幕間-領袖は時計の針を進める-

 六街道全てに聖ライゼルス帝国の部隊が観測されたという情報は、戦慄と共に七州を駆け巡った。

 これほどの大規模な侵攻は四十年前に起こったきりで、多くの諸侯が事態を飲み込むのに時間を要した。

 しかし州長の中で動揺した者は一人もいなかった。時間は限られている。彼らは冷静に、粛々と軍議を開始した。自ずとこれまでの対処通り、各州は管轄街道へ軍を遠征し、敵軍との衝突に備えることで方針が一致していく。

 ガルディーン率いるギュオレイン州軍も、予定では会戦地パールベック丘陸にてライゼルス軍と一戦交える計画を立てていた。


 ギュオレイン州領主館の一角、騎士や貴族が勢揃いした会議室は今、重苦しい空気に包まれていた。

 コの字型に設置されたテーブルにはガルディーンの配下が居並んでいるが、ほぼ全ての人間が息を潜めてある一点を注視している。

 視線の先には、床にへたり込む若い貴族服の男がいた。

 ガルディーンの第三子息ヘルメスだ。

 彼の右頬は赤く晴れ上がり、何が起こったかわからないという顔で口をぱくぱくと開閉させている。


「馬鹿が。余計なことをしやがって」


 吐き捨てるように言い放ったのは領主席の前で立つガルディーンだ。

 拳を振り切った姿勢を緩やかに解き、ガルディーンはどっかりと椅子に座り込む。


「ど、どうしてですか父上」


 ヘルメスが眉をしかめる。つい先ほど父親に殴り飛ばされた息子は、ズキズキと痛む頬を手で押さえながら立ち上がった。


「独断でゼスペリア州に立ち寄ったことは謝罪いたします、ですが! ゼスペリア州が資財と領土を委譲する言質を取ってきたのです! これで労せずかの領土を手にできるではありませんか!」


「とことん愚鈍だなお前は」


「は?」


 理解できていないヘルメスを見据えるガルディーンの目には、極寒の冷気が含まれた。


「まんまとジルナールの策に嵌まったんだ」


「ジ、ジルナールの策……?」


「もしゼスペリア州が消滅し、広大な土地が空白地帯となればどうなる」


「ですから、それはギュオレイン州が自領地に組み込んで――」


 言葉の途中、ヘルメスは何かに気づいたようにハッとした。そして苦々しげに口の端を歪める。


「……ヴラド諸侯王も他の州長も、自領地へ接収しようと工作を始める。そうなれば権利争いが勃発し、帝国への侵攻どころではない、ということですか」


「内地を崩壊させれば次は再建が待っている。時間も金も人員も注ぎ込めば、醸成された開戦の空気はぶち壊しになるだろう。口では忠誠などと抜かすディレイもタングドラムも、目先の領地に欲が出て合併軍の編成を後回しにしかねん。小娘はライゼルスとの戦争を回避させるために、自分の領地を捨て石にしたということだ……分かるかヘルメス、貴様は俺の予定を大幅に狂わせた」


 ギロリと睨みつけられたヘルメスは、猛獣を前にしたように縮こまった。気の毒になるほどの青い表情には、いつもの不遜な態度は欠片も見当たらない。


「しかしそうなりますと、やはり州長代理は我らの目的に感づいているのでしょうか」


 ガルディーンの隣に立つ宰相ノーマンは神妙な顔で問う。

 ライゼルスとの全面戦争を回避させるためだけに、自己犠牲のような行動に出るのは不自然だ。ジルナールは、ヴラド諸侯王の追放計画を把握しているのかもしれない。


「さぁ、どうだろうな……しかし俺の計算を上回るとは。温室育ちの小娘と侮っていたかもしれん」


 頬杖をついた主君は、どこか楽しそうな声音だった。計画を妨害された苛立ちは鳴りを潜めている。

 ガルディーンは時々こうして自分の不利を笑うことがあった。まるで強敵との勝負を愉しむような、どこか純粋な側面が垣間見える。

 そのとき「少しよいですかガルディーン卿」と、騎兵隊の部隊長が手を上げた。


「ヘルメスの話が確かであれば、これは好機かと存じます」


 精悍な顔つきの部隊長は、ガルディーンの第二子息バルザックだ。卓越した剣の腕と指揮能力を買われて、騎士団を率いる地位に抜擢されている。決して父親に臆すことなく、真正面から提案し始めた。


