⑧-誠意-

 ユキトは、しゃくり上げるように泣く少女を見つめている。

 彼自身の意思でそうしているわけではない。あくまで肉体の内側から傍観しているだけだ。

 今ここで少女と向き合っているのは憑依中のニックスで、その顔は満ち足りたものになっていた。本音をさらけ出せたことで、心のわだかまりが解消されつつあるのだろう。

 ただし、ここまでのやり取りはユキトにとってもニックスにとっても、完全に予想外の流れだった。


 ニックスの頼みの一つは、船の作り方を羊皮紙に書き留めること。そして、それをミリシャに気づかれることなく家に置いてくることだった。もう一つの頼みはまだ聞いていないが、ユキトは講釈されるがままに羊皮紙に絵を書き、放置された葉っぱの船と共に彼女の家まで持参した。

 しかし玄関先に置いてからすぐ、ミリシャが家から飛び出してきた。おそらくユキトが不注意で立てた物音に気づき、追いかけてきたのだ。

 慌てて隠れたものの、一方でユキトはチャンスだと閃いた。今ならサンドラの姿はない。おそらくミリシャと会話できる最初で最後のチャンスだ。

 ユキトは渋るニックスを半ば強引に憑依させて送り出す。

 最初はすぐに去ろうとしたニックスの態度に苛立ったものの、結果的にはミリシャの思いがけない言動で男の心が動くこととなった。

 どういうわけかミリシャは、ニックスがユキトの体を通して喋っていることを理解している。孤児院の子供達と同じように、姿形は違えど養父の片鱗を感じ取っているのだ。

 それはつまり、ニックスの存在が確かな形としてミリシャの中に残っていたことを示している。


 ――良かったな……ほんと。


 偶然の産物とはいえ、ユキトは晴れやかな気分だった。安堵の感情も強い。

 物陰に潜んでいるセイラ達も二人を邪魔することなく見届けている。アルルなどは、今にも涙が零れ落ちそうなほどに瞳を潤ませていた。

 これでニックスの未練は解消される。惜しむらくはサンドラとの関係だが、もう時間はほとんど残されていない。憑依が解消されればニックスはすぐに消えていくはずだ。

 後はそのときを待つばかり、というところで、意外な声が響いた。


「なにやってんだ!?」


 金切り音に近い響きに驚き、ニックスが振り返る。

 こちらへ向かってくるのはサンドラだ。血相を変えた面貌には敵意がまざまざと浮かび上がっている。

 いつもより帰宅時間が早い。不審者を警戒して仕事を早めに切り上げてきたのか。予測できたはずなのに、ユキトは失敗に気を取られてすっかり油断しきっていた。


「ちょっと待ちな」


「もう少しここにいてくださいませ」


 隠れていたセイラとライラが姿を表し、サンドラの前に立ち塞がる。

 戦斧と長槍を交差させて進路を妨害したためサンドラは少し怯んだが、滾る激情はむしろ増加した。


「やっぱりあんた達か! あたいとミリシャに近寄るんじゃないよ!」


「先日もお伝えしたとおりですわ。用があるのは、ニックスの魂です。我らはそれを連れてきただけのこと」


 冷静な言葉にもサンドラは耳を貸さない。彼女は顔を赤くしながらユキトを――彼の体を操るニックスを睨み付ける。


「まだそんなふざけたこと抜かして……! いいからあたしの娘から離れろ!」


「ち、違うのお母さん。この人はほんとに――」


「いや、いい」


 短く呟いたニックスは、立ち上がるとサンドラの前まで歩み寄る。

 そして男は唐突に地面に膝をつき、頭を下げた。いわゆる土下座の状態に近い。


「ミリシャに勝手に会って悪かった。許してくれ」


 殊勝な態度だったが、逆にそれがサンドラの気を逆なでした。


「馬鹿にしてんのか!? 近づいてきた本当の理由を喋りな! でないと巡回兵に突き出すから……!」


「……別に信じてくれなくて構わねぇよ。用は済んだから、もう消える」


 ニックスは頭を下げたまま答える。淡々とした受け答えだった。

 消える、という一言にサンドラが少しばかり動揺していたが、しかしすぐに冷笑を浮かべる。


「あくまでニックスだって言い張る気かい。大した度胸じゃないか。今更どの面さげて戻ってこれたのさ? 散々あたしら親子に迷惑かけてよ! あんたの詫びなんかいらない! 金でも残してくれてたほうがよっぽどマシだ……!」


