⑮-初めての姉妹喧嘩-

 まだ夜が明ける前の静まりかえった時間。リルモニカ孤児院の中庭では一人の少年と少女が向き合っていた。少年は緊張を含んだ顔つきで唇を引き結び、下ろした手は拳を握りしめている。言葉を待つ少女は胸の前で手を組み、様々な感情に揺れる瞳で少年を見つめていた。


 二人の様子を、ユキトは肉体の内側から眺めている。既に憑依を行い、肉体の主導権はルゥナに移っていた。

 ルゥナが消えようとしている。そう伝えたとき、ジルナの表情は一変した。事態を理解して、ユキトの提案をすぐに了承する。驚きはしていたが、その飲み込みの早さは前々から心の準備を済ませていたことを如実に物語っている。きっと何度もこの場面を想像して、永遠の別離に備えてきたのだろう。

 ルゥナは黙り込み、言葉を選んでいる素振りだった。ジルナは辛抱強く待つ。

 既に無言の時間がかなり経過しているが、その分だけ憑依の時間も失われていく。ユキトがやきもきすると、ルゥナはようやく意を決したように口を開いた。


「ジルナ……ジルナール・ロド・ゼスペリア」


「はい」


 答えたジルナの声は堅く、微かに震えている。覚悟を決めたとはいえ、平静でいられるはずはない。


「私たちはロド家の人間として、この州を守っていく運命の元に生まれた。最初は私が、そして私が亡き後はあなたが。その過酷な運命から逃げずに、よく戦ってくれたと思う……だけど本来は、こんな予定じゃなかった」


 ルゥナの声に悔恨と無力感が滲む。


「私が全ての責務を果たすつもりでいた。あなたや皆が幸せになるためにも、立派な州長代理になろうと決めていた。だけどそれが果たせなくなって、何度も自分の不甲斐なさを呪って……あなたに全て押しつけることが、とても嫌だった」


 ジルナは黙って耳を傾け、真摯な目で姉を見つめている。


「どれほど取り繕うと、あなたの運命を変えてしまった原因は私にあると思ってる。謝っても謝りきれない。本当に、申し訳ない」


 ルゥナは軽く頭を下げる。ジャラリと、剣の柄に繋がる鎖が音を立てた。


「これからもあなたの双肩には、州の運命が伸し掛かってくる。とても辛くて大変な役目だけれど、皆はあなたに希望を見出してる。それは私も同じ。ジルナは誰からも慕われ頼られる長になると確信してる。でもそうなればきっと、誰にも泣き言は溢せないし、愚痴だって吐けなくなる」


 ルゥナは一拍置いてから、はっきりとした声で告げた。


「だからジルナ。あなたが抱える怒りと悲しみ、不安や嘆きを、今ここで全て私にぶつけて欲しい」


「……」


「たったそれだけでは、償いにもならないと思う。だけどどうか、私への憎しみを最後に、長としての道を受け入れて欲しい」


 それがルゥナの最後の願いだった。彼女はずっと、どうしたらジルナの心を晴らせるかを考え続けてきたのだ。

 いつまで経っても、どんな姿になろうとも、他人のことを第一に考えてしまう。ルゥナという女性の生き方はまったく変わらない。

 しかしユキトは、釈然としない気持ちを抱く。

 最後の最後で本当にそれでいいのか。恨み辛みを受け止めるだけで本望なのか。ルゥナにこそ思いの丈を吐き出して欲しいというのに。

 ジルナは黙り込んでいる。二人して返事を待っていると、ジルナはため息と共に腰に手を当てた。そして呟く。「やっぱり」と。


「こんなときまで姉様らしいですね。最後だってわかってないでしょ? 言っておきますけど、私はそんなのお断りです」


「でも……!」


 ルゥナが勢いよく顔を上げると、ジルナは呆れたように笑った。


「最後なんだから本心を話してください、姉様」


「……これが私の本心だ」


「うそ。たとえば、最後に話したい相手が私というのもそうです。姉様は本当は、ユキトと話したいんでしょ」


 予期せぬ言葉に『え?』と内側のユキトは声を上げる。


「私は気づいてますよ。姉様が、ユキトを愛していることくらい」


 ルゥナの反応は劇的だった。目を限界まで見開き口元が震えて、まるで溺れているかのように苦しげに息を漏らす。


「な、あ、がっ、の……」


 不明瞭な言葉を吐く姉に対して、ジルナはやれやれと首を振った。


「あまり妹をなめないで欲しいですね。何年姉様を見てきたと思ってるんです? バレバレだから」


「だ、って、ジルナは私の姿、見えてない……」


「姿が見えなくたって、姉様とユキトのやり取りとか彼を物凄く心配してる様子とか幾らでも類推の材料はありますし。第一に、姉様の好みの男性だと思うんですよね、ユキトは。放っておけなくて手がかかるところとか、真っ直ぐな格好良さとか。そんな殿方とずっと一緒にいるんだから、自然の成り行きだと思いますけど」


