⑨-生き残れ-
隊列を組むゼスペリア軍兵士達の顔色は、戦う前から陰鬱に沈みきっていた。
原因ははっきりしている。つい今し方、守護兵団の到着が遅れていると各諸侯から通達が入ったばかりだった。
兵士達は、絶望の谷に突き落とされた。援軍は必ず来ると説得されたが、前途の見えない状況で楽観視できるはずがない。
既に敵軍は開戦前の打楽器を鳴らしている。戦意を高揚させる音楽が止めば、いよいよ攻撃が開始される。そしてゼスペリア軍単独で、敵軍の猛攻を凌がなければいけない。
負け戦になると、誰もが考えていた。守護兵団という強力な味方に希望を見出していた彼らの落胆は大きい。士気は地の底まで下がりきり、逃げ出すことを考え始める者達は多くいた。
そのとき、隊列の前線に一騎の騎兵が駆けつけた。手綱を握っているのは女騎士のライラだ。
しかし彼女の後ろでもう一人、騎士が鞍に跨っている。
「聞いてくれ皆!」
声を発したのは少年だった。彼はゼスペリア軍の戦旗を高らかに掲げている。そして、鎧の上から修道士が着るような白い法衣を纏っていた。
その出で立ちで誰もが気づく。ロド家の客人として迎えられているという導師ユキトだと。
彼の噂は内地で有名だった。旅途中の導師が前州長代理ルゥナールの魂と交信し、彼女の遺体の在処をロド家に報告したことから懇意になったという。更にはルゥナの魂をその身に宿して円燐剣を披露する術を行使した。これは何人もの兵士が目撃している事実であり、導師の力が本物であるという説得力を持って伝えられた。
そんな強力な導師が、再びルゥナの魂を召還して参戦するという。
死者とはいえ、誉れ高い円燐剣の遣い手であるルゥナともう一度戦うことができる。彼女の配下だった騎士たちを中心に、多くの者達が確かに高揚していた。
だが、今となってはその効果も目減りしている。いくらルゥナに人望があろうと、たった一人の騎士が舞い戻ったところで趨勢を変えられるわけではない。
「これからルゥナに、俺の体を貸す。彼女から皆に伝えたいことがあるんだ」
それでも、ゼスペリア軍の全員が刮目した。
導師の奇蹟を見るのは初めてだったし、前州長代理が何を告げるのかに興味があったからだ。
兵士達の目前で、ユキトの体は急に力を失う。かくりと頭を後ろに下げたかと思えば、すぐに姿勢を戻した。
彼の表情、目つき、雰囲気と、全てが変わる。
「……久しい顔が並んでいるな」
ゆっくりと微笑んだ少年は、近場に揃っていた騎兵達に目を向ける。
「ベルファス、ピューリ、ダリアン。よくぞ先の戦を生き延びてくれた。そして、再びゼスペリアのために立ち上がってくれたことに礼を言おう」
名を告げられた三人の騎士が揃って眉を上げる。外地に住んでいる彼らはユキトとの面識がない。名を知られているはずもないが、本当にルゥナの魂が乗り移っているならば把握していて当然だろう。
ただ、三人は困惑を隠しきれなかった。導師の儀式はもっと仰々しくて、大きな変化が生じると思い込んでいた。
ユキトの変化はあまりにも静かで、急すぎる。それ故に、どこかで演技をしているのではないかという猜疑心が過ぎっていた。
「驚いている、というより戸惑っている感じだな。無理もない。このユキトという少年の体と声には、ルゥナールの面影は何もないから。私とて反対の立場なら、いくら導師といえども疑ってしまっただろう」
騎士達の疑念を感じ取ったのか、ルゥナと名乗る少年が苦笑いを浮かべる。
「いえ、そんなことは……!」とピューリが咄嗟に取り繕った。本当かどうかは置いても、かつての主君を信じようとしない態度は立場的に都合が悪い。
「誤魔化さなくていい。それに私は既に死んだ身だ。今更敬い、従う真似などする必要はない。ルゥナール本人だと信じてくれなくても構わない。ただ、今このときだけは私の言葉に耳を傾けてくれ」
不意に、騎士達の胸中に飛来する感覚があった。
それは懐かしさだ。
ルゥナは州長代理という立場にいながらも、権威を振りかざすことも独善に走ることもなかった。配下であろうと同等に付き合い、相手のことを思いやる。それ故に自分のことを蔑ろにする傾向があって、よくライラにからかわれていた。
確かにルゥナールという女性はこういう人柄だったと、誰もが思い出す。
「個別に話したいところだが、生憎と時間がない。何より初めて登用された者、ゼスペリアのために立ち上がってくれた者達のためにも、伝えたいことがある」
敵軍の音楽が響く中、ルゥナは負けじと声を高らかに告げる。
「これだけは覚えておいてくれ。ゼスペリアのために、戦うな」
各自の頭に一瞬の空白が生じる。兵士達は、どういう意味なのか計りかねた様子で顔を見合わせていた。
「この戦いは凄惨なものになる。敵の軍勢は強大で、かつ我らは圧倒的に不利だ。だからこそ、ゼスペリアのためではなく、自分が生き残ることだけを考えてくれ」
騎士達の一部が大きく反応した。彼らが動揺したのは、死者とはいえ領主が自分の領土を蔑ろにする発言をしたからだった。
「死ねばそこで終わりだ。生き残れば、次に繋がる」
