ジュールの森

柊圭介

 一八九二年、フランス。夏。

 ベルナール・ルグランは夏季休暇でオルレアンに帰って来ている息子のヤンと一緒に所有地の森の中を歩いていた。兵役を終え春に二十一歳になった息子は、久しぶりに会うとまた少し大人びたように見える。夏の陽を浴びて色よく灼けた肌は健やかで頼もしい。気づかないうちに自分の背を追い越し、少年の顔からもう一丁前の男と言えるほどの顔つきになった。ベルナールは先を進むヤンの背中を眺めた。こいつは気に入りの息子だ。


 今日は久しぶりに森に入らないかと声をかけた。ヤンが狩りの下見にはまだ早いですよと笑うところを散歩も兼ねて連れ出してみたが、いずれにせよこの森の様子では下見どころではなさそうだ。連れて来た猟犬がベルナールの足元を離れ、ヤンのもとへ走って行く。


 ヤンは覆い茂った草や行く手を阻む枝や蔦と悪戦苦闘していた。まるで魔女の森だ。森番が留守にしてから三か月ほどだと言うが、ここまで何もかも伸び放題になるとは思わなかった。進むのさえままならない。視界が悪すぎてこれでは子鹿一匹見つからない。


 仕方がないな。ヤンは考えた。どうせ休暇中はずっとオルレアンにいるんだ、夏の間の仕事ができたと思えばいいだろう。おれが森番の代わりをしてやろう。


 前を駆けて行った猟犬が突然、吠え出した。うなりながら何かの周りをぐるぐる回っている。


「どうした、デュック?」 

 ヤンは枝を押しのけて猟犬のそばに近づいた。

「おっと……」


 そこには一人の人間が倒れていた。木の根元で横向きになっている。色褪せた青いシャツは泥で汚れ、ズボンの裾はすり切れてすねには小さな傷がいくつもついている。


「お父さん、ちょっと来て下さい」

 ヤンはベルナールを呼んだ。

「とんだ子鹿ですよ」


 ベルナールは枝をかき分けながら急ぎ足でヤンのもとへやって来た。倒れている人間を見ると眉をしかめた。


「子どもじゃないか」

「十三、四歳ってところですかね」

「死んでるのか?」

「いや、生きてます。呼吸してる」


 ヤンはしゃがみ込んで少年の手首を取った。脈が早い。かすかに開いた口で細かい呼吸を繰り返している。ヤンは少年の額に手を当てた。


「すごい熱だ。おい、起きろ、おい」

 声をかけながら小さく頬を叩いてみたが、何の反応もない。


 ベルナールが不安そうな顔で少年を覗き込んだ。

「どうするね」

「どうするねって……助けないと」

「しかしなあ……」


 ベルナールが渋るとヤンは深刻そうな声で言った。

「こりゃ四十℃はあるな。唇の色が悪い。肺炎かな。このままじゃ夜になったら死んじゃいますよ」

「おい、脅すな」

「だってこのまま放っとくわけにはいかないでしょう。明日になって死んでたらどうするんです?」

 ヤンはチラリと父を見やった。

「気分の悪いことを言うな」

「早く助けないと手遅れになりますよ」

「しかし、家には運べんぞ。イザベルが見たら何と言うか」

「フェルナンの小屋に運びましょう。あそこはベッドもある」

「……分かったよ。仕方ない」


 ベルナールはため息をついた。しばらくぶりに森へ入ったと思ったら浮浪児を拾ってしまうなんて、なんとも迷惑な話だ。私有地とも知らずに隣の森から紛れ込んで来たのだろう。


 ヤンは恐る恐る少年を抱き上げた。思ったよりずっと軽い。


「先生はすぐ診に来てくれますかね」

「ドクターは今休暇中だ」

「そうか。じゃあとりあえずおれが手当てしてみます。あ、念のためにマットレス屋根裏から一枚持っていきます。泊まるかも知れないから」

「ええ? なにも泊まることはないだろう」

「念のために、です。多分すぐ目を覚ましますよ」

「分かったよ。好きにしなさい」


 ベルナールは不承不承頷いた。ヤンは少年を背中にしっかりと担ぐと、もと来た道を戻り始めた。少年はぐったりとヤンの背中にはりついている。歩くたびに肩からだらりと下がった腕が左右に揺らめく。首の後ろに熱い息がかかる。


「死ぬなよ……」

 ヤンはそう呟きながら足元の悪い道を急いだ。

 猟犬がヤンの後に続いた。

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