⑦-ジルナ-
ジルナールという名前は父マルスではなく、母のソフィアが名付け親だった。表向きは父が考えた体になっているが、実のところ丸投げしたという。姉の命名には一晩も悩んだというので、かなりの待遇の違いだ。
珍しい話ではない。爵位を持つ家系での二番目以降の子供は、大小の差はあれど似たような扱いになる。世継ぎにはなれないし、まして子女はせいぜい政略結婚を期待されるくらいだろう。
生まれた環境が特殊なのだと、理解しているつもりだった。
それでもジルナは、いつもどこかで虚しさを抱えていた。
おそらく、姉のルゥナールの影響が大きい。
ルゥナは第一子女としてロド家秘伝の「円燐剣」を叩き込まれ、馬術や政務なども執拗に教え込まれた。それは次代のロド家跡取りに円燐剣を継がせ育てる指南役を作るためであり、やむを得ずといった背景のほうが色濃い。
決して才能を見込まれたわけではない。なのに、姉はいつも熱心だった。
汗だくになるきつい稽古を毎日こなし、父の怒声や重圧を浴びながらも、ひたすらに進み続けた。父が、そんな姉に一目置いていることは幼心に感じ取れた。
一方でジルナは剣を握ることすら許されない。お前には必要ないと取り上げられる。
今でこそ父の優しさだったと解釈できるが、当時のジルナはひたすら姉が羨ましかった。父が関心を持つ姉のようになりたかった。
社交術を身につけ、共に晩餐会に繰り出せば父は満足してくれる。たが、それだけだ。認められることはないし、態度にも変化はない。
自分は一体何になればいいのか? 形のない葛藤を抱いていたジルナに、転機が訪れる。
ある日の夜更け、ジルナはひょんなことからルゥナの私室を覗いてしまった。
そこでは小熊の人形に語りかける姉の姿があった。
妙な少女趣味に吹き出しそうになったジルナだが、話の内容を聞いて表情を一変させる。
ルゥナは、泣いていた。
人を殺したことに苦悩し、懺悔し、それでも耐えなければと自分に言い聞かせていた。
おそらく父と共に盗賊団を壊滅させた一件が原因だろう。
ルゥナは、任務として何人もの人間を殺したと聞いている。
帰着した姉は普段通りで、孤児院に寄ったときもずっと笑みを絶やさなかった。こんな風に嗚咽しているなど想像もつかなかった。
だが考えてみれば、姉とてまだ年端のいかない少女だ。人を殺すことが日常に溶け込むような環境だとしても、人を殺すことが好きなはずがない。
しかし彼女の意思に関係なく、騎士としての振る舞いを強制され戦争にも駆り出される。
一番目に生まれたから、という理由だけで。
ジルナは己の間違いに気づき、猛省した。
ロド家の重責も残酷なしきたりも過酷な運命も、全てルゥナが背負ってくれていた。負の側面を意図的に排斥して、好き勝手に羨望と嫉妬を抱いていた。
ジルナは、変わらなければと決意した。
父に認められたいからではない。姉だけに辛い思いをさせないために。
だが、非力なジルナが今更剣を握ったところで戦力的には何の効果もない。社交界での活躍にも限界がある。
悩みに悩み、様々なものを体験して行き着いた先が、未知の知識を導入すること。
即ち「科学」だった。
西大陸で急激に発展している科学は、数十人分の仕事を一気にこなす機械装置や、騎兵に取って代わる兵器を生み出しつつあった。それらはきっと国の有様を変え、州長の負担を減らしてくれるとジルナは予見した。
彼女は独学で勉強を始め、可能な限り西大陸にも足を運び、知識と技術を吸収していく。
変わり始めたジルナを大人達は奇異な目で見つめた。宗教観念が根強い東大陸では受け入れられる土壌が弱く、家臣も理解を示そうとしない。
辛くないと言えば嘘になる。それでもジルナは止まらなかった。
ただ一人ルゥナだけは、やりたいことをやればいいと、背中を押してくれたから。
いつか姉と共にゼスペリアを発展させるという夢を、抱かずにはいられなかった。
だが、夢は打ち砕かれる。
支えるべき大切な姉は死に、ゼスペリアの運命は自分の手腕に委ねられた。
そして今、愛する人達を酷使せねばならないほどに、ジルナは追い詰められていた。
