⑦-円燐剣-

 ジルナは、スカートの裾をぎゅっと握りしめていた。

 彼女の目の前では一人の少年とロド家の忠臣が対峙している。背が高く筋肉質なゴルドフと比べると痩せた体型のユキトは貧弱そうに見えるが、彼に臆した様子はない。


 少年の手には一振りの剣が握られている。柄からは鎖が伸びていて、更にユキトの右手に嵌められた手錠と繋がっていた。手錠も鎖も腕を拘束するためのものではない。

 円燐剣は、利き腕に嵌められた手錠と剣を繋ぐことで本来の力を発揮するのだ。

 孤児院に現れたときユキトは、ルゥナが所持していたものとそっくりの剣を所持していた。初めは演出のために作った偽物だとジルナは考えていたが、わざわざ手錠も用意しろと言ってきた当たりどうやら本当に円燐剣の使い方を知っているらしい。


 対峙する二人とは別に、大広間の壁際には多くの衛兵が揃っている。証人は多いほうが良いという事と、万が一ユキトが逃亡したり襲い掛かってきたときの予防策でもある。


 ――だけどきっと、そんなことにはならない。


 ユキトは誠実な少年だった。欺くことも邪な行動もしなかった。ただただ、ルゥナがそばにいることを信じてもらおうと動いていた。


 そしておそらく、ルゥナの魂は彼のそばにいる。


 いくら否定の材料を探しても、そうとしか考えられなくなっていた。

 スカートを握りしめた手が小刻みに震える。先程から動悸が止まらない。グリニャーダを追い詰めるのすら綱渡りでかなり緊張したが、今はそれ以上に息苦しかった。


 ――霊なんて絶対、いないと思ってたのに……。


 ジルナは無神論者だ。ただ、それを誰かに公言したことは一度もない。

 神や霊魂など存在しないという考えはこの世界では異端。西大陸では無神論を唱える学者たちもいるが、ここ東大陸は宗教に根ざした社会を形成しているので神の否定は迫害に繋がる。ロド家の末妹という立場もあって、彼女は自分の考えをずっと胸に秘めてきた。


 しかしだからこそ、グリニャーダという導師の卑劣な策に気づくことができた。モルディットの裏の顔を知っていたという事情もあるが、姉のルゥナを探し当てるなど絶対に不可能だと考えたことも功を奏した。

 ただし、導師の力を明確に否定できるだけの根拠を彼女は持っていない。他貴族からの経験談やラオクリア総主教庁の情報を調査した状況証拠が揃っているだけだ。


 あるものが全く存在しないということを証明するのは非常に難しい。これは悪魔の証明という論法だが、ジルナには導師の力が存在しないことを証明する術はなかった。

 グリニャーダを追い詰める際はその点をぼやかしていたが、相手がまんまと策に嵌ってくれたおかげで退散まで漕ぎ着けた。

 

 予想外だったのはユキトの存在だ。孤児院に現れたとき彼は今後の婚約について言及した。信じかけていたジルナは、そこで一気に冷静になった。これはグリニャーダのような詐欺師の類なのだろう、子供たちを使って一芝居打ったのだろう、と。

 現在、ジルナの立てた仮説はことごとく否定されている。問答を仕掛けたのはグリニャーダのついでにユキトの欺瞞も暴こうと考えたからだが、結果的にはそのせいで彼の言い分を信じ始めている。


 ――姉様は、死んだ。そして魂となって彼の中にいる。そんな見え透いた嘘のような出来事が、私の目の前で起きているんだ……。


 自身の価値観を根底から覆されかけている。だが、そんなことは少々の問題でしかない。

 姉が、たとえ肉体を失っても目の前に現われたという事実が、ジルナの心を大きく揺さぶっていた。


「さて、ユキト、と言ったか。我らの姫殿下が貴様と共にあるとは信じがたい。信じがたいが、ワシとて阿呆ではない。数々の言動は信用に値すると思っている」


 そこでゴルドフは鞘から剣を抜き、鞘を放り投げる。カラン、と乾いた音が大広間に響いた。


「しかしワシは戦馬鹿だ。頭を使うことは専門分野ではない。それは政務のクザンやジルナ様の役目よ。であればワシはこの肉体を用いて確かめる。貴様の言葉が真実かどうかをな」


