⑥-諦めない-

 道ともいえないような草場の轍を、二頭の馬と滑車を付けた檻が進んでいく。

 進行方向の右手側は徐々に傾斜となり、その先には大きな川が流れていた。どこを目指しているかアルルにはわからないが、川幅と流れの速さから察するにギュオレイン州へ通じるウンゼ河川かもしれなかった。


「ああーいい。いいよアルルちゃん。いっぱい愉しませてあげるからねぇ」


 女盗賊に耳元で囁かれ鳥肌が立つ。アルルは抵抗することもできず、ぎゅっと目をつむった。

 馬上の女盗賊は自分の腕の間にアルルを乗せていた。手首には枷が嵌められ身動きが取れない。逃げだせないことをいいことに、女盗賊は執拗なまでにアルルの髪を撫でては匂いを嗅いでいた。


「前のは使いすぎて壊れちゃったからさ。アルルちゃん元気そうだしきっとあたしの薬にも耐えられるよ。はぁ、待ち遠しいなぁ。気持ちいいんだろうなぁ」


 どうやらこの女盗賊は同性を性的対象にみているようだが、甘い囁きをかけられるたびにアルルの胸中には戸惑いと嫌悪感が膨らむ。

 自然の摂理を重んじるラオクリア教からすれば男女の営みこそ正常で、同性同士の交わりなど禁忌に等しい。アルルは敬虔な信徒というわけではないが、やはり教義に反する行為は受け入れがたい。

 そんな異常性癖を易々と曝け出す女盗賊に、これから何をされるのだろうか。考えるだけで怖気が走った。


「後ろの小僧を明け渡したらアジトに戻ろうね。あたし達の愛の巣だよぉ」


「いや姉御。スルトー、じゃなくて、頭領達の帰還は待たないんで?」


「男を待ってどうすんだよボケ! 勝手に返ってくんだろ糞が!」


 女盗賊は苛立たしげに声を荒げた。アルルへの態度とはまったく違う。


「見ての通りあたしは忙しいんだ。後ろの小僧もお前が運べよ。わかったな」


 「了解」と返事をした配下の男はそれきり黙り込んだ。余計な刺激をしたくないのだろう。女盗賊はまた気をよくしたようにアルルの髪を嗅ぎ始める。

 きゅっと身を小さくしたままのアルルだが、今の言葉を聞き逃すほど思考が停滞しているわけではない。盗賊達の目的がユキトの捕獲であることに気づいていた。

 ユキトは今、囚人移送用の檻の中に閉じ込められている。アルルと同じように手枷を嵌められ逃亡できないようにされていた。それ以前に彼は何らかの毒物を投与されたらしく、ほとんど身動きできない状態にある。

 ユキトの容態は心配だが、裏を返せば、今はまだ殺すつもりがないとも読み取れる。少なくとも彼はまだこの先も生きていられる可能性があった。

 逆にアルル自身の処遇は不明確だ。

 なぜか女盗賊に気に入られ生かされてはいるが、連行された先で想像を絶する辛苦が待ち受けているかもしれない。つい先程も女盗賊は、悲惨な末路を示す言葉を漏らしていた。暗澹たる気持ちで胸が押し潰されそうになる。


 ――あたしの人生……ここで終わりなのかな。


 アルルはうつむきながら、達観したように過去を振り返った。

 幼い頃に母を亡くしてからは父親に男手一つで育てられた。輜重隊に入って幾つもの街や国を転々とし、戦争にも参加した。そんな生活が心底嫌いだった時期もある。

 だが仕事のやりがいを覚え、巡り会う人々の優しさに触れ、この世界にはまだ誰も知らない楽しくて美しいものが溢れていると気づいてからは、それを届ける一人前の商人になろうと頑張った。

 しかしアルルは、大切な父親も失った。

 密かに目標と掲げていた存在が消えたことで、アルルはこれからどうしていいかわからなくなった。転々とする生活を楽しく思えたのも父親が一緒にいてくれたからこそだ。

 これから誰と幸せをわかちあえばいい。誰に認めてもらえばいい。支えてくれる友人や恋人も存在せず、アルルは本当に一人ぼっちになった。


 だからユキトが宿を訪ねてきてくれとき、アルルは心底嬉しかった。

 彼に押し倒されたときも、戸惑いはしたが受け入れる気になった。

 大陸中を渡り歩く生活のせいで異性と何も進展しないことが当たり前だったアルルは、どんなに節操がなくてもこの機会を逃したくなかった。一つの愛情を失った後だからこそ余計に渇望していた。

