第95話 咲月のもふもふチャレンジ(奈良②)
マップを見ながら奈良公園へ向かって歩いていると咲月さんが、
「きゃあああ、もう鹿が、鹿が歩いてますよ!」
と目を輝かせた。京都に行くなら奈良公園で鹿を見てみたいと言ったのは咲月さんだ。
調べてるときに市内を普通に鹿が歩いているとは聞いていたけど、俺も来たのははじめてで新鮮だ。
東大寺に向かいながら町を散策して、ゆっくりと歩いた。
京都が都会すぎたのに比べて奈良は本当にのんびりした良い所だと思う。
正直俺が想定していた『京都・奈良』はこういう所だ。
開けた公園をゆっくり歩くと東大寺前の奈良公園に到着した。
結構な距離があったがはじめての街をゆっくり散策するのは好きだ。
咲月さんは町の中を歩いている鹿を「鹿! 鹿鹿!」と叫びながら追いかけて歩いていた。
奈良公園に到着すると、さっそく鹿せんべいが売っていた。咲月さんはごくりと生唾を飲み、
「……いいですか、隆太さん、買いますよ」
「良いんですね? もうすでに鹿たちが近づいてきていますが」
「頑張りますっ!」
咲月さんは白い軍手をした両手をぎゅっと握った。
奈良公園の鹿にせんべいをあげたいと咲月さんが言うのでYouTubeで調べていたら、鹿に襲われる動画が山ほど出てきた。
襲われるというと言葉が悪いが、本当に襲われていた。四方八方から鹿が押し寄せて、子どもは危ないほどだった。
鹿は予想以上にデンジャラスな生き物だ。
これが普通に公園にいるのすごいな。
俺はマフラーをしめなおしながら、
「予想より天気も悪く、お客さんも少ないから、すごいことになるのでは……」
「隆太さん、助けてくださいよ、お願いですからね、約束しましたからね、絶対ですよ!!」
「出来る限り……は……」
俺は思わず苦笑してしまった。
天気が悪い日はお客さんも少なく、鹿ももらえるせんぺいの数が少ないので、恐ろしい勢いで襲い掛かってくるとユーチューバーが言っていた。
昨日は鈴虫であんなに嘆いていたのに、鹿には向かっていくそのパワー、よく分からないが見守ることにする。
咲月さんがお土産屋の鹿せんべい売り場に近づくだけで、後ろから鹿たちがトコトコ近づいていく。
俺は正直面白くてその後ろ姿を動画に撮りながら声をかけた。
「咲月さん。後ろ、みてください」
「ふぎゃーーー! もうこんなに。まだ持ってない、まだ買ってない、まだですよ!!」
YouTubeで見たのだが、両手を上にあげてふりふりすると鹿はあきらめると学んできたのだ。
咲月さんが振り向いて両手をふりふりすると鹿は一瞬立ち去るが売り場に向かった咲月さんにやっぱりぐいぐいと近づいていく。
俺は咲月さんの横に駆け寄り、せんべいを買うのを見守った。
せんべいを買っている咲月さん、それを見てる大量の鹿、それを撮影している俺……妙な空間だ。
そして咲月さんが鹿せんべいを手にした瞬間、鹿たちが「うおおおおおおアイツせんべい買ったぜ!!」と咲月さんを取り囲んだ。
咲月さんは鹿せんべいを持ち上げて叫ぶ。
「ひえええええ!! すごい、きゃああああ、服を噛んでます!!」
「おおっと、これは……じゃあ俺に全部渡してください。一枚ずつ渡しますから」
「隆太さん、はい!! いやあああ、ダッフルコートがかみかみされちゃって、いやあああ!!」
咲月さんは鹿にモミクシャにされながら俺に鹿せんべいの固まりを渡してきた。
その瞬間鹿たちが俺のほうに向かってギラッと目を輝かせて頭をグイグイと突き刺してくる。
奈良公園の鹿はツノが短くカットされているが、それでも痛い。ちょっとどこまで力が強いんだ!
なんとか高所で一枚ずつ咲月さんに鹿せんべいを渡すが、その腕をまぐまぐと食われていく。
咲月さんは悲鳴を上げる。
「いやあああ、しゅごい、怖い、すごい、ダメ!!」
「うわ、手を狙ってきますね、どうぞ」
「もうちょっと、ゆっくり、ちゃんとあげるの、ちゃんとあげるから! ああーーっ手を食べられたあああ、痛いです!!!」
「大丈夫ですか?! こっちはポケットの中を噛んできますね、咲月さん次をどうぞ」
「こわいいい……!! よし、もう大丈夫です、満喫しました。あとは隆太さんよろしくお願いします!!」
「そんな! うあわあああ!!」
恐怖のあまり咲月さんは鹿の集団から逃げ出した。
残された俺の所に大量に鹿が押し寄せてきてポケットに噛みつき、背中を押され、服に噛みつかれた。
持っていた鹿せんべいはすべて地面に落ちて、鹿たちはそれをもしゃもしゃと食べ始めた。
そして数秒で鹿せんべいは粉々になって消え、鹿たちは「もうないならいいっす」と言った表情で去って行った。
すごい、鹿のパワーを舐め切っていた……!
