第8話 今まで一番の(滝本視点)

 嘘だ。

 

 俺は相沢さんに嘘をついた。

 嘘というか営業のテクニックの一つ『あなたの好きなものは、僕も好きですよ』と先に提示することで相手を安心させる方法だ。

 俺は前から相沢さんが好きな食べ物を知っていたんだ。


 去年冬コミで相沢さんを認識して、一番最初に『注目して相沢さんを見た』のは、今年の新年会だった。

 いつも気にしてなかったけど、相沢さんはローストビーフが大好きなようで、壁際をゆっくり移動してお肉を入れて、食べ終わるとまた近づいていた。

 それは偉い人の挨拶や、BINGO大会中など、みんなの視線が料理から外れたときに、こっそりとしていた。


 俺は心のどこかで「コミケで顔にカバー載せたまま寝るとか、あのクールビューティーな相沢さんが、そんなことするだろうか」と疑っていた。

 でもその姿を見て確信したんだ、あれは相沢さんだと。


 もちろん俺もローストビーフは好きだけど、何が一番好きかと問われたらお寿司になると思う。

 俺が好きなのは、ローストビーフを隠れて食べている素の相沢さんだ。


 俺は自転車のハンドルをきつく握った。

 五月が終わって、夏の挨拶みたいな湿度を含んだ風が頬を撫でる。

 どれだけかみ殺しても微笑んでしまう。


「……また今度……滝本さんと二人で行きましょう!……だってさ」


 正直とてもうれしかった。

 俺に向けられたあの笑顔も、言葉も、すべて。

 なんでもいいよ君の笑顔が見られるなら、俺はローストビーフの塊だって食べられる。今日から大好物になった。

 嬉しすぎてこのまま自転車で都心の会社まで行けそうだけど、確実に遅刻だし、何より汗臭くなるのは困るから、普通に自転車をとめた。

 時計を見ると5分もかからず下りて来ていて驚いた。

 帰りは20分以上かかりそうだけど。

 ああ正直、会社に行く前から帰りたい。




「ヤバいよ、滝本。長谷川さんの事聞いた?」

 

 会社近くのコンビニでお茶を買おうとしたら、同僚の清川に声を掛けられた。清川は営業で一番情報の仕入れが早い。

 営業の大きな仕事に正確な情報収集があると思う。得意先の好物、好きなタイプ、お気に入りのお店。

 誰もが欲しがる商品に営業が必要ないことを考えると、買う人の情報はとても大切だ。

 どうした? と清川が持っていたお茶とフリスクも一緒に買って、横流しをはかる。

 サンキュと言い、清川はお茶を一口飲んでニヤニヤしながら


「長谷川さん、浮気バレちゃったらしいんだよ」


 清川は目を大きく開いて、正直面白くて仕方ないという顔で話を始めた。

 長谷川さんというのは、俺たち営業部署の課長だ。

 それこそ、さっき相沢さんと話していた……後輩の岩崎さんと結婚している人なのだが、誰かと不倫していたということか。


「相手がさあ、長谷川さんの同期の、今大阪に居る遊佐さんらしいんだよ。やべぇ、これは燃える。当分二課に顔出せないぞ。マジやべぇ」


 二課は相沢さんがいるデザイン課だ。

 たしか遊佐さんも元二課で、二年ほど前に大阪に転勤になったはず。

 ……よく考えたら長谷川さんと岩崎さんが結婚したのも二年前だ。


「なるほど。長谷川さんは遊佐さんと付き合っていたけど別れて、岩崎さんと結婚したのか」


 社内では知られて無かったと思う。

 清川は片方の眉毛をあげて、表情を歪ませながら


「もっと酷い。長谷川さんは遊佐さんを捨てたらしいぜ。若い子と結婚するから~って。俺部長に聞いたもん」

「なるほど、これは大変そうだ」

 俺が頷くと清川は楽しそうに

「長谷川さん明日戻ってくるらしいぜ。カハ~~~、どうやら岩崎さん大阪に殴り込みしたらしいから、面白い話が聞けるぜ~~!」

 清川の話を聞きながら、じゃあ明日は夜の酒に付き合わされないように、ランチで話を聞けるようにしようと心に決めた。

 夜の酒はテンションが高い清川が付き合ったほうが良い。俺は早く帰りたいし、先に長谷川さんのガス抜きしたほうが良い気がする。

 俺はその場で長谷川さんが好きな蕎麦屋のランチを予約した。


 会社では表向きみんな仕事をしていたが、喫煙所やトイレでは、この話で持ちきりだった。

 長谷川さんと遊佐さんの付き合いは長かった……とか、遊佐さんは不妊で……とか、長谷川さんは子どもが欲しくて……とか。

 正直何の根拠もない、尾ひれをつけた噂の塊。

 俺はこういう話は苦手だ。逆の立場になった瞬間に、こうしてネタにされるのだと考えると、会社という組織に存在することがイヤになる。


 昼休み。

 清川と食事をするために二階でエレベーターを待っていたら、一階の玄関ホールに相沢さんが居た。一緒に噂の岩崎さんと、数人の女の人たちもいる。

 相沢さんは俺に気が付いて、目元で微笑んだ。

 わ、これだけですごく嬉しい。朝から根拠なき陰口で疲弊した心が柔らかくなる。

 今まで俺はずっと一人で相沢さんを追っていたのに、相沢さんの方から俺を見てくれるなんて……と思っていたら

 相沢さんは、肘を折り、指先を上に向けた状態で指をヒラヒラと踊らせ始めた。

「……?」

 なんだろう。指先が痒いのかな? 訝しげに見ていたら、今度は目を閉じて頭を軽く振る。

「……?」

 なんだ? 何を伝えようとしているのだ?

 俺はポケットからスマホを取り出して、トンと叩いて相沢さんに見せた所で時間オーバー。

 エレベーターが来たので乗り込んだら、相沢さんからLineが来た。


『そういえばLineがありましたね。岩崎さんと長谷川さんのことで両課とも冷静ではないので、もう少し落ち着いてから結婚の報告をしましょう』


 と来た。

 そうだね、今言うのは得策じゃないと俺も思う。

 ……んん?

 俺はさっきの相沢さんの妙な動きを思い出す。

 ひょっとして、さっき指先を上に向けてヒラヒラしていたのは『冷静ではない』。

 目を閉じて頭を振ったのは『落ち着いて』? なのかな。

 

「っ……!」

 俺は思わず噴き出した。

 なんでそんなブロックサインみたいなことで伝えてきたのだろう。

 結婚するのは秘密だからだろうか。

 というか、Lineがあるのに。

 俺は頭を抱える。

 ……相沢さん、可愛すぎる……。

 続けてLineが来る。


『すべては当人たちにしか分からないことですから、とりあえず私たちは寄り添いましょう』


 ……うん、本当にそう思う。

 冷静でブレない。相沢さんは『いつもちゃんとそこにいる人』だ。

 それに、物事に対する距離感が同じで安心した。

 俺はLineを返す。


『了解しました。夜の花田屋さんは予約が取れました。母も大丈夫だそうです』

 そう打つと

『了解です』

 と返って来た。

 嬉しくて顔がにやける。情報をすぐに察知する清川が近づいてきて

「契約取れたの?」

 と言うので

「そうだな、大口の」

 と答えた。

 相沢さんと結婚する報告を母にする。

 これほど嬉しい契約、今まで取ったことがない。

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