 後頭部を掻いていたユキトは、自分の左側を見た。彼は幾度かそんな行動をしている。きっとそこにルゥナの霊体が立っているのだろう。

 ジルナは目を凝らす。見えるものなら姿を見たい。しかし彼女の目には片鱗すら映らない。


「わかった。じゃあ今からルゥナに変わる」


 言った途端、ユキトの頭がカクンと後ろに落ちた。そのまま後ろに倒れるかと思いきや、足を踏ん張って堪える。そして首を傾けてポキポキと音を鳴らした。


 ――……変わった。


 少年の顔が変化したわけではない。だが雰囲気が違う。

 温和な目つきは野獣のように鋭くなり、胸を張って力強く立っている。口元には不敵な笑みが浮かんでいた。

 ゴルドフも変調に気づいたようで、すぐさま剣を構える。


「あと言っておくが小僧。貴様の実力がわからん以上、手加減はできん。怪我をしても恨むなよ」


「それなら心配ない」


 ユキトは剣を抜く。ゆっくりと水平に構えた。


「私の剣を受ければ、本気にならざるをえないとわかるさ」


 瞬間、二人は広間を疾走した。

 剣が打ち合わされる。甲高い音と火花が散った。鍔迫り合いから互いに剣を弾く。次に斬撃を放ったのはゴルドフだ。しかしユキトは軽やかな動きで回避すると、横滑りに回転してゴルドフの背後に回った。

 巨漢の背中めがけて横薙ぎが振るわれる。が、ゴルドフは既に背後へ剣を放っていた。ユキトの一撃は防がれたが、彼は気にした風もなく次々と斬撃を放つ。


 激しい剣の応酬が始まった。互いの剣を防ぎ、弾き、次々と攻撃を繰り出す。

 家臣のクザンや周囲の衛兵たちが目を見張っていた。ゴルドフはゼスペリア随一の武人だ。拮抗できる人間など指で数えるほどしか存在しない。

 そのうちの一人であるルゥナならば、ゴルドフと相対することも可能だろう。

 剣を打ち合っていた両者だが、先にユキトが後方へ離脱した。ゴルドフが油断なく見据える前で、彼はいきなり剣を手放す。

 鎖に繋がれた剣は地に落ちることはない。ぶらりと宙に浮いている。

 ユキトはそれを、腕を使って回転させ始めた。手首の力をうまく使うことで手錠から鎖、そして剣へと回転力を伝える。勢いは激しくなり風切り音が響き始めた。


「四の型……流舞」


 ゴルドフが呟く。その声には少なくない驚きが混じっている。


「久々だからな。しっかり受け止めるんだぞ、ゴルドフ!」


 吠えたユキトは地を蹴ってゴルドフに肉薄した。回転力を活かした斬撃が放たれる。ゴルドフはそれを弾くが、ユキトは体勢を整えて即座に追撃する。弾かれても弾かれても鞭のように動く剣が家臣へと襲いかかった。


「小僧……!」


 苛立ったゴルドフが剣を弾くとユキトに接近する。大きく振り放った斬撃は、しかし彼には直撃しなかった。跳躍して回避していたユキトは、握り締めた剣をゴルドフの頭部めがけて振り下ろす。