 ルゥナは唖然とする。ジルナは思わず吹き出した。


「開いた口が塞がらないって顔してます、姉様」


「……わ、私はそんなに、わかりやすいのだろうか」


「はい。妹の私にとっては特に」


 押し黙ったルゥナの額に玉の汗が浮かぶ。耳は茹で上がったように真っ赤だ。こうまで追い詰められたルゥナの姿は初めてだった。


 ――ど、どうしてこうなった……


 内側のユキトは慌てふためく。ジルナが強引に話題を変えてしまったが、まったくの想定外だった。

 同時に彼の中では別種の緊張が高まる。この話題では第三者のように振る舞うことはできず、確実に会話に交ざらなければいけない。

 ともすれば、胸の奥に引っ込めていた気持ちの行方を、求められるかもしれない。

 だがそれはユキトにとって避けなければいけない事態だった。

 既にルゥナの気持ちには気づいている。皆よりは遅かったかもしれないが、彼女が自分に向ける恋心を感じ取っていた。

 しかしそれは、あくまで気づいただけ。この先をどうするかという想定はまったく考えていない。

 衝動にも似た切なさに心を引っ掻き回されても、ユキトは自分の気持ちを押し殺した。ルゥナが自分の想いを伝えないでいるなら、それでもいいと思った。この本心は、彼女の未練解消の邪魔になるだけだからと。


 だが言葉にしてしまったならもう、後戻りはできない。答えを明確にすることがなにを意味するか、聡明なジルナならわかっているはずだ。

 しかしジルナは、取り下げることもなく更に胸の内を晒す。


「姉妹揃って同じ人を好きになるなんて、やっぱり似てるんでしょうね私たちは」


 微かに頬を染めるジルナを見て、ユキトの困惑は更に増した。高揚感よりもまず、なぜそんなことまで言い出すのかと、理解に苦しむ。


「……私も、あなたの気持ちには気づいてた。ユキトへ向ける視線が、他の男達とは違ったから。それにその、告白、もしてたし」


「あはは、あのときは勢い余ってというか……けれど姉様を出し抜こうとしたわけじゃなくて。ユキトが姉様の気持ちも知った上で、彼に選んでもらうつもりでした。答えは帰ってからと伝えたのも、姉様の番もあるだろうしと思って」


「なにを、言ってるんだ」


 まるで未知の生物でも目撃したかのように、ルゥナは妹をマジマジと見つめる。


「死人の私が告白すると思っていて、あまつさえユキトに選んで貰う? 馬鹿な、そんなことあり得るはずがない」


「なぜです?」


「なぜって……! 死んだ人間が普通の恋人になれるはずない!」


「そうでしょうね。でもそれと、気持ちを伝えることは別問題です」


 ルゥナはハッとした。次に出そうとしていた言葉も、喉元で止まっている。


「きっと姉様はこう思っているでしょうね。死者である自分が好意を伝えたところで、その関係に未来はないし肉体的な繋がりも持てない。結果は分かりきっている。むしろ優しい彼を無意味に困らせるだけの自己満足に過ぎない。妹も彼のことが好きみたいだし、自分の気持ちは隠しておこう……当たらずとも遠からず、でしょうか」


 図星を言い当てられたルゥナは、二の句が継げないでいる。彫刻のように固まり瞬きすら忘れていた。


「本当に、姉様らしい心のあり方です。私はそんな姉様を尊敬していました……そして、嫌いなところでもあった」


 明朗な声音だった。そこには悪意よりも、雪のように積もった悲嘆が込められている。


「姉様はいつもいつも他人のことを優先していましたね。誰かが傷つけば率先して助け、皆の幸せのために自分を酷使することを厭わなかった。州のために尽くし、皆が求める人格者になろうと努力し、我が儘一つこぼさなかった。その信念を貫いてきた姉様は私の憧れであり、目指すべき長の姿です。でも同時に、辛くもあった」


 ジルナは目を伏せ、寂しげに笑う。


「なんで頼ってくれないんだろうって、いつも考えていました。私が不甲斐ないせいかもしれないですけど」


「ち、違う。私はジルナに、辛い思いをさせたくなくて……」


「そのお気持ちはとても嬉しいです。姉様は私の幸せを一番に考えてくれていましたね。でも、そのせいで自分一人で抱え込むしかなかった。女を捨てなきゃいけない辛さも、人を殺す罪悪感も、皆の運命を託された重責も、全て内側に隠して……誰にも頼れない姉様だけが、ずっと一人で苦しんでた」


 ジルナの瞳が揺れる。口元が歪み、笑みが崩れかかった。


「頼るのが私じゃなくても別にいいんです。お父様でも、家臣達でも、騎士仲間でも、ただのご友人でも良かった。だけど姉様は皆の幸せばかりを優先して、皆の悩みばかり聞いて、自分のことを何一つ話してくれなかった。何一つ、相談してくれなかった……私は、一言だけでも聞きたかったんです。辛いって。我慢できないって。でも、私が支えになりたくても、姉様は耐えてしまう」