「連中は内地に籠城し、最終的にはライゼルス軍と共倒れする算段のようですが、それだけで敵を全滅できるとは考えにくい。ライゼルス軍は必ず一定数は生き残るでしょう。そこを我が部隊で殲滅させつつ、事前に内地を占領いたします。復興と称して実効支配を開始すれば、他州も口答えはできないはずだ」


「いや、奴らは籠城しねぇよ」


 バルザックが呆気にとられる。ノーマンも、他の家臣もガルディーンの台詞が解せない様子だった。


「ジルナールにはそれなりの勝算がある。でなければこんな博打は打たん。俺の予想では、ライゼルス軍と善戦にまでは持ち込むはずだ」


「し、しかし! 消耗したゼスペリア軍だけでは戦いにすらなりませぬ!」


「援軍がなければな。おそらくあの小娘は守護兵団を頼る」


 幾人かの家臣が声を上げた。ノーマンも可能性の高さに気づき瞠目する。


「た、確かに守護兵団は純然たる騎士部隊。援軍として加わればかなりの戦力増加になりますな……ですがヴラド諸侯王が承認されるので?」


「するぜ、奴なら。この状況では他州が文句を言えないことも計算の内だろうよ。俺達にかっ攫われるよりは、多少手薄になっても部隊を派遣してゼスペリアに手を貸したほうがマシという判断だ」


 ガルディーンはまるで史実を見てきたかのように断言した。

 しかしこの後、歴史は男の予測通りに動いた。ゼスペリアは守護兵団の援軍を要請し、ヴラド諸侯王がこれを受け入れたと各州に通達が入ることとなる。


「閣下、万一にゼスペリアが勝利した場合、我らの計画に重大な綻びが生じます」


 ノーマンはつい不安を口に出していた。

 このまま各州が街道防衛に成功すれば、疲弊したライゼルス軍は退却し、また数年間は動きを停滞させる。弱体化したライゼルスを叩く千載一遇の機会だ。

 しかし、ロド家はどうもガルディーン一派の計画に気づいている節がある。ゼスペリアが無事に存続した場合、大きな抵抗勢力となって牙をむく可能性は十分に考えられた。州長代理ルゥナールを暗殺された一件の報復という面もある。

