再会②

 アンヌは怪訝な顔でジュールの皿を下げた。どうしました、坊っちゃん。全然食べてないじゃありませんか。ジュールがいくらやめろと言ってもアンヌはジュールのことを坊っちゃんと呼ぶ。


「ごめんなさい。食欲がなくて」

「どこか具合でも悪いか?」

 ギヨームが訊いた。マチルドを連れて帰ったときから顔色が悪い。寒空に公園など行くから風邪でもひいたか。


「いえ、大したことはありません」

 ジュールは青い顔で答える。ギヨームにこっそり話したい気持ちに駆られたがやめておこうと思った。心配させたくない。あれは偶然だ。もうあんなところに行かなければいいだけだ。


「そろそろ大学を決めないとね」


 ギヨームが父親のような口調で言った。自分の母校に行かせたい。同じように文学の研究をさせたい。ギヨームの心の中では夢が膨らんでいた。

「そうですね」

 力なく答えるとジュールは席を立った。今は大学のことなど考えられなかった。目に見えない何かが足を引っ張る。抗わなければ。前を向かなければ。


 部屋に一人きりになると体が震えてくる。まだあの男の顔が浮かんでくる。


 ──忘れたふりなんかするなよ、ジュール。


 男の声が聞こえてきて、ジュールは振り払うように髪を掻きむしった。


                  ✽


 ヤンは所在なげに道行く人を眺めながらテラスに座っていた。教授との約束の時間を間違えて一時間も早く来てしまった。いったんアパートに帰るのも馬鹿馬鹿しいからこうやってカフェで時間を潰す。ぼんやりと人を観察しているのも悪くはない。


 この界隈は人通りが多い。公園のそばにリュクサンブール駅というのができたそうだから、そのためかも知れない。同じ五区でも学生ばかりのカルチエ・ラタンとは少し雰囲気が違う。


 通りの先の方が何やら賑やかだ。建物から次々に女の子が出てくる。おそらく初等女学校があるのだろう。親や召使いに連れられた少女たちがヤンの前を通り過ぎてゆく。


「ジュール!」


 マチルドは門の外にいるジュールを見つけると弾けるような笑顔で駆け寄って来た。ジュールも笑顔で応えた。


「詩の暗唱はうまくいったかい?」

「ええ、満点もらったわ」

「すごいじゃないか」

「ジュールが一緒に練習してくれたからよ」


 そんないつもの会話をしながら二人は並んで歩き出した。


「先生がね、今までで一番よくできたって……あっ!」

 ふいに風が吹いてマチルドの帽子を飛ばした。


 帽子は角のカフェのテラスに座っている客の足元に転がった。


「待ってて、拾ってくるよ」

 そう言い残してジュールはテラスの方へ向かった。


 ヤンは足元に転がってきた帽子を拾い上げた。子供のものだな。風で飛ばされたのか。

 手で埃を払ってやると、近づいて来た人影に向かって顔を上げた。


 ジュールは帽子を拾い上げた客に駆け寄った。

「すみません、ありがとうござ……」


 礼を言いかけて客の顔を見たジュールの足がぴたりと止まった。


 ヤンは立ち止まった人間の顔を見て目を疑った。


 ──ジュール?


 ヤン──!