 ジルナが唇を噛みしめる。爪が食い込むまでに拳を強く握りしめている。

 少しの間、激情を堪えるように体を強張らせていた彼女は、無理矢理に笑みを形作った。


「姉様は言いましたよね? 私が頼れば、無条件に手を差し伸べてくれる人はいるって。でもそれは姉様にも言えるんです。私で良ければ話を聞きました。やりたいことがあるなら、手伝います。女性らしさだって捨てて欲しくなかった。そこまで犠牲にして、平然と取り繕っているのが、見ていて辛かった」


 ルゥナがこれまで弱音を吐かなかったであろうことは、ユキトにもすぐ想像がついた。

 彼女の心は、巨大な責任感を許容できるほどに広く、そして壁も厚い。だから悩みを抱えても決壊はしない。情けない姿は長として失格だと自分を叱咤し続けた結果、誰も彼女の本当の姿を知らず、州長代理としての側面だけを覗いて安心しきっていた。

 そしてルゥナは、自分を蔑ろにしてまで仮初の姿を演じるしかなくなった。

 全てを見抜いていた妹は、追い詰められた姉の心をずっと案じていたのだ。


「私は姉様に、幸せになって欲しい。姉様に本音を語って欲しい。死しても尚、私のために気持ちを押し殺して欲しくない。これ以上、耐えて欲しくない。最後に我が儘を言って欲しいんです……!」


「……我が儘、か」


 一方でルゥナは、対象的なまでに落ち着きを取り戻していた。顔に浮かぶのは自虐的な笑みだ。


「確かに昔、辛いなと思ったことはある。鍛錬も楽しい思い出ばかりではなかったし、女性らしい格好もしてみたかった。けれど不満だったわけではないんだ。私はこの立場にいて良かったと思ってる。後悔したこともない」


「姉様はそうやって一人で耐えることに慣れてしまっただけ。弱い自分をさらけ出すことを、いつしか怖いと思うようになっただけです」


「だからといって、そんなもの見せつけてどうするんだ? 意味があるのか?」


 ユキトはハッとした。無意識だろうか、ルゥナの言葉には不機嫌さが滲み出ている。


「辛いとか悲しいと言ったところで何も変わらないよ。結局耐えることになる。他の者を不安にさせるくらいなら黙っていた方がいい」


「不安になんてなりません。それで姉様の重圧が少しでも楽になるなら意味があります」


「だけど、なくなりはしない」


 笑うルゥナの目は、挑発的なまでに剣呑だった。


「楽になるのなんて一瞬だけじゃない。私が背負う役目はそのままで、私への期待だってずっと同じ。我が儘を言えというけど、じゃあ我が儘を言えば私の立場は変わるの? なにも変わらないなら虚しいだけよ」


「そんなことありません! 私だって姉様の負担を軽減するくらいは」


「ただ聞くだけの人間が偉そうなこと言わないで」


 ピシャリと、拒絶の言葉が叩きつけられた。

 ルゥナは今度こそ、敵意を持ってジルナを睨み付けていた。


「どうしたってジルナは当事者にならないからそんなことが言えるのよ。遠くから私を慰めてれば済む人に、なにがわかるの。余計な気遣いなんて貰っても、惨めな自分に気づくだけじゃない」


「でも私は! 姉様が泣いてるのを知ってたから……」


「だからなに? 泣いて縋ればあなたが州長代理を代わってくれた?」


 ジルナが言葉に詰まると「できないよね」とルゥナは吐き捨てる。


「私が早く生まれたから、私が円燐剣を継ぐしかなかった。親が決めた男性と結婚して、できれば男児を産んで、その子に剣を教えることになった。誰もがそれを望んでたの。ジルナだってそう。私に押しつけて、社交界で華々しく活躍してたじゃない」


「それはお父様が剣を握らせてくれなかったからで……」


「やろうと思えば自分で鍛錬を積むこともできたし、父上にだって懇願すれば了承してたかもしれない。本当に私のことを想ってくれたなら、言葉じゃなく行動で示せたはずよ」


 ジルナが、傷を受けたように顔をしかめる。目尻に溜まっていた涙がぽろぽろと溢れて頬を流れた。


「私だって綺麗なドレス着たかったわよ。旅をしたりお料理を嗜んだり、好きな男性の話で盛り上がったりしたかった……でも誰も代わってくれなかったから。私に強さを求め続けたから、それに応えてきただけ。今更もう、遅いのよ」


 ルゥナは胸に手を置き、ぐっと力を込める。彼女もまた激痛を堪えるように、奥歯を噛みしめていた。


「私は、こんな女になっちゃったから……変わることはない。一人で抱え込むのがお似合いなの。後悔してないのも、本当。皆が幸せならそれでいい」


「だから」とルゥナは顔を上げてニコリと笑う。

 ただ顔に貼り付けただけの、虚勢の笑顔だった。


「これ以上は何も望まない。ユキトのことはあなたに託すから――」


 パァンと、乾いた音が響いた。

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