⑯-Pure Soul-

 ルゥナは目を丸くして、赤く腫れた左頬を手で押さえている。

 姉を平手打ちしたジルナは、大粒の涙を流しながら睨んでいた。


「だから! そういうところが嫌いだって言ってるのよ! どうして全部諦めるの!?」


 涙に濡れた顔でジルナが叫ぶ。そして彼女はルゥナに詰め寄った。


「私への恨み言もあるじゃないですか! こんなにも色々隠してて痛くてたまらないはずなのに、平気だなんて嘘をつかないで! 姉様はただ皆から幻滅されるのが怖くて閉じこもってるだけよ!」


「そんなことは……!」


 ジルナは服の袖で涙を拭くと、荒れていた感情を幾分か抑えて言う。


「私だって姉様だって完璧じゃない……姉様の言うとおり、私は次女という立場に甘えて、姉様の辛さを理解してあげられなかった。科学の力で支えようとしたのもだいぶ後になってから。随分と、悔やんできました」


「ジルナ……」


「私達はもっと自分の気持ちをさらけ出すべきだったと、今でも思っています。変わることは少なかったかもしれないけど、ライオット殿下のことで相談に乗ったり、一緒に西大陸に遠征に行ったり、時には舞踏会に出たりして……そんな楽しい一時も、あったかもしれない。でも私達は黙ったままで、気づいた時には手遅れだった」


「……」


「本来ならこんな会話をすることもなかったし、私だって死んでいたかもしれません。だけどその流れは変わった。姉様の未練が、必死に抱えてきた想いが皆を救ったから。誰もが姉様に、そして連れてきてくれたユキトに感謝しています……だからもう楽になってよ。誰かのことじゃなくて、自分のためだけを考えて」


「だけど、私は……」


 なおもルゥナが迷いを見せると、ジルナは眦を釣り上げて少年の体に指を突きつける。


「じゃあもういいです。ユキトは私が貰うから」


 ビクン、とルゥナの肩が跳ねる。


「なにせこっちは生きてますから。優しく抱いてあげることも好きな物を食べさせてあげることも、子を産んであげることだってできる。こんなうじうじした女より私の方がよっぽど一緒にいて楽しいはず。さぁわかったらさっさと奥に引っ込んで――」


 パァンと乾いた音が鳴った。髪を乱したジルナは左頬を手で押さえる。

 腕を振り切った状態のルゥナは、自分の行為が信じられないといったように愕然としていた。


「ち、ちがっ、これは……!」


「……やっぱり好きなんじゃないですか」


 ニヤリと笑ったジルナは、赤く腫れた頬を見せつけながら姉に向き合う。


「諦められるんですか? ユキトのこと」


「……でも、でも私は、もう終わってて」


「そうですね、彼を幸せにすることはできないかもしれない。で、それがどうしたって言うんです。好きだと告げて、答えを貰う。それで傷ついて傷つけることがあるかもしれないけれど、そうしないと誰も前には進めない。自分と他人の気持ちに区切りをつける、それが未練の解消ではないのですか?」


 ルゥナは苦渋の表情で黙り込んだ。

 永劫に続くかと想うほどの沈黙の後、彼女は震えたように息を吐く。そして夜空を見あげた。

 瞬間、カクンと少年の頭部が後ろに垂れる。少しだけふらついたものの、すぐに姿勢を元に戻してジルナに向き合った。


「……戻ったの?」


 ジルナが問う。制御権が戻ったユキトは、ゆっくりと頷いた。


「じゃあ、何を言えばいいかわかりますよね」


 微笑む彼女は美しかった。全てをわかりきったような表情に、叶わないな、とユキトは笑う。

 ルゥナの堅牢な殻を剥ぎ取ったのは他でもない、ジルナだ。姉の姿をずっと追いかけていたジルナだからこそ、秘められた本音を引きずり出すことができた。

 ユキトはほとんど何もしていない自分の不甲斐なさを恥じる。むしろ彼女が虚しさを抱えないよう配慮したつもりが、逆効果でしかなかった。

 