 後に誤解だったと気づかされたが、それで熱が冷めることはなく、むしろ知れば知るほどユキトに惹かれていく。たとえ危険が待ち受けていても彼について行きたくなった。

 だから後悔はない。きっと自分の運命はこういう末路だったのだとアルルは自分に言い聞かせる。

 それでも思考に反して、勝手に涙が溢れ出てきた。


 ――素敵な結婚、したかったなぁ。


 父親と共に商人として大成する未来は潰えてしまったが、結婚して子供を産んで墓前に報告するくらいはしたい。それが今のアルルの、ささやかな願いだ。

 その願いすら手放そうとしたとき、背後の鉄格子でガシャンと音が鳴る。


「……あんた達の目的はなんだ」


 ユキトの声だった。薬の効果が薄れたのか、先ほどより声がはっきりしている。

 女盗賊はちらりと後ろを振り返ってため息を吐いた。


「これだから往生際の悪い男は嫌いなんだよ。不細工なくせにやたらと鼻息荒いし偉そうだし。あんたは可愛い面してるけど、やっぱ駄目。男って気色悪」


「もし俺が狙いなら、アルルは関係ないだろ」


 その声にアルルは目を見開き、思わず肩越しに振り返った。


「はぁ? それがなにか。関係ないからなんなの」


「彼女は解放してくれ」


 女盗賊は失笑した。


「馬鹿じゃない? 命令できる立場じゃないのわかってる? それにこの娘は私が気に入ってるの。返せっていわれてはいどうぞってなるかボケ」


「命令じゃない。忠告してるんだ」


 ユキトの双眸に剣呑な光が宿る。


「もしアルルを傷つけたら……無事では済まさないから」


「はは! 武器もないのに粋がってらこいつ!」


 女盗賊が毛皮越しに頭を押さえて高笑いした。確かに彼の剣は配下の馬に括り付けられ、手の届く位置にはない。丸腰かつ腕を拘束されてはどうしようもないだろう。

 しかしユキトの強気な姿勢に変化はない。鋭い視線を向けられ続けた女盗賊は、彼の様子がどこか違うことに鼻白んだ。


「あんた……なにか隠してる?」


 その問いにユキトは答えず、代わりにアルルへと目を向けた。

 ユキトは剣呑な表情を和らげ、安心させるように笑う。


「少しだけ待っててくれアルル。絶対に、助ける」


 心臓が高鳴った。つい先ほどまで諦めの境地にあったアルルの胸に、活力が湧き出てくる。

 こんな状況ですら彼は諦めていなかった。そして不謹慎かもしれないが、彼が守ろうとしてくれることにアルルは何よりも喜びを感じていた。

 暖かい衝動に突き動かされ、アルルは精一杯に笑い返す。


「はいっ! ユキト様……!」


 ユキトが助けると約束したのなら、それを信じよう。時間がかかったとしても、この先にたとえ地獄が待ち受けていようとも、今の言葉があれば生き続けられる。


「はいはいじゃれ合ってんじゃねーわよ」


 辟易した女盗賊がアルルを強引に前に向かせる。だが手つきが乱雑で、心なしか苛立っているようだった。


「なにを隠してるか知らないけど。ハッタリで欺そうってんなら通用しないわよ小僧。どのみちあんたは到着したら一歩も外に出られないで――」


「ヘレーネ様! 前方に人が!」


「ってなんで名前で呼んでんだこの糞虫が! 馬鹿じゃねぇか姉御だろが!」


 怒鳴り返された配下は萎縮するが、しかし「前方に何者かがいます」と報告は続ける。舌打ちした女盗賊ヘレーネは目を眇めて前方を確認した。

 轍のど真ん中に人が立っていた。汚れた麻布で全身を覆い、フードで顔を隠している。顔つきは確認できないものの、薄気味の悪い笑みを浮かべているのはアルルにもはっきりと見えた。


