山羊飼いの少年②

 ヤンか。

 ずいぶん珍しい名前だなと思った。でもこの男に似合っている気がした。ジュールは首を伸ばして隣に続いている部屋を窺った。間を仕切る扉もない。


「僕の服はどこにやった?」

 ジュールが低い声で尋ねると隣の部屋から笑い声が聞こえた。

「ハハ、あれね。悪いけど、あれじゃいくら追い剥ぎでも持ってかないだろうよ」


 捨てられたに違いない。ジュールがむっとしているとヤンはボウルを手に戻って来た。その後に犬が尻尾を振りながらついて来る。ジュールの視線に気づいてヤンが犬を振り返った。


「ああ、こいつはうちの猟犬だよ。デュックっていうんだ」

「デュック?」

「偉そうな名前だろう。公爵様だ」


 猟犬は茶色の耳が長く垂れ下がっていて、白い毛並みの背中にも明るい茶色のまだら模様がついている。貴族の称号を与えられた猟犬は、得意そうに目をキョロキョロさせながら舌を出して尻尾を振っている。ジュールは少し口の端が緩みそうになったがぐっと結んでこらえた。


「こいつがお前のこと見つけたんだ。助かって喜んでるよ」

 ヤンは片手で犬の頭を撫でまわした。


「あんた……猟師?」

 ジュールはおずおずと尋ねた。

「えっ?」

「だって……」


 ジュールは壁にかかった猟銃や床に広げてある獣の皮を見回した。ヤンはそれを見て小さく笑うと悪戯っぽい目をして答えた。


「ああ、そうだよ。おれはここの森番なんだ」

「森番?」

 ヤンは頷いてボウルを差し出した。

「さ、これを飲め。小便が出るまで沢山水を飲まなきゃ駄目だぜ」


 ジュールは恐る恐る手を伸ばして水の入ったボウルを受け取った。水は少し濁っていて水瓶の匂いがしたが喉が渇いていた。ボウルに口をつけてひとくち飲んだ途端、ジュールはむせかえった。


「何だこれ」

「塩と砂糖を混ぜた水さ」

「なんでこんなもの」

「塩分と糖分が足りてないはずだからとりあえずこうやって補給しておくんだ。後で普通の水を飲んでいいから。さあ」

 有無を言わせない口調にジュールは仕方なくその気持ちの悪い水を飲み干した。ヤンが満足そうに微笑んだ。


「それにしてもよかったよ、死ななくて。まだ十五歳なんだろ」

 ヤンは腕を組んで椅子の背にもたれかかった。


「一日見つけるのが遅かったら手遅れだったかも知れないんだぜ。いつから熱があった? おれの想像だけどね、一週間ぐらい森の中を歩いてたんじゃないか。夜は焚火でもやって凌いだか? いくら夏とはいえあんな格好じゃ冷えるよ。倒れる前は水さえ飲んでなかっただろう。死んじまうぜ、そんなことしたら」


 ヤンの言ったことは当たっていた。ジュールがうつむくとヤンは励ますような調子で言った。


「大丈夫、疲労と風邪と軽い脱水症状。肺炎の心配はないと思う。熱が完全に下がって体調が戻れば無罪放免だ」

 ヤンは明るく笑って、それからジュールを覗き込んだ。

「お前、ここがどこか分かるか?」

 ジュールは首を振った。

「オルレアンだよ。街は少し離れてるけど」

「オルレアン……?」

 まさかそんなところまで歩いたとは思わなかった。

「お前はどこから来た?」

 ジュールは答えにくそうに、南の方、とだけ言った。

「ヴィエルゾン? シャトールーか?」

「どこだっていいじゃないか」

 その答えにヤンは小さく吹き出した。

「それにしてもなんでわざわざ森の中を通って来たんだ?」


 見つかりたくなかった。それだけだ。でもジュールは答えられなかった。ヤンがからかうような口ぶりで言った。


「家出でもしたのかい」


 ジュールはぎくりとして顔をこわばらせた。それを見てヤンはクスリと笑った。

「心配しなさんな。別に詮索しようって訳じゃない」

 固く口を閉じているジュールに穏やかな声で言った。

「今はゆっくり休めばいいよ。余計なこと考えずに。安心しな、もう助かったんだから」

 それから思い出したように大きなあくびをした。

「いやあ、連日の看病はさすがに疲れるね。やっと目が覚めたと思ったら、追い剥ぎと間違われる始末だ」

「ごめんなさい」 

 ジュールの顔を見てヤンは可笑しそうに笑った。

「いいよ。さ、もう少し寝てろ」


 ジュールは横になった。ヤンは丁寧にシーツをかけ直した。

「ちょっと出て来る。無理に動くなよ」 

 出て行こうとするヤンの背中へ、ジュールは声をかけた。


「……ありがとう」

 ヤンが振り返った。

「ありがとう……助けてくれて」


 ヤンはニヤリとすると黙って出て行った。猟犬はまだジュールのそばに座っている。ジュールがベッドから手を伸ばすと嬉しそうに尻尾を振って手の匂いを嗅いだ。

 ジュールの頬が少しだけほころんだ。



 屋敷へ戻りながらヤンは考えた。

 とにかく目を覚ましてくれてよかった。すぐに気がつくだろうと高をくくっていたら二日経っていた。こんなにつきっきりで誰かを看病したのは母以来かも知れない。


 ジュールか。


 あれは親と喧嘩して家出した不良少年の顔ではないな。

 ヤンはその茶色に緑がかったヘーゼルの瞳がちらちらと不安げに動くのを見て、何かもっと別の理由があるような気がしていた。一体何があったんだろう。あの様子じゃあまり話したくなさそうだ。でも嘘をついている様子はない。動揺すると全て顔に出るところを見れば素直な性格に違いない。


 ヤンはふと立ち止まって森番の小屋を振り返った。陽の光がヤンの頬を射した。

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