⑦-本音 下-
驚いたミリシャは羊皮紙を掴み中身を確認する。
読み書きを習っていない彼女は内容を理解できないかもと危惧したが、中に書いてあるのは絵だけだった。そのため、なにが描かれているかはすぐに判明する。
ミリシャは目を見開くと、羊皮紙と葉っぱの船を掴んだままドアを開け放った。
「ニックスさんっ」
声が外壁に跳ね返って響いていく。
周囲に人影はない。近所の家屋にも変化はなかった。
だがミリシャは再び呼びかける。
「ニックスさん……なの?」
反応はない。
乾いた空気を吸い込み、ミリシャは声を張り上げる。
「返事をして、くださいっ」
呼びかけながら、やっぱり勘違いかもしれない、という猜疑心が浮上してきた。
不安になりながら家の前で立ち尽くしていたとき、彼女の耳朶は、近くの家屋から漏れ出る人の声を捉えた。
「今だって!」とか「逃げるなよ!」という、なにやら喧嘩腰の会話が聞こえる。
しかし、不思議と喋っているのは一人だけのようだった。
ややあって会話が途切れた。すると物陰から一人の若い男が出てくる。
その人物はミリシャの予想外の者で、彼女は目を丸くした。
出てきたのは修道服を着た若い男だ。面識などまったくない。
曖昧な笑みを浮かべながら近づいてくる男に対し、ミリシャは警戒しながら後ずさる。
「……誰?」
怯えた様子で問うと、若い男はミリシャの目の前で立ち止まる。
「あー、えーと……ニ、ニックスの友人、かな」
「ニックス、さん、の?」
ミリシャがきょとんとすると、男は少女が握りしめている羊皮紙と葉っぱの船を顎で示した。
「それな、ニックスの奴から頼まれてたんだ。ミリシャ、ちゃんに、船の作り方をしっかり教えてやらなかったって、後悔してたもんだからよ。だから組み方を書いといた」
「えっ」と少女が意外そうに羊皮紙を凝視する。確かに羊皮紙には、葉っぱの折り方や重ね方などが絵柄として描かれている。文字の読めないミリシャでも順を辿れば正確に組めるようになっていた。
「あとはひたすら練習するんだな。用件はそれだけだ……ってうっせぇな、いいだろ俺の勝手なんだから」
男は顰め面になると、まるで羽虫を鬱陶しがるように頭の周りを手で払う。
苛立たしげな様子にミリシャはつい萎縮してしまう。不機嫌な大人の男を前にすると、自然に身を竦める癖がついてしまっていた。
すると男は気を遣ったように「すまねぇ」と謝って、ぎこちない笑みを浮かべた。人を安心させることにとことん慣れていない、不器用な笑い方だ。
どこか、養父を彷彿とさせる態度だった。
「勝手に家に入って悪かった。それを置いて帰るつもりだったんだ。あと俺のことは、母親には内緒にしてくれ」
「じゃあな」と言い残して男は踵を返す。やはり面倒くさそうに頭の周辺を手で払っているが、その足が一歩ずつ遠ざかっていく。
ミリシャは衝動に駆られた。
「あの……!」
ニックスの友人は立ち止まる。だが振り向きはしない。
声を掛けておきながら、ミリシャの方も逡巡していた。
聞きたいことはたくさんある。ニックスとはどういう仲なのか。自分や母親のことをどう語っていたのか。なぜ戦争などに出かけてしまったのか。船の作り方を教えたがっていたのは本当なのか。
感情が溢れて喉元でつっかえる。ミリシャは喘ぐように空気を吸うだけで言葉を出せない。
「あ、あの、ニックスさんの、お友達さん……」
ようやくそれだけ告げて、ミリシャは唾を飲み込む。
なぜだか、この機会を逃してはならない気がした。今を逃せばもう、ニックスに自分の想いを伝えられない、そんな焦りが生まれる。
ただの直感だというのに緊張感が高まった。ミリシャは自然と慎重になる。
悩みに悩んだ末、彼女は静かに口を開いた。
「その……ニックスさんに、伝えて、ください」
可能性など度外視して、ミリシャは自分の本心を曝け出す。
「……家にいてくれて……ありがとうって」
男の肩が震えた。
「いつもずっと……黙ってるだけでも……帰ってきてくれた、から」
ただ酒を飲んで家に居続けるだけの男だった。ろくに会話もせず近づくと鬱陶しがるような男だった。母と口論が絶えず物に当たり散らす男だった。
しかし養父は、一日たりとて家を空けることはなかった。
数時間ほど外に出ていてもいつのまにか戻っていた。母サンドラと激しい喧嘩をした後でもそれは変わらない。
正直なところ姿が見えないほうが気が楽だったので、どうして戻ってくるのかと鬱陶しく感じたこともある。
だがアルルと話しをした後、ミリシャはあることを思い出した。
それは、初めてニックスがやってきた日、母から言われた言葉だ。
――この人が新しいお父さんよ。だからもう一人でお家にいなくていいの。安心して、ミリシャ。
今のミリシャは気づいている。ニックスが、その言葉をずっと守り続けてくれたことを。一人きりにならないようにと、居続けてくれたことを。