「……遺族宛ての恩給は、受け取ってないのか?」


「あんなはした金がどうだっていうんだ。恩着せがましく死んで金は作ってやったとでもいうならとんだお笑いぐさだね!」


 サンドラが哄笑する。だが、その挑発的な態度はどこかわざとらしく、無理をしているような感じだった。

 それでもいつものニックスなら我を忘れておかしくない発言だが、今の彼は深いため息を吐くだけに終わる。


「そうか……そうだよな。本当ならもっと大金を用意してやれたんだがよ……前金は受け取ってるが、それもお前らの生活を変えるほどじゃない。とりあえず金の隠し場所はあいつに渡した羊皮紙に書いてある。後で取りに行ってくれ。当面の生活費にはなるからよ」


 まともな返答がくるとは思っていなかったサンドラは目を白黒させる。


「……じゃあ、なにかい。あんたは、あたしたちのために金を残そうとしてくれてたって?」


 ニックスは答えない。だが男の真剣な目が、語らずとも真実を物語っている。

「嘘だ」と言いながらサンドラは引きつったように口元を歪め、首を振る。


「信用できるもんか……! も、もし信じて欲しかったら、ここで誠意を見せなよ!」


「……誠意?」


「そうだよ……! あんたはニックス本人なんだろ? 本当に導師様を使ってまで戻ってきたなら、当然それぐらいは示せるだろ!」


 サンドラの顔には、どうせできっこない、という思惑が見え隠れしていた。

 ニックスは言葉に詰まり口を一文字に結ぶ。愛情を示すなど、不器用な男が一番不得意とすることだ。

 どうするのかとユキトが黙って見守っていると、ニックスは「分かった」と呟く。そして意を決したように拳を握りしめ、膝を着いたままの姿勢をセイラ達の方へ向けた。


「あんたたちに頼みがある」


 訝しむセイラとライラの前で、男は再び頭を下げた。


「こいつら親子を頼みたい」


「……今、なんと?」


「サンドラとミリシャを、あんた達で面倒みてやってくれねぇか」


 それがニックスの導き出した、誠意の示し方だった。自分のプライドをかなぐり捨ててでも家族のために頭を下げている。

 しかしユキトは困惑した。あまりに実現性に乏しい。

 その証拠にライラは鼻を鳴らし、セイラは作り物めいた笑みを浮かべる。


「なにを仰ってるのかわかっていないようですわね。あなたの願いを聞く義理などございませんわ」


「この通りだ。頼む。俺はなんでも喋るから」


「それはあなたを彼女達に会わせることの引き替えでしかない。面倒を見るという条件追加は認められません。傭兵なら契約の重みがわかるでしょうに」


 冷静なセイラの声にはぴりぴりとした不機嫌さも混ざっていた。ライラに至っては不快さを隠そうともせず鼻頭に皺を寄せている。


「……なら、舌を切る」


 ざわり、と二人の顔つきが変わった。


「憑依はまだ解けてねぇ。つまりユキトの体は俺の思い通りだ。ここでこいつの舌を噛み切って死ぬこともできる。されたくなかったら俺の――」


「っざけんなよてめぇ!」


 吠えたライラが戦斧の切っ先をニックスの鼻先に突きつけた。


「どの口がそんなこと言えんだよ!? お前のためにユキト殿は体を貸してやってんだ! それにてめぇがしでかしたことを忘れたとは言わせねぇぞ!」


 怒りを爆発させた彼女は射殺しそうな勢いでニックスを睨みつける。一歩間違えれば顔面に刃を突き立てかねないほどだ。