 そうなれば、ヴラド諸侯王の退陣どころかガルディーンの立場が危うい。

 懸念は全て伝えずとも、ガルディーンならば問題点は既に把握しているはずだ。ノーマンは主君の慧眼に頼り、返答を待った。

 しかしガルディーンは黙りこんでいる。


「……ガルディーン様?」


「編成した軍はどれくらい縮小できる」


 返事はまったく関係ないものだった。ノーマンは困惑しつつも、素早く計算する。


「我が軍の現存兵力と、予測されるライゼルス軍を比較し余剰戦力を割り出しますと……歩兵五千、騎兵二千ほどは州に留めておける算段にございます」


「計七千か。まぁいいだろう」


 そしてガルディーンは、まるで散歩に出かけるような調子で言い放った。


「その七千を別働隊として組織しろ。目的地はダイアロン中央州だ」


 家臣や騎士達は衝撃を受けるが、ガルディーンの説明で更に驚愕が膨れ上がる。中には自分を落ち着かせようと慌てて水を飲み、むせ返る者もいた。


「素晴らしい……! なんて痛快な物語だ!」


 同調する声を上げたのはヘルメスだった。

 大きく腕を広げた青年は、恭しくガルディーンに頭を垂れる。


「父上、その部隊を率いる大役はこのヘルメスにお任せください。どうか挽回の機会を……!」


 そのとき、ノーマンの背中を悪寒が走った。

 ガルディーンの目は、まるで虫けらを見るような無機質さだった。

 息子に向ける眼差しではない。役立たずのゴミか何かを眺めるようだった。

 もはやなにを言っても響かないだろうと、ノーマンは一人憐憫を抱く。


「いいだろう」


 だが、予想に反してガルディーンはこれを了承した。ノーマンは驚きで眉を上げる。


「ありがとうございます父上! 必ずや武勲を立ててみせましょう!」


 意気揚々とヘルメスが宣言する。命拾いをしたという安堵もあったのだろう。

 それから軍議は滞りなく進み、ギュオレイン州軍はパールベック丘陸にて敵軍の侵攻阻止に務めると各州へ通達を流した。

 その中に、ゼスペリアに関する記述はまったくない。ギュオレイン州は支援を行わないと、明確に態度を示していた。


******


「よろしいのですか、ご子息のことは」


 執務室に戻る廊下の途中で、ノーマンはつい聞いてしまう。

 前を歩くガルディーンは鼻を鳴らした。


「奴の力量では、戦場で役に立つことはない。駒にでもしたほうがよっぽど有益だろう」


 やはりか、とノーマンは軽くため息を吐いた。おそらく別働隊の任務が失敗したとき、その責任をヘルメスに全て押しつけるつもりなのだろう。

 同情しなくもないが、主君の命令は絶対だ。粛々と従うことが生き残る唯一の道。それをヘルメスは誤ってしまったのだから、もうどうしようもない。


「貴様はそんなことを気にかけている場合だったか、ノーマン」


 厳しい声に、ノーマンは慌てて応対する。


「心得ております。内通者の特定ございますが、現在全ての情報を洗っております。今しばらくお待ちを」


「早急に終わらせろ」


 短く伝えてガルディーンは執務室に入っていく。頭を下げたノーマンは、嘆息して来た道を引き返した。それから兵站や徴兵全ての帳簿を保管する資料庫へと一人で入る。


「まったく、これをワシ一人でやらんとはな」


 棚で埋め尽くされた部屋を眺めてノーマンは独りごちる。

 だが文句を言っていても仕事が片付くわけではない。遅くなればなるほど首が飛ぶ確率も高くなる。ノーマンは老体にムチを打って分厚い帳簿を幾つも取り出し、めくっていった。


 宰相に課せられた使命は、内通者の特定だ。

 ガルディーンの命令は、聖ライゼルス帝国の侵攻から端を発している。ゼスペリアの管轄する街道を攻めた第四次ドルニア戦役と今回の総攻撃は、どう考えてもガルディーンの策謀を逆手に取った動きだ。でなければゼスペリアを集中的に攻撃する辻褄が合わない。

 情報が筒抜けだったからこそ、ライゼルス軍は大胆な作戦に踏み込むことができた。

 では誰が、一体なんの目的で加担していたのか。

 真っ先に思いつくのは、聖ライゼルス帝国の人間が間諜として紛れ込んでいたという線だろう。

 しかし、この計画を知っているのは家臣含めごく一部のみ。情報の漏洩には細心の注意を払ってきたつもりで、安々と流出した現状にはノーマンも困惑を抱いていた。

 得体の知れない不気味さを感じつつ帳簿をめくっていた老人の指は、あるページでふいに止まった。


「……ん?」


 違和感がある。ノーマンはその記述を食い入るように見つめた。


「どういうことだ……これでは、説明と食い違うではないか」


 独白したノーマンは、すぐに別の帳簿を開いた。確か編成した部隊は五人程度だったはず。人員は登録された正規兵を使ったと聞いている。


「……そんな、馬鹿な」


 ノーマンの額に汗が浮かんだ。当時提出された書類は証拠隠滅のために燃やしてしまったが、記憶力の高さを買われたノーマンは、一字一句覚えていた。当然、氏名は忘れるはずがない。

 だが、この帳簿が正しいとするならば。

 ルゥナール奇襲部隊に抜擢した人員達は、作戦遂行前から既に死亡していたことになる。

 考えられる事態は、一つしかない。


「そう、いうことだったのか」


 ノーマンは帳簿を放り投げて部屋の出入り口へと走った。

 刃が、腹から飛び出る。


「え」


 立ち止まったノーマンは、自分の腹に突き刺さる鋭利な刃を呆然と眺めた。

 硬直したまま、震える首を少しずつ後ろへ傾ける。


「困るんですよねぇ。種明かしされると」


 老人の背後には、フードを目深に被った男が立っていた。

 閉じているかと思うほどの細い目を愉悦につり上げ、ノーマンの腹に刺している剣を引き抜く。

 血が吹き出し、宰相の体は前のめりに倒れた。流れ出る血液は床に落ちた帳簿を赤く染め上げていく。

 その老人の体に、黒い靄のようなものが降り掛かった。うぞうぞと蠢く黒い物体はノーマンの体を包み込む。

 数分後、黒い靄は分解を始めた。粒状になり、フードの男の腹部へと吸収されていく。

 倒れていた死体は、もうどこにも見当たらない。


「実はあなたの智力も結構買ってましてね、私は。世界が変わったら、必ず生き返らせてあげますよ。ふっふふふ」


 舌なめずりしたフードの男――ラウアーロは、嗤いながら部屋を後にする。

 赤く染まった帳簿のみが、静かに取り残されていた。

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