第7話 初めての朝に
スマホのアラームを止める。いつも通り5分前。
締切で寝不足でも朝は得意なほうだと思う。
きっと朝が好きだからだ。
学生時代……とくに小中時代は、朝が嫌いだった。つまりのところ毎日が嫌いだった。
国語算数理科社会それに体育。全部ちゃんとしっかり揃った場所で、全部逃げることなく強制される世界。
それをどれだけ頑張っても、出来が良い兄と比べられるのがイヤだった。
「お兄ちゃんが三年生の時は、もう英検取ってたわよ」
とか。
「お兄ちゃんはシャトルラン50回以上走ってたわよ」
とか。
「お兄ちゃんは、忘れ物なんてしたこと無かったわよ」
とか、とか!
それは延々と続いた。
あの場所から逃げたくて、ものすごく暗い漫画を描いていたと思う。
今でも覚えているのは、地下に私ロボットが何体もいて、兄に殺されるたびに新しい私ロボットが地上に出ていく話だ。
暗い、暗すぎる。黒歴史どころの話ではない。
高校生になった時に、兄はもう実家を継ぐために修行をはじめていて、私の居場所なんて無かった。
だから必死に勉強して専門性がある大学……美大に一発合格した。
人生であんなに勉強したのは最初で最後。でも文字どおり命がけだった。
あのままいたら私は緩やかに柔らかく、かばんの中に入れたことを忘れていたまんじゅうが潰れるように死んでいったと思う。
昨日、はやくスッキリしたくて実家に結婚することを連絡した。
お母さんは喜んでくれたけど、兄の反応たるや……
「へえ、人間に興味あったんだね」
はあああぁぁぁ?!?!
思い出すと障子に正拳突きしたいほどムカつく!!
昔から兄は私をバカにしていて、それは大人になった今も変わらない。
もちろん本当の毒は兄を甘やかし続けている母なんだけど、そのまま乗っかり続けている兄も嫌いだ。
セットで大嫌い。嫌いなんて言葉じゃ甘い。
私の心の中にある過去を無にしたい。そこにビールを詰めたい。
「ふう」
思い出してムカムカしてたけど、イヤな場所から逃げてきて、イヤなことを思い出す必要はないのだ。
ここは平和な場所。大人最高だ。食事しながら神が書いた尊い絵を見ることが出来る。ファボファボ!
切り替えて会社用メイクをして、リビングでパンを食べる。
すると二階で物音がした。
すっかり忘れていたけど、滝本さんも今日はここから出社するのか。声かけようかな……と思ったけど、大人だし普通に調べて最適な手段探すでしょ? と思う。
私と滝本さんは持っている物が違うのだから、当然行き方も違うだろう。
パンを食べ終わって袋を閉じていると
「おはようございます」
と滝本さんが下りてきた。会社用のスーツ姿で、昨日のラフな服装とは違う。
わあ。誰もいないのが普通だった我が家の二階から人間が、それも同僚が下りてくる。
新鮮でドキリとしてしまった。
すごい、一緒に住んでるわ!(今更)。冗談か質の良いコラみたい。
「おはようございます」
そんなことを考えながら、私は平然とした顔でほほ笑んだ。
「あの、朝から何ですが……少しお話いいですか。こういうことは顔みて話した方が良いと思うので」
滝本さんは玄関で棒立ちして私に言った。いやいや、座りましょうか。
私はリビングの椅子をすすめた。滝本さんはリュックを背負ったまま椅子に座った。
背中のリュックが背もたれに押されて頭くらいの高さまで来ている。
……妙だけど、つっこまないほうが良いのかな。
どうぞ、と残っていたコーヒーを出すと滝本さんはペコリと頭を下げて一口飲んだ。そして
「あのすいませんが、今週末、私の母親に会って貰えませんか。母はずっとお付き合いしてる方がいるのですが、俺に気を使って結婚していなかったので、早く安心させたいのです」
それを聞いて身を乗り出した。
「それが結婚したい理由ですか?」
滝本さんは静かに頷いた。
たしかお母様はひとりで滝本さんを育てたのだと聞いていた。
息子がちゃんと結婚しないと自分は結婚しないなんて、滝本さんのことをすごく大切に思っているんだなあ。
そして滝本さんも偽装結婚でもいいからして安心させたいなんて優しい。
胸の奥から興味が顔を出した。
自分の母親が毒すぎて、そんなの羨ましすぎる。会ってみたい。