******
「あの……す、好きって」
目の前に立つ少年は耳まで真っ赤で額に汗が滲んでいる。相当衝撃を受けているようだが、こんな場所で急に好きだと聞かされたのだから当然の反応ではある。
ジルナは微笑みを崩さないまま彼の隣に目を向けた。そこには誰の姿も見えない。だが最愛の姉の魂は、きっと口を半開きにして目を丸くしているに違いなかった。
「…………そ、それも何かの策とかで――」
「異性として、好きです」
はぐらかされないよう断言すると、ユキトは気が動転したように目を白黒させる。
するとゴルドフが「うぉほん」とわざとらしい咳払いをした。
「そ、そういえば喉が渇いたな。水を持ってこよう」
「……私も、書簡の用意を」
ゴルドフとクザンがそそくさと部屋を出て行く。商人のドッペリーニも逃げるように後へ続いた。気を遣ったのか雰囲気に耐えられなくなったのか。いずれにしろ、聞かれていない方がジルナとしてもやりやすかった。
残されたユキトは気まずそうに顔を背ける。それだけでジルナの胸が疼くが、ここで中断するわけにはいかない。
彼を利用すると決めた。だから、どんな手を使ってでも協力してもらわないといけない。
「なんでこんなときに、って思いますよね。でも伝えられる機会がいつまでも残されているとは限りません。ライゼルス軍に敗北すれば、この気持ちも伝えられなくなる……だから言っておこうと思って」
困惑した彼の様子に変わりはない。だが、今度はしっかりと前を見据えて目を合わせてくれた。やはり誠実な人だと、ジルナは心の内だけで微笑む。
「それに、お互い死んでしまえば恋だのなんだのと言ってられませんし」
仮面の笑みの奥で、ジルナは張り裂けそうな心を必死に堪える。
「でも貴方のほうは事情が違います。死ぬかもしれない戦場に引っ張り出されるなんて、御免ですよね。私も無理強いはしたくない。だからお互いの利益が一致する方法を考えました。勝利して凱旋した暁には、私のことを好きにしていい。どうです?」
ユキトに、目立った反応はなかった。驚きもせず無表情になっている。もしかすると途中からこの提案内容を予測していたのかもしれない。
それなら話は早いと、ジルナは構わず話していく。
「異世界人の貴方に与えられる恩賞はこれくらいしか思い浮かばなくて。あ、罪悪感とか抱く必要はありませんよ? 私は貴方のこと憎からず想っていますから、むしろ望むところというか」
重い雰囲気にならないようジルナは努めて明るく言った。
やはり彼は無表情のまま、じっとジルナを見据えている。
「ええと、話の要点は掴めました? 私は貴方の力を借りたい。見返りとして私が報酬になる、ということなんですけど……」
無言。彼の心理が掴めず、ジルナは若干焦る。
「だ、駄目ですか? 一応生娘なんですけども……」
なにを言っているんだと自分でも萎えたが、男性の中には喜ぶ者もいると聞いていたのでつい暴露してしまう。だが反応はなし。
「あ、それか私じゃ満足できない、とか……」
そうだったら非常に悲しい。が、幸か不幸かこれも反応はなかった。
ジルナは焦りを強めた。策を成功させるためにも、ユキトに拒否されるわけにはいかないというのに。
こんな提案をしているのは、頼み込むだけでは断られると危惧しているからだ。
いくら彼が心優しい人でも、ルゥナの未練解消と戦場で敵兵と戦うのでは話が違いすぎる。
もしかすると進んで協力してくれるかもという一縷の望みもあったが、実際に話を聞いた彼は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。もし自分が彼の立場でも、同じ心境に至っただろう。
だからジルナは報奨の話を始めた。傭兵を雇うにも相応の対価が必要なように、ユキトにも動機がいる。しかし異世界人であるユキトが土地や金を欲しがるとはあまり考えにくい。
では、彼の琴線に引っかかるのは何か。
男の子なのだから、やはり異性には反応するのではないか、とジルナは推測した。