「ですがルゥナール様! 我らはゼスペリアの剣です! 主君のために命を投げ打つことこそ騎士の本懐ではないのですか!?」
騎士のダリアンが反論した。彼にとって命とは、誰かのために使う道具でしかない。他の面々も似たような境地であり、納得ずくで騎士という人生を歩んできた。
しかしルゥナはゆっくりと首を振る。
「生きろダリアン。貴公のところは子供が生まれたばかりだろう?」
「っ……!」
「記憶違いでなければ、クラウスは婚約を控えていたはず。弟たちを養っているのはザメッツか。家の復興を目指す者は、レディーシュ嬢だ。あのとき語ってくれた未来を手放すべきじゃない」
騎士達は別の意味で動揺する。図らずも意識しまいとしていた心残りに、意識が向けられる。
「街や村から集められた兵士の皆にもそれぞれ事情があるだろう。君たちにとって大切なのは、主君ではない。かけがえのない家族や恋人の存在だ。決して州という器ではない。それを見誤るな」
それからルゥナは自虐的な笑みに切り替えて、自身の体を見つめる。
「……私はこの少年に助けられたことで、再びこの地に立つことが出来た。だが、それは全て偶然の結果だ。この世に未練を残して死んだ者は、もはやどうすることもできない。ただ忘れ去られていくだけだ。死ねばそこで全てが潰える」
実体験から来る彼女の言葉は、真に迫るものがあった。
誰もが自分の死後を想像し、残された者達へと思いを馳せていく。
「だけど、生きていれば愛する我が子を抱くことも、同胞と喜びを分かち合うこともできる。たとえゼスペリアを失っても、生きてさえいれば、またやり直すことができるんだ」
それからルゥナは、静まり返った面々に向けて、軍旗と共に深々と頭を下げた。
「最後に、こんな劣悪な戦いに巻き込んでしまったことを詫びたい。本当にすまなかった……原因を作った張本人が生き延びろなどと言うのはおこがましいと思うだろう。だから、こんな私でよければ、この戦で存分に使ってくれ」
「何を仰られますか!」「ルゥナール様は我らの誇りです!」「また貴女様と戦えるのであれば本望ですよ!」
騎士達がにわかに声を上げる。もはや彼らにとって、ルゥナが本物かどうかという疑念は些細な事だった。
ゼスペリアを支えてくれた尊敬すべき女性が、死してもなお皆のために言葉を振り絞っている。
応えなければ、男ではない。
騎士達の熱が伝播するように、兵士達の顔つきも変わり始めた。
ルゥナはくしゃりと笑顔を崩す。だがすぐに表情を戻すと、背筋を伸ばして大きく声を張った。
「生き残れ! それも全員で! そしてゼスペリアに戻るぞ!」
全ての兵士が腕を高らかに上げて咆哮した。
男達の声が重なり合い、平原を揺るがせる。
騎馬の操作に専念するだけだったライラが口角を上げる。
「おーおー盛り上がってんな。じゃあもういっちょ焚き付けてやっか」
そして彼女は「おい野郎共!」と声を張り上げ、鞘から剣を引き抜いた。
「あたいらのせいでルゥナ様をここまで引っ張り込んじまったんだ! どうやって責任取るか答えてみろよ!」
「無論! 我らで勝利を!」
騎士達が声を揃える。遅れて歩兵達が「勝利を!」と追従する。
「まだ気合いが足りねぇな! 男を見せろよお前ら! あたいは強い男が好みだ! 一番の手柄を取った奴はあたいが一晩付き合ってやんよ!」
地鳴りのような声が響いた。気性は荒いがライラの美しさには定評がある。
いつもなら触れることすら叶わなかった彼女が、武勲を上げた者に体を許すというのだ。興奮しない男はいない。
一見すると邪まな動機だが、これも生き延びようとする意志に繋がる。ルゥナの本意を汲んだ、ライラなりの発破の掛け方だった。
「ついでにセイラも付けてやる!」
爆音に近い歓声が上がった。敵の楽器隊も怯んで演奏に乱れが出る。
ちなみに巻き込まれたセイラは馬上で「ええー……」と嫌そうな顔をしていた。
だがこれで、士気は最盛まで膨れあがった。
機会を伺っていたジルナは天幕から出て丘の上に立ち、眼下に揃う自軍に向けて姿を見せる。簡易的ながら豪奢な鎧とマントを纏うジルナは、威厳と壮烈さを体現するように凛としていた。
同時に敵軍の音楽が止んだ。敵の歩兵部隊が揃ってしゃがみ、盾隊が頭上へ盾を掲げる。
「弩弓部隊は前へ!」
ジルナが声を張り上げる。ライラは即座に馬を後退させ、歩兵部隊も若干後退した。代わりに弩弓を装備した部隊が前に歩み出て弓を構えた。
「撃てぇえ!」
号令と共に弓が放たれる。敵軍も弓を放ち、無数の矢が青空に弧を描いて飛び交う。
飛来する矢が雨のようにゼスペリア軍へと降り注いだ。盾隊で防御しているが、矢は隙間に潜り込み兵士達の体を穿つ。そこかしこで悲鳴が上がり、地面を血が汚していく。だがこの初撃は双方にとってほんの挨拶代わりだ。
矢の雨が止んだ後、両軍は部隊を三つの横陣に展開させる。中央、左翼、右翼に歩兵が分割され、各陣の前に騎兵隊が揃った。
「突撃ぃ!」
騎兵隊長が吠える。騎兵隊が先導して突撃し、その後方から長槍を持った歩兵部隊が移動を開始した。
後世に語り継がれる<
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