「なので……わたしの代わりに、それを――」
「なんでだ」
堅い声が返ってきた。背を向けたままで男はミリシャに語りかける。
「お前にとって、あの親父はろくでもない男だったじゃねぇか。お前を怯えさせるだけでちっとも可愛がらなかったじゃねぇか……父親らしいことなんて、何一つできなかった。なのに感謝するのか、お前は?」
「……でも、私も、ダメな子だったから」
アルルは、ニックスのことを不器用だと評した。
それはミリシャ自身にも言えることだ。
「わたしも……お母さんにくっついてるだけで。早くどっか行けって、思ってた……ニックスさんの気持ちとか、全然、考えたことなかった」
過去の光景が蘇ってくる。苦々しい思い出のはずなのに、もう二度と手に入らないことがわかった途端、それは胸を締め付ける感傷的な追慕に変わっていく。
「ごめんなさいって、ほんとは謝りたい。ニックスさんに、謝りたい。なのにもう、できない……」
こみ上げる悲しみが制御できず、少女は唇を噛みしめる。
「わたしが……可愛くない子供で、ごめんなさい……」
「違う!」
弾かれたかのように男が振り返った。ミリシャは呆気にとられる。
男の顔は、みっともないほど涙に塗れていた。
「お前は謝らなくていい! お前はなにも悪くない! 悪いのは全部俺だ! 俺がこんな人間だから……自分の気持ちすら、気づけなくて」
涙が落ちて、男が握りしめた拳に当たる。
「本当は嬉しかったんだ……家族ができて、帰る場所ができて。けどよ……幸せだってこと、どう伝えていいかわからなかった」
目の前の男は、声も姿形もニックスとは何一つ似ていない。別人のはずだ。
なのにミリシャの目には、修道服の男がニックスと重なって見えた。
「だから、せめてお前らを楽にしてやろうと思って……真っ当に生きりゃ良かったのに、怪しい誘いに乗っちまった。それがこの様だ。死んじまえば何もかも終わりだってのによ」
ミリシャを見つめる顔はとても悲しげなのに、眼差しは驚くほど優しい。
「馬鹿だよな、俺は。死んでから気づくんだもんな……あんな誘いに乗らなきゃって後悔したよ。裏切られるのがわかってたら、ずっとお前達のそばにいたのに……叶うなら今度こそ真っ当に生きて、お前達の家族として、やり直したい」
男は袖で涙と鼻水をぬぐい取る。「でも、もう遅いんだ」と続けながら。
「だからミリシャ。お前は何も背負い込む必要はない。全部、ニックスっていう男に勇気がなかったせいだ。それから……もう忘れろ」
「え……?」
「ニックスなんて父親がいたことは、忘れろ。お前にはまた新しい家族ができる。あんな最低な親父との思い出なんざ、一つの価値もねぇよ」
早朝の陽光を浴びながら男は笑った。皮肉げで横柄な、ニックスが浮かべていたらきっと違和感がないであろう笑い方だった。
「少し鈍くせぇが、お前は根性がある。だから大丈夫だ。嫌なことは忘れて、お前はお前のために生きろ。それがニックスの、最後の言葉だ」
今度こそ、男は背を向けて歩き始める。
頭は真っ白で、ニックスの面影と重なる理由もわからなくて、彼の言葉を信じるべきか判断もつかない。
だが気づけば、ミリシャの足は勝手に動き出していた。
背を向ける男にぶつかるようにして抱きしめる。
男は歩を止めて肩越しに振り返った。その目には困惑と動揺が現れている。
「いかないで」
絞り出すようにミリシャは言う。
「いかないで……ニックスさん」
なぜそんな台詞が出たのか、彼女自身も正確には理解していない。もちろん憑依のことなど知る由もない。
だが、彼女の本能は訴えかけていた。
どんなときでも家に帰ってきてくれたニックスなら、たとえどんな姿になろうと、再びミリシャの元に戻ってきてくれる。
それがきっと、今という時なのだと。
「ここにずっといて」
「……そいつは無理だ」
「なんでっ」
ミリシャはぎゅっと腕に力を込める。
「どうして行っちゃうの」
「……」
「いや、だ」
生まれて初めての我が儘だった。母親にすら言ったことはなかった。
すると修道服の男は静かにしゃがみこみ、彼女の視線と合わせてくる。
そして優しく、ミリシャの頭を撫でた。
「ありがとうな……ミリシャ。お母さんを大切にな」
「行かないでって言ってるの……!」
「はは、お前ってそんなだったか? ほんと、俺はろくに見てもいなかったんだな」
男の潤んだ瞳に、今にも泣き崩れそうなミリシャの顔が映っていた。
「船さ、上手になってたぜ。頑張れよ」
「聞いて! なんで無視するの!?」
「最後に話ができて良かった」
「ニッグズざん!」
「……ミリシャ。元気でな」
その後はもう言葉にならなかった。
ぐちゃぐちゃの感情を放出するように、ミリシャは声を上げて泣いた。
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