 二人は息を呑んで見つめ合った。短い空白の時間が二人の間に流れた。


 ヤンは帽子を手にしたまま誘われるように立ち上がった。


「ねえ、ジュールったら」

 後から来たマチルドが急かすようにつつく。ヤンはハッと我に返り、帽子の形を整えると少女に渡した。


「はい、マドモアゼル」

「ありがとう」

 マチルドはヤンを見上げて嬉しそうに帽子を被った。


 ヤンはジュールに向き直った。


「こんなところで会えるなんて……元気だったかい?」

「……うん……」

 ジュールはまだおのれの目が信じられないという風に呆然と答えた。


「この辺りに住んでるの?」

「うん……す、すぐその辺りだよ。この通りの、向こう側の……えっと、」

 自分でも何を言っているのか分からない。しどろもどろになりながら目の前のヤンに釘付けになってしまう。


 ヤンはそんなジュールを見て思わずクスリと笑った。そして改めてジュールをまじまじと眺めた。


 まずその背丈の伸びたことに驚く。自分を見上げていたはずの目線がぐんと上がっている。あんなに灼けていた肌はすっかり都会の人間の色になっている。頬に残っていた子供っぽさが抜けて、少年から青年の顔に近づきつつあるのが分かる。

 でも優しい顔つきは今でも変わっていない。その涼しい瞳も微笑んだような口もとも、毛先が緩く丸まった髪も、あの頃のジュールのままだ。ヤンは少し安心した。


「ねえ、私を紹介してくれないの、ジュール?」


 マチルドが上着の裾を引っ張った。恥ずかしがり屋だったマチルドも今ではいっぱしのレディ気取りで主張する。


「ああ、ごめんよマチルド。ええと、この子は僕がお世話になっている家のお嬢さん。マチルド」


 マチルドはヤンに向かって淑女のような仕草で手を伸ばした。ヤンはその小さな手を取ってにっこりと笑った。


「はじめまして、僕はヤン。ジュールの……」

 言葉がつまった。二人はふと目を見合わせた。

「……古い友達」


「君は? ……なんだか大人っぽくなったんだね」

 ジュールが遠慮がちに尋ねた。

「うん。実は、ドイツに留学してたんだ」

「ドイツ?」

「そう。ベルリンに。三年間」 

 随分唐突な話だ。ヤンは頷いた。

「まあ、ちょっとした、島流しだね」


 その言葉にぎくりとしてジュールは気まずく目を伏せた。ベルナールの顔を思い出した。ヤンもきっと問い詰められたのだろう。僕がごまかすこともできず頷いてしまったばかりに、彼も望みもしない羽目にあったのだろう。でも留学ならまだいい。僕の流刑地は……。


「しかし使用人というよりは学生みたいだね、その格好」

 ヤンが調子を変えるように言った。

「ジュールは使用人じゃないわ、学生なのよ」

 マチルドが口を挟んだ。

「リセに行ってるの。とっても成績がいいんだから」

 まるで兄を自慢するような口ぶりで言う。

「リセ?」


 ジュールがまごついた顔で首を傾げる。

「どこから説明していいのか……」

「座れよ。少しだけ時間ないか?」

 ジュールは首を振った。

「ピアノのレッスンがあるんだ、この子の。でも送ったらすぐ戻って来る。二十分ほど待てる?」

「そうか、おれは教授との約束があるんだ。あ、……ちょっと待って」


 ヤンは内ポケットから鉛筆を取り出すと手帖に手早く何か書きつけた。


「これ、おれの住所」

 ヤンは手帖の紙を破ってジュールに差し出した。

「遊びにおいで」


 ジュールはヤンの目を見返した。穏やかなまなざしは昔のままだ。

「ありがとう」

 ジュールははにかみながら頷いた。


 手を繋いで去って行くジュールとマチルドの後ろ姿をヤンは微笑みながら見送った。胸の高鳴りがまだ残っていた。


「ね、あんた、ジュールの知り合い?」


 いきなり一人の男がヤンの隣に腰かけてきた。


「……そうですが。あなたは?」

 男は答えもせずヤンをじろじろと眺める。

「ルネの店の客には見えないね」

「ルネの店?」

 ヤンは思わず訊き返した。


「こないだ約束をすっぽかされたよ。久しぶりに会ったから今度はゆっくりと楽しませてもらえるかと思って期待していたんだがね」

「なんですか、ルネの店って」

「あの子がいた店だよ。あれは稼ぎ頭だったんだ。知らないのかい」

「一体なんの話です?」


 男はヤンを見てニヤッと笑った。

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