「良かった間に合った。いやーちょうどいいところに立ち寄ってくれましたよ」


 風に乗って男の声がアルルの耳に届いた。

 フードの男はひょいと手を掲げて、檻に入ったユキトを指さす。


「その少年を置いてってもらいましょうか。でなければ君たち、殺しちゃいますから」


 まるで、お茶菓子でもいかがですか、と言うような気安さで男は恫喝してきた。

 配下の男は眉をひそめるとヘレーネに目配せする。


「知らん。轢き殺せよ」


 簡単な指示だった。配下の男はそれだけで手綱を叩き、馬を急加速させる。二頭の馬はあっという間にフードの男へと迫った。


「あらら。聞く耳持たない人たちですねぇ。仕方ない」


 やれやれと首を振ったフードの男は、ゆらりと右腕を掲げる。武器などは何も持っていない。このままでは挽肉にされて終わりだ。

 だがその瞬間、男の右腕から闇が迸った。

 まるで羽虫のような闇の粒が濁流となって馬二頭を飲み込む。

 波濤は盗賊二人とアルルにも押し寄せた。急に目の前が真っ暗になると衝撃に身体を打ち据えられ、次に浮遊感が襲う。アルルは馬上から弾き飛ばされていた。

 更に闇は滑車のついた檻へもぶち当たる。アルルは落下しながら、重量のある鉄格子の籠が軽々と投げ出されるのを目撃した。

 そのときユキトの声が響いた。


「俺が気絶したら中に入れ!」


 何を意図した台詞なのか咄嗟にはわからなかった。だがアルルは考える間もなく冷たい水面に叩き落される。

 馬と人間と檻が次々にウンゼ河川へと落下し、大きな水しぶきが上がった。


「ああー!? しまったやり過ぎたぁ!」


 フードの男が慌てて川辺に近寄る。そこで水面にアルルが顔を出した。闇が溶けるように消えたおかげで自由になっていた。

 勢いを増す川に流されフードの男がどんどん離れていく。アルルは必死に手と足を動かして水面に顔を出し続け、周囲を見回した。

 盗賊や馬の姿はない。そして、ユキトの姿も。


「ユキ……!」


 口を開けば容赦なく水が入ってくる。衣服も濡れそぼって重たく、手枷のせいでうまく泳ぐこともできない。まるで川底へ引っ張られているように錯覚した。

 しかしユキトの状況はこの比ではない。檻の中に閉じ込められた彼は水面に出ることすら叶わず、窒息するのを待つばかりだ。

 自分とユキトの死を直感したアルルは狼狽する。夜の川は見通しも効かず、轟々と流れる川音で声もかき消される。冷たい水中では体力も奪われやすい。

 泣き出しそうになるのを必死に堪えたとき、アルルの目はそれを捉えた。

 水面に、微かに檻の端が出たのだ。


「っ!」


 アルルは考えもなしにもがいて檻に近づく。川の流れが速いおかげで檻は沈みきっていなかった。

 しかし周囲にユキトの姿はない。まだ檻の中かも、と考えたアルルは、息を大きく吸い込んで水中に潜り込んだ。

 水の中は更に視界が悪くほとんど何も見えない。だが手探りで前に進むと鉄格子を掴んだ。更に人の衣服が視界にちらつく。

 アルルは逃がさないよう鉄格子の間に手を入れて衣服を掴んだ。すると何者かが彼女の腕を掴み返す。ギョッとすると、アルルの目の前にユキトの顔が現れた。

 彼はアルルに向けて大丈夫と示すように頷く。何とか意識を保っているようだ。

 驚きと安堵が一片に押し寄せるが、問題は何も解決していない。檻の中から脱出するまでにユキトの息が続かなければ終わりだ。


 するとユキトがある場所を指し示した。鉄格子が大きく歪み、人一人がなんとか通れそうな大きさまで隙間が広がっている。

 そこから脱出を試みるのだと気づいたアルルは、苦しくなってきた息を我慢しながら自分も鉄格子に近づく。

 ユキトは鉄格子の間から腕を出して隙間に体をねじ込んだ。しかし檻があまりにも上下に揺れるので手間取っている。アルルは彼の腕を引っ張り手助けした。

 ユキトの体が半分ほど通り抜けた、その瞬間に彼の口からゴボッと泡が吐き出される。限界だ。

 大量の水を飲んだユキトは苦しそうに顔を歪めた。焦ったアルルが更に体を引っ張るとユキトは檻から完全に抜け出る。だが彼はぐったりとしたまま目を閉じて反応がない。

 すぐさまアルルは水面まで上昇し、ユキトを地上へと突き出した。


「ユキト様!」


 耳元で呼びかけても返事はない。嫌な予感が過ぎる。

 アルルは衝動的に彼の体を抱きしめ、流れに身を任せた。泳ぐことはせずユキトの頭だけを水面から出すようにして川下へと流されていく。

 それはアルルの本能的な行為だった。知識のない彼女はせめてユキトの体を離すまいとその行動を取ったが、実は溺れた人間の対処法としては正解でもある。暴れて体力を削るより、浮かんだまま流れに任せていったほうが助かる確率は高くなる。