 ジルナの言う通り、心に区切りをつけることが未練の解消だ。ルゥナの恋心から目をそらす事では何も解決しないし、互いに前には進めない。

 自省する一方で彼は、己の気持ちを改める。

 ルゥナの気持ちはもうわかっている。ならば自分も、本音で返すべきだ。

 ユキトはジルナに背を向けてから、少しだけ離れる。そこに佇む女騎士の幽霊と真正面から対峙した。


『ユキト、私は……』


「俺は、ルゥナの話を聞くよ。答えて欲しいことがあれば答える。それでいいかな」


 唇を噛みしめてうつむいたルゥナは、ややあって頷いた。覚悟を決めた顔で、ユキトを見つめる。


『私は、君が好きだ。異性として、好きだ……急にこんな話になって驚いてると思うけど』


 ユキトはただ黙って聞いていた。大きく反応もせず受け止めた彼の様子に、ルゥナはきょとんとなる。


『まさか、君も私の気持ちに気づいてた、とか……?』


「ああ、まぁ」


 かーっと血が上るようにルゥナの頬が上気した。


『い、いつから』


「俺の場合は結構最近で、アマツガルムが出てきたときだったかな」


『はうう……まさか君にまで』


 ルゥナは赤くなった両頬を手で押さえる。恥ずかしさのあまりユキトと目も合わせられなくなり、俯いてしまった。


『……顔に出やすいのかな、私は』


 微かに苦笑いを浮かべたルゥナは、ゆっくりと深呼吸する。

 そして俯きながら語る。


『本当はね、ユキト。この気持ちは全部秘めたまま、消えようと思ってた。君は生きてる人間で、これからの未来がある。普通に恋愛をして幸せになることができる。私ではしてあげられないことばかり。だから、黙ってようと思った』


「……うん」


『それでも君に伝えれば、馬鹿になどせず真剣に考えてくれるだろう。そういう人だから。答えはわかりきってるのに、きっと私を傷つけないように応じてくれる。君にそんな苦しみを与えるのが嫌だし、情けなかった。こんなもの単なる我が儘だと蓋をしていた』


 ユキトは頷く。ルゥナは意を決したように、再び彼と目線を合わせた。


『私の未練はもう、ほとんど叶えられた。ジルナの決断も州の行方も見届けられたし、おまけに初めての姉妹喧嘩までできて、思い残すことはない』


 軽く笑ったルゥナはユキトの肩越しに妹を見つめる。ジルナは優しい眼差しをユキトに送っていた。


『でも、ただ一つだけ、心残りがあります。それは自分の本心に忠実になること。今まで私は誰かの考えや期待に沿って生きてきたけど……最後のこの瞬間に、自分のことを優先してみたい。それはユキト、君の答えを聞くことよ』


 ルゥナは笑顔を浮かべる。それは騎士としての凜々しさが抜け落ちた、年相応の少女のものだった。


『私はあなたが好き。ユキトは、私が好き?』


 ユキトは黙り込んだ。沈黙が過ぎるが、それは決して重苦しい雰囲氣ではない。静寂が安寧と共に二人を包む。

 ユキトは少しだけ深呼吸した。そして目を閉じる。

 言うつもりはなかった。言うべきでもないと思った。そうすればルゥナは辛いだろうと、自分の死を嘆くだろうと危惧した。

 ルゥナという女性を最優先に考えているからこその、ユキトの気遣いだ。

 しかしそんなものは無用だった。履き違えていた。

 二人で前に進むために、自分の心から未練をなくすために、ユキトは告げる。


「好きだ」


 答える。笑みを浮かべていた少女の目が徐々に見開かれ、口はぽかんと半開きになる。


『……いま、なんて?』


「だから、ルゥナが好きだ」


 ルゥナは首を傾げる。それから自分の耳をぽんぽんと叩き、音声認識が不調でないことを確かめる。正常だということがわかった途端、ルゥナは素っ頓狂な声を上げた。


『なんで……なんで!? お、おかしいわ。普通断るでしょ!?』


「いや、聞かれたらこう答えようと思ってたけど……」


『わ、わかった。君のことだから私に遠慮して――』


「それはない。こんなときに誤魔化しなんてしないって」


 愕然としたルゥナは、信じられないとばかりに首を振る。その目にじわりと涙が浮かぶ。


『だって……私は、死んでるのよ? 死者を相手に恋心なんて』


「でも俺には普通に見えてるから。生きてる人と同じように扱っちまうだけって、言わなかったっけ?」


 最初に出会ったニルベルングの森で告げた一言だ。確かに肉体は消失しているが、ルゥナの人となりや尊敬できる部分、そして可愛らしさは接しているうちに十分に知ることができた。だからこそユキトは彼女に惹かれた。

『でも』とルゥナは食い下がる。彼女にとっては想定外の返答だったようでまったく落ち着きがない。


『私とは抱き合うことも、同じ事を体験することも、こ、子を産んであげることもできない。恋人らしいことは何一つできないのよ。そんなの、対象外に違いないって……』


「確かにさ、俺とルゥナにはできないことがたくさんあるし、普通の関係じゃないのもわかってる。だけどもうなっちまったものはしょうがない。俺は、ルゥナが好きなんだよ」


 それは嘘偽らざるユキトの本心だ。打算などではなく、心が彼女を求めた。一緒にいたいと願ってしまった。この世界に留まってもいいと思えるくらいに。

 だがユキトは、ルゥナ同様にその恋心を奥底にしまい込んだ。自覚はしていたが、伝えたところでルゥナを惑わすだけだから。生産性のない関係を望んでルゥナの未練に悪影響を及ぼしてはいけない。死者は現世に留まるべきではないと考える彼女を、自分の未練でこの世に留めておくのは傲慢だと。