 しかしセイラは止めようともしない。むしろ冷たい怒りを込めて、侮蔑するようにニックスを眺めていた。


「いいか、ルゥナール様も気の良い奴らも大勢殺された! 奇襲を仕掛けた奴らは百回斬り殺しても気が済まねぇ……! いくらてめぇが金で雇われたとはいえ加担したことに違いねぇだろうが! そんな野郎の家族を助けるだ? はっ! ふざけんのもいい加減にしろよ……!」


 ライラの怒声にサンドラが瞠目する。まったく事情を知らない上、ニックスが何かしでかしたと思しき言葉が飛び出したので狼狽えていた。

 大人の話についていけないミリシャは呆然としているが、場の混乱を察したアルルが飛び出してきて少女のそばに駆け寄る。


「……あんたの言うとおりだ。俺は、知らなかったとはいえ、許されないことをしでかした。それはわかってる」


『知らなかった……?』


 ユキトは思わず呟いた。そうなるとニックスは、計画の全容を把握しないまま仕事を請け負っていたことになる。疑問に思うと同時に、ニックスとミリシャの会話がふいに呼び起こされた。

 あのときニックスは確か、裏切られた、という言葉を出している。

 つまりニックスは、騙されて奇襲に加担したのではないか。

 もしそうであれば、この自堕落な男が危険な橋を渡ろうとしたこととも辻褄が合う。

 薄ぼんやりとながら彼が隠し持っている事実の片鱗が見え始めた。しかしユキトが考え込む前にニックスは話を続ける。


「だけど俺は、こいつらを放っておけない。頼む……できればもうこいつに、サンドラに娼婦なんて仕事もさせたくないんだ」


 サンドラが目を見開き、呆気にとられる。


「ほんとはよ、こいつはそこそこの家の生まれだから性に合ってねぇんだ。ミリシャとも一緒にいたほうがいいってことを――」


「黙れよクズが」


 ライラが矛先を突き出す。ニックスの、いやユキトの額に刃がほんの数ミリほど突き刺さり血が流れる。

 さすがにセイラが「それ以上は駄目よ」と彼女の腕を掴み窘めるが、ライラの腕の力は少しも緩みはしなかった。


「それとこれとなんの関係があるんだ? ああ? てめぇの不甲斐なさを押し付けるんじゃねぇよ!」


 罵声を受けてもニックスは怯まない。瞬きすらせずライラを見つめ続ける。


「頼む。俺には時間がない。もう頼れるのはあんた達しかいねぇんだ」


「黙れっていってんだろうが! てめぇの心配は消えるだろうがよ、じゃああたいらの悲しみはどうなるんだ? てめぇだけ救って我慢しろってのかよ! あんなに大好きだったルゥナール様を失った悲しみを、てめぇが消してくれるのかよ!?」


 怒りと、そして悲痛が混じった叫びだった。

 肩で息をするライラの目尻には薄っすらと涙が浮かんでいる。


「戦争だからって、仕方ないって割り切れるほどあたいは人間できてねぇ。それでも皆を守ってかなきゃならねぇんだ。恨みとか寂しさとか全部内側に溜め込んでな。おまえのことを許せる隙間なんてこれっぽっちもない……ミリシャちゃんは良い子だってわかる。だけど、駄目だ」


「それに特別なのはあなただけではありませんわ、ニックス。あなたよりも悲惨な人々は大勢いる。いちいち助けていたらきりがない。こういう世の中だから、わたくし達も誰を助けるかは選ばなければいけない。そして、あなたのためには動けない」