とはいえ同性を商品扱いしたくない。ユキトも遠慮してしまうかもしれない。
折衷案として、自分の身体を捧げようと思った。好意を抱いていると示せば彼も下心を示すだろうという、計算も含めて。
本当はこんな形で告白することも、身体で釣ろうとするだらしない女だと思われるのも、心底嫌だ。
無粋な女は嫌われてしまう。恋仲になりたい候補からも外されてしまう。たとえ身体を交えても虚しいだけだ。
しかし、自分の初恋と故郷、どちらを優先するかなどわかりきった話だった。
そうして初恋を棒に振る覚悟で切り出したはずが、ユキトは一切反応を示さなくなっている。いつもと様子も違う。
――どうしよう……なにを考えてるのか、わからない。
彼はこんなに怖い顔をする人だったろうか。戦慄に似た気分が背筋を撫で回し、ジルナはじわじわと不安に陥る。
「も、もちろん、報酬はこれだけではありません。ロド家の総力を挙げて、元の世界に帰還するための支援を行います。自力でどうにかする方法もあると思いますが、やはり資産家に頼った方が――」
ジルナが焦って報酬を積み重ね始めたそのとき。
ユキトが一歩を踏み出し、勢いよくジルナに歩み寄った。
迫力に気圧されてジルナは後ずさる。それでもユキトは止まらない。
ジルナは後退し続け、壁際まで追い込まれた。もう逃げ場はない。
あわや激突という寸前、立ち止まった彼が腕を突き出す。
バンッ、と乾いた音が響いた。ジルナは「ひうっ」と小さな悲鳴を漏らす。
彼の掌はジルナの右隣の壁に打ち付けられていた。
「……なんでそうなるんだ」
小さな呟きにジルナはハッとする。彼の黒い瞳は憤怒に揺れていた。
「そんなことをしないと俺が戦わないって、本気で思ってるのか」
「あっ……」
ジルナはようやく、己の迂闊さに気づいた。よかれと思って提案したことが、逆に彼のプライドを傷つけてしまった。
ユキトは壁に叩きつけた腕を振り上げる。叩かれると、思った。
――嫌われた。
諦観が押し寄せ、ジルナはぎゅっと目を閉じる。
衝撃はやってこない。代わりに、頭の上にぽんと手が置かれた。
「……どうして、わからないかな」
そっと瞼を開けたジルナは、呆気に取られる。
ユキトは、困ったように笑っていたのだ。
「俺は最初から、ゼスペリア軍に加担するつもりだったよ」
「で、でもさっきは不満そうな顔で……」
「あー、ええと。それは違うんだ」
手を離したユキトは、バツが悪そうに頬を掻く。
「なんていうかその、俺個人の問題があって。戦うことに臆病になってる部分がある」
「問題、というのは?」
ジルナは踏み込んだ。悩みなら聞かせてほしいが、ユキトは優しく首を振る。
「それはまだ、教えられない」
言葉尻は柔らかいが、断固とした意思が感じ取れた。彼にとってよほど深刻な問題なのだろう。
「……なら、やっぱり私たちに協力するなんて、できないですよね」
「違う。俺はゼスペリアの皆を、ジルナを助けたい。その気持ちに偽りはない。こ、恋人になりたいとかそういう報酬がなくても、悩みがあったとしても、戦うよ」
ジルナは耳を疑った。
本当に、無償で手を差し伸べようとしているのか。
こんな、自分のために。死ぬかもしれない危険を冒してまで。
するとユキトが隣を向いて頷き、話し始めた。
「『ユキトの気持ちはなにも不自然ではないよ、ジルナ』」
姉の台詞だとすぐに気づく。ジルナは困惑しながらユキトの隣に向き直る。
「『誰かを助けようとすることは、人として当然の行動だ。そしてユキト以外にも、貴女の為にと動いてくれる人々は大勢いる。報酬なんてなくても、求めれば手を差し伸べてくれる』」
「……そんなの、どうしてわかるんです?」
「『貴女が、好かれているからさ』」
ドクンと、心臓が高鳴る。
「『自分には価値がないなどと思わないで、ジルナ。ゴルドフもクザンも、いや多くの家臣や兵、民が既に知っているよ。皆のために科学を取り入れようと努力し続ける貴女の姿は、敬服に値すると』」
耳朶を、彼の優しい声と、姉の慈愛が通り抜けていく。