 しかし、心の叫びは止められない。ルゥナに好きだと伝えたい。彼女から好きだと言ってもらいたい。

 ユキトは、感情を抑えられない生き物が人間だと知っている。だから本心に、身を任せた。


「もう一度言おうか? 俺は、ルゥナが好きだ」


『……ズルい。ズルいよ、ユキト』


 頬を抑えたルゥナが拗ねたように口を尖らせる。可愛らしい姿にユキトの胸はドキリと高鳴った。


『こっちは振られるって身構えてたのに。不意打ちにも程がある』


「じゃあ、言わない方が良かった?」


『言ってほしいに決まってるじゃない、ばか』


 ユキトはつい吹き出してしまう。もはや騎士としての体面を保てないほどにメッキが剥がれ落ちている。

 ルゥナはまだ拗ねたような表情でユキトに言った。


『私はてっきり、ユキトはジルナのことが好きだと思ってた』


「そ、そうなの?」


『だって一緒にいると嬉しそうだし、好きって言われたときも舞い上がってるみたいだったし。私がそばにいるのに……』


「いやーまぁ、そのぉ」と焦ったユキトは後頭部を掻く。

 正直なところ嬉しくなかったといえば嘘になる。ジルナにも惹かれていたことは確かだ。しかし一番となると、やはりルゥナが浮かぶ。

 ジルナから告白を受けたときユキトは、ルゥナに対する罪悪感を感じた。おそらくそのときにはもうルゥナが好きだったのだろう。


『別にいいんだけどね? ジルナは私から見ても自慢の妹だし可愛いし男なら放っておかないだろうけど。でも私のことが好きだったらもっとハッキリしてもいいじゃない。おかげですごい悲しかったわよ』


 ルゥナは人が変わったかのように腕を組んでぷりぷりと怒っている。いや、本当はこちらが彼女の素なのだろう。


『でも聞いたからね君の気持ち! 訂正しても遅いから! もう君は私のもの! わかったわねジルナ!』


「ん? なんでジルナに――」


「はぁー姉様に負けるとは」


 けだるげな台詞が耳元で聞こえた。ユキトの肩にジルナの小さい顎が乗っかる。急接近に驚いたユキトは仰け反って数歩下がった。


「こうなるかなーと少しは予想してましたが、いざ結果が出ると残念ですね」


 暴れる心臓を押さえたユキトに向けて、ジルナは悪戯っぽく笑う。


「まぁでも、ちゃんと人を見て決めたってことですから。やっぱりいい男です、ユキトは」


「だから」とジルナは艶っぽいウインクを送る。


「まだあなたのこと諦めてあげません。こっちだって姉様に勝てる部分はたくさんあるんです。もうメロメロに骨抜きにして、姉様なんて忘れさせてあげますから」


『やっぱり言うと思った……でもいいもん。ユキトは私が好きって言ってくれたから。ユキトは私にベタ惚れなんだから安心してる』


 ルゥナが胸を張り、ぷっと吹き出す。同時にジルナも笑い出した。あまりにもタイミングが同じで、まるでジルナに見えているかのようだった。

 いや、もしかすると彼女にはわかっているかもしれない。今のルゥナは物質世界に残った情報の残滓だ。その存在を、ジルナの肉体が感じ取っているとしたら。


『はぁ、すっきりした。ありがとうジルナ』


 ルゥナは朗らかな笑みを浮かべる。まるで憑き物が落ちたかのように。

 そしてユキトに向き直る。その体はもうほとんど透き通り、背景が彼女越しにはっきりと見えていた。


『ありがとう、ユキト。君のおかげで私は救われた……でも君は、これからどうするの?』


 答えようと口を開くユキトだが『いやわかりきってるか』とルゥナは首を振る。


『答えはもう出てるんでしょ?』


「……ああ」


『うん、それでこそユキトだ」


 それからルゥナは一抹の哀愁を瞳に映す。


『本当は、この世界に残りたい。君のそばで、君を支えたい。それが今の正直な気持ち。だけどもう、時間がないみたいだから』


 消えつつある手を眺めたルゥナはぐっと拳を作る。

 そのとき夜空に一筋の光が差し込んだ。朝日が昇り始め、暗い内地を照らし始める。

 陽光を受けたルゥナの姿は、粒子が乱反射するようにきらきらと輝いていた。


『ユキト、愛してる』


 ルゥナが顔を近づけ、ユキトの唇に唇を重ねる。触れた感触はない。

 途端、ユキトの中で感情のタガが外れた。

 離れたくない。ずっと傍にいたい。


「ルゥナ……まだ、俺は」

 

 絞り出すような声が喉の奥から漏れる。涙が溢れて、止まらなくなった。

 顔をくしゃくしゃに歪めるユキトの前で、ルゥナは微笑む。


『泣かないで。私はずっと、そばにいるから』


 彼女の体は徐々に消え始める。陽光が透き通り、体の輝きが増していく中、ルゥナはそっと瞼を閉じた。


『ああ……ようやく、自由だ』


 その言葉を最後に、ルゥナの体は――

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