 セイラは、冷徹に言い切った。

 ユキトはそれを否定することも肯定することもできない。

 ライラもセイラも、ルゥナのことを心から敬愛していた。今はもう同じ時間は二度と過ごせない。魂となって再び会えた現状も一時の慰めに過ぎない。

 平然としているその裏側に、腸が煮えくり返るような怒りも泣き叫びたい衝動も必死に溜め込んできたのだろう。そんな彼女達に聖人君子であれと強要するのは酷だ。 

 ぎり、とニックスが奥歯を噛みしめた。体が震え、拳を握りしめ、男は全身で怒りを露わにしている。

 それは自分自身へ向けた怒りだ。自分のせいで母娘の窮状を救えないことに、我慢がならないでいる。

 しかし男が引けないことを、内側で眺めるユキトはよくわかっている。

 己の愛情を示すため、全ての憎しみを受け止めて懇願することしかニックスには残されていない。


「頼む。サンドラとミリシャを、助けてくれ」


「……っ!」


 ライラの目が見開かれた。セイラの腕を振りほどいて戦斧を大きく振りかぶる。

 脳天へ一直線に放たれた斬撃は、しかし直撃寸前で止まった。それはライラが思い留まったからではない。

 小さな女の子がニックスの前に飛び出し、身を挺して守ろうとしていた。


「ミリシャ!?」


 少女は涙を溜め込みながら、唖然とするライラの前で手を大きく広げた。


「お、を、いじめないで……!」


 ニックスが息を飲む。ミリシャは小さな体を震わせるが、それでもライラの前から退こうとしない。


「わ、たしは、このままでいいから……もう、いじめないで」


「やめろミリシャ! いいからお前はどいてろ!」


 そう言ってニックスがミリシャの肩を掴むが、少女は駄々をこねたように首を振る。


「わたし、大丈夫だから……!」


 ニックスは嗚咽をかみ殺すように顔を歪ませる。

 胸に何かがこみ上げてきた。その暖かさを、内側に押し込められたユキトもなぜか感じ取っている。

 そのとき別の人影がミリシャの体を抱きしめた。母のサンドラだ。

 サンドラは、ミリシャを庇うように戦斧に背中を向けている。

 その目線がニックスとぶつかった。何かを探るように、そして確かめるようにしばらく男の瞳の奥を覗き込んでいたサンドラは、ぽつりと呟く。


「……あたいも、この子と同じだ」

 

 サンドラは、ミリシャをニックスの方へ預けるとライラに向けて頭を下げた。

 ライラはギシリと体を強ばらせる。


「正直、何が何やらだけど……でも、うちのニックスがあんた達に迷惑をかけたことは、わかる」


「そこの少年の中にニックスがいることを、認めるんですの」


 セイラが問うと、サンドラは諦めの濃い苦笑いを浮かべた。


「残念だけどね……あたしはよく知ってるんだ、できの悪い旦那のことを。口べたですぐカッとなって、後先考えず行動する頑固者さ。ほんと子供みたいな人だった。だから、認めてあげないといけないんだろうなって……この、我が儘な亭主のことを」


 そして彼女は、さきほどまで抱えていた激情をすっかり憐憫の情に変えて訴えかける。


「騎士様、どうかその刃をお収めください。あたし達は二人でやっていけるから。この人の頼み事なんて聞かなくていい」


「サンドラ!」


「あんたも勘違いしてるよ。今までだってやってこれたんだ。あんたの稼ぎがなくたってね」


 サンドラは振り返り、勝ち気に微笑む。


「むしろ甲斐性なしのあんたの気まぐれが、気持ち悪くて仕方ないさね。だからあたし達のことは気にせず、ゆっくり天界で休みなよ……何十年か後、そばにいってやるから」


 ニックスは反論しようと口を開いた。だがどう頑張っても喉から声が出てこない。

 絞り出すようにしても、漏れるのは嗚咽だけだ。

 そうして男は崩れるように地面に突っ伏し、涙を流す。その体をミリシャが抱きしめ、サンドラは優しく背中を撫でる。

 三人の様子を見つめていたライラは、言葉を発することなく戦斧を下ろし、長い長いため息を吐いた。そんな彼女の頭を、セイラはくしゃくしゃと撫で回す。

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