 流される間にもアルルは名前を呼び続けた。そのとき彼女は、前方に光るものを垣間見る。

 川の真ん中に銀色に光る物体があった。星光を受けて輝くそれは剣に繋がれた鎖だ。ユキトの所持していた剣が、川の真ん中に浮いていた。


 いや、浮いているのではない。アルルは思い違いに気づく。川の真ん中に浮島ができてその岸辺に流れ着いていた。つまり陸地がある。

 アルルは幸運が訪れたことに顔を晴らし、ユキトを抱えながらゆっくりと岸辺を目指した。

 陸地は土砂が堆積した中州で、避けるように川が左右へと流れている。面積はかなり広く天幕を張っても大丈夫なくらいだ。

 水の中から這い出てきたアルルは、ユキトの両脇に手を入れて彼を引っ張った。だが彼女の細腕では気絶した男を引っ張るのも重労働だ。加えてアルル自身も体温が下がり目眩がしている。


「はぁ、はぁ、くっ……!」


 引っ張り続け、アルルは途中で倒れ込んだ。ユキトの体はぎりぎり水辺から離れている。荒い息を吐くアルルだが、すぐに上半身を起こしてユキトの頬を触った。


「ユキト様! 目を覚ましてください……!」


 やはり返事はない。目を閉じて青白い顔をしている。

 呼吸すらも、していない。


「どうしようこのままじゃ……!」


 恐慌に駆られる。助けられなかった父の最期が過ぎる。少女はただおろおろとユキトの頬を擦り呼びかけることしか出来ない。

 いつのまにかアルルは泣き出していた。泣くしか出来ない無能な自分自身に絶望し、唇を噛みしめる。

 そんな彼女を淡い光が包む。見上げれば黒く染まった空の端が白み始めていた。

 夜明けだ。これで体温低下の危険性は低くなる。

 しかしそれも、意識が戻らなければ意味はない。


「ユキト様!」


 目を覚まして、笑って欲しい。一緒に話がしたい。皆でゼスペリアに戻りたい。

 数々の想いを乗せた少女の叫びは、少年の胸に届いた。

 ふらりと、ユキトの右腕が持ち上がった。唖然とするアルルの目の前で、彼の拳が自分の胸部を勢いよく叩く。

 微動だにしなかった彼の体がビクリと反応し、上体を逸らしてげぼっと水を吐いた。げほげほと激しくむせ返ったユキトは貪るように呼吸を繰り返す。

 涙と鼻水を垂らしながら、ユキトはゆっくりと瞼を上げた。彼の澄んだ瞳に早朝の空が映り込む。


「ああ……良かった。無事だ。聞きかじった医術でも役に立つものだ」


 ユキトはゆっくりと上半身を起こす。そして顔の汚れを袖で拭いて、大きなため息をついた。


「ユ、キト、様……!」


 アルルは口元を押さえて歓喜に震える。

 神が彼を救った。でなければこんな奇蹟が起こるはずはない。

 だがその喜びは、直後の返事によって違和感に変わる。


「助かったよ、お嬢さん。君のおかげで生き延びられた。水中で変わろうかとも思ったんだが、お恥ずかしいことに僕は泳ぎが得意ではなくて。間一髪のところだった。最大限の礼を贈ろう」


 アルルは泣き顔のまま固まった。なにか違う。ユキトはこんな喋り方をしない。柔らかい物腰の中にも、彼にはない毅然とした態度がある。

 目の前にいるのは紛れもなくユキト本人だ。変わってなどいない。しかし違和感が拭えない。

 困惑の最中で、彼女は一つの心当たりに突き当たった。


「あ、あなたは……誰?」


 恐る恐る訪ねると、ユキトの顔をした何者かは居住まいを正して微笑む。


「失礼、淑女を前に名乗りが遅れるとは。僕の名はライオット。ライオット・アルメロイ男爵。アルメロイ辺境伯の第一子息にしてゼスペリア州長に就任、予定だった男だ」


 どこか皮肉げに、ライオットはそう告げた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る