「『中には受け入れられない人もいるだろう。でも、ジルナが本心からこの州のために尽力していたことは認めてくれている。貴女が願えば、人々は答えてくれる』」
姉は、全てお見通しだったのかもしれない
ロド家の中で見向きもされず、絶えず虚しさを抱えていたことを。自分に価値があると見いだせなかったことを。
だから、科学に傾倒していく妹を見守ってくれていた。
「『自分に自信を持ちなさい。それだけのことをしているのだから。そして皆が応えてくれた分、次は貴女が皆に返してあげなさい。先輩としての助言よ』」
ジルナはそこでようやく、自分が無意識に抱えていた壁に気づかされる。
結局のところ、信じられなかっただけだ。
今まで見向きもされなかった自分が、科学を普及させようとして嘲笑われた自分が、誰かを頼っても耳を貸してくれるはずがないと思い込んでいた。それをユキトにも当てはめて、彼を不用意に傷つけてしまった。
そうではないと姉は言う。頼れる人はいるのだと、教えてくれている。
言葉は、ジルナの心の枷を優しく剥ぎ取ってくれた。
「……ここからは俺の言葉ね」とユキトが柔和に告げる。
「俺はジルナを置いてどこかに逃げたりしない。前からそう決めてる。俺の問題は俺がけじめをつけるから、気にしないで存分に使ってくれ」
「ユキト……」
「一緒に生きて帰ろう、ジルナ」
厳しくも全てを許すような声音に、胸中から感情が溢れ声が詰まった。
彼の顔が見つめられず、ジルナは目尻に涙をためてうつむく。
「……ずるいです」
――そんなこと言われたら、貴方のことがもっと好きになる。
「ジルナ?」
「ありがとうって言ったんです」
誤魔化しつつジルナは顔を上げる。そして目尻の涙を指先でぬぐい取った。
「ユキトの気持ち、確かに受け取りました……過酷な使命を与えてしまうこと、本当に申し訳なく思います。だけど、どうか力を貸してください」
彼はゆっくりと頷く。そして傍らの姉に目配せした。
「こっちも任務了解、だってさ」
その返しに、ジルナはようやく頬を緩ませた。
******
後日、ロド家は戦時下宣言を内地へと通達し、外地領域に住まう全ての諸侯へ招集をかけた。内地では義勇兵の募集が始まり、既に集結していた傭兵が続々と登録をしていく。
最終的に騎兵、歩兵、弓兵、工兵全てを合わせて五千ほどの軍へと調整された。
そして集められた諸侯および騎士全員に、今回の作戦内容が通達される。
獣射を意欲的に取り入れた案は賛否両論となったが、それ以上に導師の力を借りるという前代未聞の作戦に多くの者が混乱した。指揮経験皆無のジルナが総大将を務めるという状況もそれに拍車をかける。
ロド家は滅びたいのかと批難する者が続出したが、ゴルドフを中心とした古参が根気よく説得に回った。
事態が一片したのは、ドルニア平原への出立を控えた前日のことだった。
ヴラド諸侯王がジルナの要請に応え、守護兵団の臨時派遣を決定したと報告が入った。書簡のみの通達だが、その数は五千。ジルナの希望よりも多い兵力だ。
ゼスペリア州軍五千に対し、守護兵団五千を加えることで一万の軍勢ができあがる。
斥候による報告では、ライゼルス軍は一万五千程度の規模と割り出されていた。決して分の悪い戦いではなく、兵士達はにわかに湧き立ち始める。
精神的な負担が減れば物事の見方も変わる。
導師ユキトの存在は一部諸侯や騎士の間では有名だった。当然、召還されるのが前州長代理ルゥナールであることも知られている。その情報は人づてに拡散し、守護兵団合流の勢いも相まって神格化され始めた。
かの円燐剣の遣い手である稀代の騎士が舞い戻り、戦場で指揮を執るという状況はまるで英雄物語のような荘厳さを演出している。
ジルナの狙い通り、兵士達は酔いしれるように士気を高揚させた。弔い合戦だと意気込む者達も大勢いた。
こうして急ごしらえながらも全ての準備を整えたゼスペリア州軍は、ライゼルス軍との会戦場となるドルニア平原へと軍を進める。
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