


 ヤンはその横顔を眺めながら、ぼんやりと今までのことを思い出していた。森の中で倒れていた少年を背負った時、その体があっけないほど軽かったことや、目を覚ました彼の顔を見てその美しさに一瞬だけ息を呑んだこと。初めて見せた笑顔にたまらなく嬉しくなったことや、肩を濡らして泣いた彼の姿に自分まで泣きそうになったこと。ピアノの上で重ねた手が思いのほか大きかったこと。本を読むときの幸せそうな顔。傷ついた顔。泣き顔、笑顔、ヤンに見せる全ての表情。微笑んでいるような優しい口もと。

 そして気がつけばいつもそばにある、聡明なヘーゼルの瞳──。


 ヤンの心の中に柔らかく甘い感情が流れ込んできた。ジュールの横顔を見つめながら、その感情はいつの間にか胸をいっぱいに満たしていた。


 その時、ヤンの視線に気づいたジュールがふと顔を上げた。ヤンと目が合うとジュールは恥ずかしそうにすぐうつむいたが、遠慮がちに顔を上げると、今度はヤンの目をまっすぐに見返した。


 二人は黙って見つめ合った。


 今まで感じたことのない空気が二人の間に流れた。ヤンの右手がおのずとジュールへ伸びた。頬に触れると、ジュールは少し戸惑うように瞳を揺らした。が、すぐに左手をヤンの手の上に重ね、強く握り返した。そして何かを訴えるようなまなざしでヤンの目をじっと見つめた。


 ヤンはジュールの瞳に吸い込まれるかのようにテーブル越しに身を乗り出した。そして、引き寄せられるようにその唇に顔を近づけた。


 ジュールはヤンを見つめたままあごを上げてうっすらと唇を開いた。

 お互いの呼吸が近づき、二人はそっと目を閉じた。


 その瞬間だった。


 突然、ヤンの脳裏にフレデリックの言葉が蘇った。


 ──飼いならされたのはお前の方かな──。


 冷たい水を浴びせかけられたようにヤンはハッと我に返った。弾かれるようにジュールから顔を離すと、音を立ててテーブルの上の本を閉じた。ジュールは驚いて目を見開き、息を呑んだ。


「ごめん……。悪い冗談だね」

 ヤンはジュールから目を逸らしたままごまかすように笑った。

「今日は、もう、帰るよ」

 ヤンは本を抱えて無造作に椅子から立ち上がった。

「待って」

 ジュールが小さく呟いた。

 聞こえないふりをしてドアへ向かうヤンの後ろでジュールの叫ぶ声がした。


「行かないで!」


 咄嗟に駆け寄る足音とともに、ジュールの腕がいきなりヤンの背中を抱きしめた。

 ヤンは驚いてびくりと立ち止まった。本が腕からすり抜けてばさりと床に落ちた。


「ジュール……?」

「冗談なんかじゃない。行かないで、お願い行かないで……!」


 切羽詰まった声が聞こえた。背中にジュールの体温を感じる。前にまわした腕がヤンの体をしっかりと掴んでいる。


「僕には、もう隠せない。君がいないと僕は苦しくなる。一日が終わって君が帰ると、悲しくてたまらなくなる」


 やっと声を出しているようなかすかな声でジュールは言った。


「でも、君がそばにいると、もっと苦しくなる。君を見ていると、胸がギュッと締めつけられて、息ができなくなる。……こんな気持ち、初めてだ」


 ジュールの辛そうな、でもはっきりとした声が背中ごしに聞こえた。


「ヤン……。僕は、君のことを好きになってしまったんだ」


 消え入りそうなほどの切ない声でジュールは言った。


「君が好きだ……。こんなこと、言っちゃいけないって分かってるけど。でも、もう隠せないんだ。君のことを思うと……苦しくて……」


 ヤンは何も言えず、身を固くして立ち尽くしていた。その気配を感じ取ったジュールの腕が少しだけ緩んだ。


「……ああ……やっぱりこんなこと言うべきじゃなかった」


 震える声で力なくそう言うとジュールはヤンの背中から額を離した。


「……僕は病気なんだ。きっと、ディディエおじさんと同じ病気なんだ……」


 言い訳をするようにジュールが背中で呟く。ヤンはジュールの手に自分の手を重ねた。そしてジュールの手をゆっくりとほどくと、前を向いたまま、低い声で言った。


「もう、帰らないと。……それじゃ」


 床に落ちた本を拾うとヤンはジュールの目を見ないで出て行ってしまった。

 ジュールはその場にひざをつくと両手で顔を覆った。


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