幕間-とある王子の未練-

 そこは暗い場所だった。薄汚くカビも生えている。天井は立ち上がれないほどに低く、床面積も荷馬車一つ分くらいしかない。

 四方を格子で囲まれたそれは囚人を運ぶための檻だった。何度も使用されてきたのか至る所に傷と血の跡がついている。

 その中に一人、貴族服姿の男が座り込んでいた。

 男はじっと暗闇を睨み続けていた。閉じ込められてから何時間、何日が経過しているのか、もうよくわからない。それだけ長い間を彼はこの檻の中で過ごした。


 彼には一刻も早く戻らなければいけない事情がある。だが幾度となく脱出を試みても、施錠された小さな扉すらこじ開けることはできなかった。

 いや、実際には触れることすら叶わないのだ。

 なぜこんなことになっているのか理解できない。出してくれと頼んでも誰からの反応もない。自分をこんな場所に閉じ込めた存在がいるとして、その者からの説明も一切ない。

 できることは暗闇を睨み続けていることだけ。

 そうすると時折、ある変化が訪れる。

 一筋の光が差し込んだ。重苦しい音を立てて扉が開かれる。外部から入ってきたのは二人の兵士だった。


「でよぉ、その女が酒をつぎまくるわけよ。これからってときにだぜ?」


「んなもんおめぇから金をせしめるためじゃねぇか。で、具合はどうだった」


「あの界隈の女にしてはマシだったな。脱いだときのケツがよ――」


 二人の兵士は下卑た会話をしながら中に入ってくる。

 男はすぐに立ち上がって叫んだ。


『君たち! 聞いてくれ! 僕の姿が見えるか!』


 しかし兵士達は反応した様子もなく檻を素通りする。檻がある場所は様々な武具が保存された格納庫のようで、二人は弩弓の材料が入った箱を乱雑に持ち上げた。


『気づいてくれ……! 僕はここから出たい! どうしても帰りたいんだ!』


 すると兵士の一人が振り返り、檻の方へ近づいた。繁々と中を覗き込む。

 彼は顔を晴らしてその兵士に近づいた。鉄格子越しに、目と鼻の先というほどまで接近して反応を待つ。


「どうしたよ」


「そういやこいつを出しておけって命令あってな。はぁ面倒くせぇ」


 兵士は口の端を曲げながら鉄格子を蹴り飛ばす。それから踵を返して入り口に向かった。


『お、おい! どこへ行く!』


「囚人護送馬車に使う檻だろ? 戦争でもないのにどこで使うんだ」


「さぁね、上の考えることなんざ知らねえよ。とりあえず後で出すから手伝えよ」


 そう会話しながら兵士二人は外へ出ていく。出しておけ、というのは男ではなく檻のことだと気づき、彼は愕然とした。

 やはり見えていない。声すらも届いていないのだ。

 扉が閉じられていく。再び暗闇が訪れることに彼は恐怖した。


『待ってくれ! まだここにいるんだ!』


 叫び声は届かず扉が締め切られる。男は床に手をつき、どうして、と呟く。

 だが言葉とは裏腹に、彼の中では確信に近い考えが過っていた。

 なぜ誰も反応しないのか。なぜ何日も閉じ込められているのに空腹に苛まれないのか、その理由だ。


 つまりこの体は、すでに存在しないのではないか。


 記憶はおぼろげだが原因には心当たりがある。しかしそうなると、この場所から逃げ出すことができない理由がわからない。誰かの仕業だとしても意図が読めなかった。


『僕は、いつまでここにいるんだ……』


 絶望が過る。逸る気持ちだけがすり減っていく。もう二度と会えないのかと悲嘆に暮れる。

 それでも彼は――ライオットは、拳を握りしめて気力を振り絞った。

 諦められない事情があった。伝えたい想いがあった。それは彼を縛りつける未練と化していた。


『待っていてください、ルゥナール……僕は必ず、貴女の元に帰ります』


 呟きは誰にも聞かれることなく、暗闇を彷徨う。

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