少し離れた場所で隠れるように俺を見ていた咲月さんの所に行くと、
「……予想以上の恐怖体験でした。あんなに襲い掛かってくるなんて」
「手は大丈夫ですか? 噛まれたと言ってましたが」
「痛かったです~~でも軍手してたので助かりました。でもすっごく獣臭い……隆太さん一人残してすいませんでしたああ……あんなに怖いと思ってなかったんです、うえーん!!」
咲月さんは物陰に隠れて半泣きになっている。
もう正直その姿が可愛くて俺は持っておいた普通の手袋と取り換えた。
咲月さんは「うう……すいません……手が獣に…………」と半泣きになりながら手袋を受け取った。
鹿せんべいを売ってくれた店員さん曰く、修学旅行生がいるタイミングだと鹿たちもお腹が膨れていて襲い掛かって来ない。
お客さんが多いタイミングがおすすめですよと言った。
要するにこんな真冬にすることじゃない……ということだ。
パラパラと降っていた雨は雪に変わり、雪の東大寺となった。
咲月さんは鹿に怯えていたが、鹿せんべいを持ってない状態だと鹿はフレンドリーで触らせてくれると気が付いて、背中をさわさわして撫でていた。
大粒の雪が降ってきた東大寺を背景に、鹿を撫でる咲月さんを俺は一眼レフで撮影した。
大きな門に降り始めた雪に白い息。そして「せんべい持ってます?」と近づいてくる鹿は可愛くて、夢中で写真を撮った。
天候も関係あるかもしれないが、東大寺の観光客は少なく、俺たちはゆっくりと中を見学した。
咲月さんは大仏さまをみて足を止めた。
「15メートル……これをすっごく楽しみにしてました。わかりますか隆太さん、進撃の巨人のアイツと同じ大きさなんですよ!!」
「おお……これがのっしのっしと歩いて襲いかかってくるのは、無理ですね」
「無理ですよ!! このサイズでムシャァァァ!! 兵長を待つしかないっ!!」
咲月さんは右から左から後ろから大仏を満喫して奈良観光を終えた。
東大寺を出ると雪の降り方は本格的になっていたので、傘をさして俺はスマホで郵便局を探した。
その画面を咲月さんがのぞき込み、
「郵便局に行くんですか?」
と、首を傾げた。
俺は「そうなんですよ」と言いながら帰り道にあった郵便局に向かい、郵便コーナーに入った。
咲月さんは並んでいる商品を見て目を輝かせた。
「!! 隆太さん、すごい、可愛いです!!」
「これはご当地フォルムカードというもので、各都道府県の郵便局で販売してるものなんです」
俺はデザロズのライブに行くと、必ず郵便局に寄るようにしている。
地方の郵便局にはご当地フォルムカードという大き目の絵葉書が売っている。
120円払えば普通に使える絵葉書で、その地方ならではの絵柄だ。
地方の郵便局でそれを購入して、日付、ライブの感想を書くのだ。
咲月さんは商品を見て目を輝かせた。
「わっ、色々ある……春日大社……東大寺大仏殿……鹿! 隆太さん鹿がありますよ!!」
「鹿にしますか? 襲われたのに」
「うっ……そうですね……コイツは私を噛みました……許しませんっ……でも可愛い、それを書きますっ!!」
咲月さんは鹿のカードを購入して「鹿に噛まれた、許せない、かわいい!!」と書き込んだ。
なるほど矛盾の塊。
俺も今日の日付と天気などを書いた。
咲月さんはそれをもって、
「じゃあこれをポストに入れればよいんですか?」
と言ったので、俺は首をふった。
「これは窓口で風景印という地方特有のスタンプを押してもらえるんですよ。しかもこれは郵便局ごとに種類があるんです」
「特殊スタンプ!! 激上がります!!」
「よく分かります」
俺は深くうなずいてしまった。
正直すべての郵便局でご当地フォルムカードを購入して別の風景印を押したいと思ってしまう。
こういうときに俺はオタクだと思う。コンプリートしたくて仕方がない。
窓口で風景印を押してもらい、ご当地フォルムカードを出した。
咲月さんは俺の腕にギュッとしがみついて、
「隆太さんすごい、旅行のウンチクも満載ですね」
「正直楽しいです」
「これは自分への最高のお土産になりますね、わーー、楽しい、京都からも出したいです」
「新幹線のために戻りますからね、行きましょうか。ほら、風景印はこれだけあります」
俺がWEBサイトを見せると咲月さんは「可愛い~~!」とテンションを上げた。
俺たちは新幹線に乗る前にもう一枚ご当地フォルムカードを自分宛に出して東京に戻ることにした。
ああ、こんな小さなことで全力で楽しんでくれる咲月さんとの旅行は楽しすぎる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます