③-触るな-

 魂のない抜け殻はひどく汚れていた。

 銀の鎧は血と泥で輝きを失い、無残な傷跡が幾つも残されている。乱れた赤毛は地面にたらされ、見開かれた瞳は死んだ魚のように濁っていた。

 しばし呼吸を忘れて見入ってしまったユキトは、眉間に深い皺を刻んだ。


「……」


 魂の姿を見ているからわかる。本当はもっと美しくて凛々しかったはずだ。それが今は見る陰もなくゴミのように崩れ果て、こんな場所に打ち捨てられている。

 なぜだが胸中に、やるせない気持ちが沸いてきた。

 死体に恐怖するでもなく、逃げることも忘れてユキトは彼女の頬に手を伸ばす。


『私に触るな』


 直前、剣が突きつけられる。手を止めたユキトは、死体の前で剣を構えるルゥナの魂を見つめた。その姿に彼女の死因を連想する。


「戦ってた、のか」


『質問しているのは私だ。答えなければ斬る』


「……どうぞ、ご自由に」


 意外な返答にルゥナが鼻白む。ユキトはその場に座って肩を竦めた。


「やれるものなら」


『……後悔するなよ』


 躊躇うことなくルゥナが剣を突き出した。

 切っ先はユキトの胸を貫き背中から出ていく。

 反応を示したのはルゥナの方だった。突き刺さした箇所を見て目を見開いている。


「手応えないでしょ? 霊体は人に触れないんだよ。できることといえば、俺みたいな霊感持ちにずっと喋りかけることくらいだね」


 動揺するあまりユキトはその事実を忘れていたが、本来は逃げる必要もなかった。

 そして冷静になった頭の中である思いつきが浮かんでいる。


「あと、俺が別の世界の人間だって証拠だけど。これとか」


 胸ポケットから生徒手帳を取り出してルゥナに見せる。彼女は警戒した様子だったが、中身を覗き込むと驚きを示した。


『これは……こんなに小さい文字が精密に並んでいる。この絵も本人と瓜二つだ。こんな完璧な筆記と写生を行うとは、一体何者の仕業だ?』


「それは機械で作ったものだよ。こういうのもある」


 腕時計を見せるとルゥナは唸り声を上げた。しばし無言で注視する。


『貴族が所有する懐中時計にそっくりだな。ただ比べ物にならないほど精緻だ。こんな技術を持つ国は、聞いたことがない』


「俺が住んでた場所ではどっちも普通に流通してる」


『……世迷言ではないというのか』


 ユキトの思った通りの反応だった。この世界の技術水準がどれほどかは類推するしかないが、鎧姿の人間が神がどうのと言うくらいだから、少なくとも現代社会と離れているだろうと当たりをつけていた。


『異世界などにわかに信じがたいが、少なくとも君が常識外の存在だということはわかった。では、導師様でもないのだな』


「そう言ってたんだけどね。導師様がなんなのか知らないし」


『この世界には精霊や神の声を聞き、神託を受ける力を持った人々がいる。彼らは人ならざるもの、すなわち悪鬼や霊魂も同様に接触できる。多くは敬虔な宣教師や修道女、神官の中から目覚めるようだが、力を持つ者を区別するために導師と呼称している』


「霊媒師とかイタコ、みたいなもんか」


 そう解釈すると想像しやすい。地球でも遥か昔には神を憑依して占いを行うシャーマンがいたというし、類似するところがある。本当に神や精霊がいるかどうかはまた別の問題になるが。

 ルゥナはため息を吐くと、剣をゆっくり下ろした。


『そうか……すまなかった。私の勘違い、なのだな。霊魂が視える上に極めて慣れた様子でいるものだからつい……しかし弁解させてもらうとすれば、この世界の人間なら誰もが私と似た間違いをするはずだ』


「そうか……やっぱり俺のいた世界とは違うんだな。だからルゥナさんの態度も違うわけだ」


『私が? それはどういう――』


 言葉の途中、ガサリと音がした。

 ユキトは驚いて振り向く。暗い森の中で、背の低い木立を掻き分けるようにして進む何かがいる。固まっているとそれは目の前に現れた。

 獣から剥ぎ取ったような皮を身体に巻き付けた無精髭の男が二人。背中や腰に何本もの剣、槍をくくりつけている。


「ああ? なんだてめぇ」


 男の一人がユキトを確認し、鬱陶しそうな声を出した。急に威嚇され反応に困ると、もう一人の男が倒れている女――ルゥナの遺体に目を向ける。


「おっ、ここにも落ちてますぜ兄貴。しかも女だ」


 兄貴と呼ばれた男は無造作にこちらに近づいてきた。ユキトではなく彼のすぐそばに倒れるルゥナをジロジロと眺める。


「敗残兵か……にしてはヤられた形跡はねぇな。欠損もなし腐敗も進んでない。鎧と剣を剥ぎ取ったらそのまま死体商に出せる。くっくっく、いい拾い物したぜ」


 男はしゃがみ込みルゥナの鎧を外し始めた。まるでユキトなど見えていないかのような態度だ。唖然としていたユキトは我に返ると男の肩を掴んだ。


「お、おい!? あんた勝手になにしてんだ!」


「……邪魔すんじゃねぇよ。こういうのは奪ったもん勝ちってのが俺らのルールだろうが」


「何を――」


『いけない!』


 ユキトの腹に男の野太い腕がめり込んだ。

 衝撃とともに後方の大木まで吹き飛ばされる。幹に背中を痛打して地面に倒れたユキトは、腹部の焼けるような痛みに喘いだ。


「始末しとけ」


 兄貴の声に反応してもう一人の男が近寄ってくる。その腕には血のこびり付いた剣が握られていた。


「な、んだよ、こいつ、ら……!」


『スカベンジャーだ。大きな争いの後にはこういう連中が必ず湧いて出てくる。戦場で朽ちた兵士たちの武器や防具を盗んだり、遺体から髪や骨を取り出して商人に売り捌く。一言でいえば悪党だな』


 吐き気のする説明に顔をしかめたユキトは、ルゥナの表情を見てハッとした。

 魂だけの彼女は今、拳を握りしめ怒りを堪えていた。その視線の先には、鎧を剥ぎ取られ裸にされつつあるルゥナの肉体がある。


「なぁ兄貴ぃ。こいつ殺したらさ、その女で遊んでいい?」


「ダメに決まってんだろ。売り物だぞ」


「一回だけならバレねぇって。後で洗うんだしよ」


 男達が何を話しているのか、ユキトには理解できてしまった。

 そしてより剣呑な顔つきになったルゥナもまた、そのおぞましさを理解しているだろう。

 だが彼女はその場から動かない。動いても意味がないとわかっている。ユキトとのやり取りで人に触れないと悟ったルゥナは、自分の体が蹂躙されていく様を見届けるしかない。

 この場で動けるのはユキトだけだ。しかし逃げなければ殺される。他人の死体を気にする必要などあるだろうか。

 どうすることが正解なのか、彼は頭の中で必死に考えた。


『逃げろ』


 振り返ろうとしたが『視線を逸らすな』の一言でユキトはとどまる。


『君は素人だろう。武器を持った相手に立ち向かうのは愚かだ。幸い連中は、死体の側にいた君を同業者だと勘違いしている。ここで逃げ出せば見逃される可能性が高い』


 ではルゥナはどうするのか、と疑問が湧いたところで、彼女は寂しげに笑った。


『それに私はとっくに死んでいる。今更、戻れもしない身体に固執しても仕方がない。だから私のことは気にするな……君はその生命を大事にしろ、異世界の少年』


「だけど……!」


 思わず反応したとき、男が剣を大きく振りかぶった。


「どこ向いてんだコラ」


 脳天めがけて振り下ろされる。


『右に飛べ!』


 ルゥナの声が意識を貫いた。ユキトは反射的に横っ飛びして回避する。


『膝を蹴れ!』


 短い指示に迷うことなく動く。地面に手をついたままユキトは相手の膝を靴底で蹴った。大した威力ではなかったが、武器を背負った相手のバランスを崩すには十分だった。男は膝を折る格好になり背中から地面に転がる。


『いまだ! 走れ!』


 ルゥナの声に押されて走り出す。進行方向には、ほぼ裸体となったルゥナの亡骸とスカベンジャーの男がいた。男は騒動に気づいて立ち上がっている。違う方向へ逃げようとユキトは考えたが、ルゥナの亡骸から目が離せなかった。

 逃げろ、と理性が叫ぶ。だが身体は勝手に動いた。


「……っおおおお!」


 兄貴分の男に体当りをぶち当てる。

 男と共に地面を転がったが、ユキトはすぐにルゥナの亡骸を庇うようにして立った。そして近くに転がっていた彼女の剣を掴む。ジャラリと鎖が鳴った。


『なっ、何をしてるんだ!?』


 ルゥナの魂が慌てた様子でユキトに近づいた。だが彼が答える前に、起き上がっていた兄貴分が獰猛な声を上げる。


「てめぇ離れろ! こいつは俺のもんだ!」


「っ……本人が嫌がってんだよ!」


 絞り出した声に、ルゥナが目を見開いた。

 剣を握りしめたユキトの手は震えている。つい手にしてみたものの扱える気はしない。

 それでも、肉体が弄ばれる様を見届けるしかないルゥナを、助けてやりたかった。

 舌打ちした男は剣を逆手に持ち替え、ユキトめがけて振り下ろす。


『止めろぉ!』


 ルゥナの半透明な身体が二人の間に割って入る。当然、物質に触れない彼女はそのまま二人をすり抜けていく――

 ――はずだった。

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