「じゃあ今日行きましょうよ」
と言った。
「え……? そんな急に大丈夫ですか?」
滝本さんがキョトンとして言う。
「私は大丈夫ですが、滝本さんのお母様は大丈夫ですか。今日突然とか。無理でしたら週末で大丈夫なんですけど、早い方がいいのかなと思って」
私は人見知りしないので余裕だと思う。むしろ色々な人と初対面で話すのは好きだ。
深く付き合うとなると話は別で、面倒になって逃げだしてしまうのだが、外面で良いなら得意だと思う。
滝本さんは、それは大丈夫だと思います。最近は夜も早めに帰っているようなので……と言い
「では……連絡を入れておきます」
とLINEを立ち上げていたので、私はすぐに言った。
「あの、お客さんを躊躇なく家に上げられる人は少ないと思うんです。お母様に伝えてほしいのは、私たちも会社帰りに行くこと、手土産は必要ないことです。提案として、少しかしこまった和食屋さんでご飯……あ、会食で使う花田屋さんはどうでしょうか」
私がお母様の立場だったら、当然「今日結婚する相手連れていく」と言われたら「待て待て掃除させてくれ」と思う。
事実滝本さんが来る時、私は前日から家をひっくり返した。
なんなら「着る服が無いわ!」と思う。だから簡単な挨拶だけです……と伝えないと普通は困ってしまうと思う。
「なるほど。花田屋さんなら母も好きだと思います」
「煌めき御膳を予約しましょう。入っているローストビーフが大好きなんです」
私はお肉が好きで、一番の好物はローストビーフだ。
ソースが別格に美味しい。玉ねぎの甘さがお肉の味を引き立てて何枚でも食べられる。
滝本さんは目を細めて
「分かります。新年会で出るホテルのローストビーフも美味しいですよね」
と言った。
!! 私は思わず身体を前に出す。
「滝本さんもあれ、お好きなんですか!」
会社の新年会はホテルで行われてるんだけど、私はそこで出るローストビーフが大好きで、こそこそ壁際を移動して取りに行き、食べては貰いに行き……を繰り返している。
まさか滝本さんが仲間だなんて地味に嬉しい。
「花田屋さんは予約すると、大きなローストビーフが食べられるんですよ。金田重機の社長がお好きで、注文したことがあります」
「えっ……すごく気になりますけど……今日はご挨拶なので、それはまた今度……滝本さんと二人で行きましょう!」
特注できるなんて知らなかった。
あのローストビーフは煌めき御膳に二枚しか入ってなくて、いつも残してる同僚の瀬川さんの分を食べたくて……でも会社の相沢さんはそんなこと出来ないので我慢していた。
山盛りあるなら、それと黒生ビールで食べたい!
滝本さんは「昨日洗って頂いたので……」とマグカップを台所で洗いながら
「もう一点確認なのですが、結婚することを会社には伝えますか?」
と聞いてきた。それは私も悩んでいたんだけど、うちの会社というか、私の後輩の岩崎さんと、滝本さんの上司の長谷川さんが夫婦なのだ。
その他にも社員同士の結婚は多いし、好意的なイメージがある。
「入籍したら伝えましょう」
私がそう言うと、滝本さんは「はい」と静かにほほ笑んだ。
そして「では会社で」と玄関で革靴を履いて出ていった。
どうやって会社に行くんだろ? と窓からのぞいてたら、自転車でぴゃ~~~~と下りて行った。
特快の駅まで自転車で行くのかな。数分で坂の下にいる。はやい~~! ていうか気持ち良さそう。
私もやってみたい……! いや、でも帰りが地獄すぎる。
というかこの家に引っ越して10年、自転車でこの坂を下るという選択肢は一度も考えたことが無かった。
別の人と暮らすと、私が今まで生活していたのと別の視線が発生するのがすごいな。
脳内が固まっているのが分かる。新鮮だわ。
戸締りを確認して私はペタンコになる運動靴を履いた。そして歩き出す。
私は駅まで当然徒歩なんだけど、会社用のヒールは傷んでしまうので、駅までは運動靴で行っている。
そしてこれを鞄の一番下に潜ませて会社に持って行く。
川面が太陽の光を浴びてキラキラと輝いている。今日もいい天気!
よ~し、結婚するぞ~!
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