 予測していたゴルドフは彼の斬撃を受け止めた。

 直後、衝撃を受けたようにゴルドフがよろめく。

 男の頭部に激突したものがあった。それはユキトの右腕に嵌められていた手錠だ。決して軽くはないその物体が剣とは別の凶器として襲いかかっていた。

 ゴルドフはすぐに後退する。一方でユキトは剣を握り締め、今度は鎖につながれた手錠の方を振り回していた。


「三の型〈双炎〉。お父様の得意だった型だ」


 手錠を振り回したままユキトが突撃する。放たれた手錠を避け、次に迫る剣をゴルドフは防ぐ。そこから反撃の一撃を放った。

 ユキトは攻撃を受け止める。だが受けたのは剣ではなく、手錠と剣をつなぐ鎖で、だ。

 そして少年は相手の剣を鎖で絡めて動きを封じ、巨漢の鳩尾に蹴りを入れる。

 虚をついた一撃だったが、ゴルドフは怯むことなくお返しとばかりに拳を放った。ユキトは屈んで回避すると鎖を解いて遠ざかる。


「さすがの肉体だな! 鎧がないのでいけると思ったが」


 ユキトの声は弾んでいた。剣を振るうのが楽しくて仕方ない、という様子だ。


「……ルゥナ様、なのか」


 呟いたゴルドフはハッとして口元を押さえる。自分が口走った言葉に困惑していた。

 ジルナもまた動揺を隠せないでいた。


「今のは二の型〈天牢〉。既に三つ、いえ四つの型を使った……」


 ロド家に伝わる秘剣「円燐剣」には五つの型がある。

 基本にして肉体の回転を駆使した正攻法剣技〈一の型 獅光〉。

 鎖を駆使して敵の攻撃を防ぐ、あるいは肉弾戦に応用する〈二の型 天牢〉。

 剣だけでなく手錠も武器として利用する連撃法〈三の型 双炎〉。

 鎖の回転力を加算して繰り出す中距離攻撃法〈四の型 流舞〉。

 そして一から四までの型を混合させた奥義〈五の型 浄破〉。


 ユキトは二から四までの型を使っているが、最初の一撃でも既に回転斬りの<獅光>を放っていた。

 残すは五の型だけだが、それを披露するまでもなく決定だろう。

 ユキトは、円燐剣を完璧に使いこなせている。


 容易く模倣できるものではないこともジルナは知っている。

 円燐剣は遠い昔、ゼスペリアを興した開国の祖が生み出したものだ。伝承によれば、最初の王は一人の奴隷だったと記されている。その奴隷は自分を繋ぎ止める鎖と手枷、そして一振りの剣を繋げて生み出した剣術でもって反旗を翻し、仲間を増やしてついには一つの国を作り出すに至った。そして王となった男は以後も、国を導く者の証として自分の剣術を子に受け継がせていったのだ。

 しかし一朝一夕で取得できるほど生易しい代物ではなく、ルゥナも幼少期を全て修練に費やすことで会得してきた。どこの誰ともわからない少年が、指南もされずに会得できるわけがない。


 ――どうして、なの……?


 戦いが再開した。ユキトは一から四の型を巧みに切り替えて攻撃していく。対するゴルドフは混乱と、先の戦争で足を負傷していることもあって防戦一方だ。それでもロド家の忠臣が振るう剣に迷いはない。


「やるな小僧っ! だがワシが見てきた姫殿下の剣はその程度ではないぞ!」


「言うなゴルドフ! 私とて異なる肉体では勝手が違う。しかし言い訳にはせんっ。全ての力をもってお前を屈服させよう!」


 剣が振るわれ、擦過音が響く。二人の汗が大広間に散る。一進一退の攻防を衛兵達は固唾を呑んで見守っていた。誰も口を開かず、揺れる瞳で彼らを見続けている。

 もしかするとユキトの姿に、ルゥナの姿を重ねているのかもしれない。

 その中で唯一人、ジルナだけは泣き出しそうに顔を歪めていた。


 ――どうして今なの、ルゥナ姉様……ようやく、心を決められそうだったのに。

 

 彼女の胸中は様々な感情が混ざって溢れようとしている。

 思い出すのはルゥナとの最後の会話だ。

 ドルニア平原に向かうときのルゥナには、緊張こそあったものの恐怖心も悲壮感もなかった。必ず勝って帰ると誓った姿は立派で、ジルナは姉が帰還することを信じて疑わなかった。


 だが、ルゥナは帰ってこなかった。


 ゴルドフ達が帰還したとき、ルゥナだけが生死不明だと聞かされた。死んだとは到底思えず、きっと数日経てばひょっこり帰ってくるとジルナは考えた。

 しかし幾ら待っても吉報は訪れない。誰もルゥナの姿を見つけられない。

 数日経過して、ルゥナ死亡説に信憑性が増す。敗戦の後処理に追われていたジルナの元にも他の六州から使者が訪れ、今後の婚姻について様々な提案が出された。

 現実感はまるで無かった。姉が死んだことすら受け止めきれないままで、世界はジルナを置いてどんどん先に進もうとする。ジルナの出番だと手を引っ張る。

 姉は死んでなどいない、だから待って欲しい。何度もそう主張した。しかし周囲の人間も、家臣達も、ロド家やゼスペリアをどうするかという話しかしない。ついにはゴルドフですらルゥナの話をしなくなった。そしてジルナに、家督を受け継ぐ気概を持てと忠告してきた。


 心の準備をしていなかったわけではない。万が一のときにはゼスペリアを守っていく覚悟も持っていた。

 それでもジルナにとっては、姉のルゥナが最後の肉親で、彼女と共に生きる未来が当たり前だった。もう二度と戻らないなんて、あんまりだった。

 しかし時間の猶予はほとんど残されていない。ただでさえ珍妙な娘だと馬鹿にされていたところに州長代理の美味しい大役が回ってきたのだ。狡猾な大人たちがジルナに近寄ってくるのは、彼女自身でも容易く想像できた。

 心を切り替えなければいけない。そして悪しき手からゼスペリアを守るため、自分がしっかりしないといけない。

 そうして悲しみも怒りも全部蓋をしたのが、つい先日のことだった。


「……もう、いいから」


 戦いは止まらない。いつしかユキトだけでなくゴルドフすら笑い始めていた。二人共に我を忘れて熱中している。

 まるでいつかの師弟対決を眺めているようだった。

 涙が頬を伝う。こみ上げてきた感情を我慢しきれない。


「もういいから……!」


 ジルナは一歩踏み出す。二人には声が届かない。

 感情が、爆発した。


「もういいからっ! お願いだからもう見せないで!」


 ピタリ、と二人の行動が止まる。そして驚愕しながら振り向いた。

 足下がおぼつかなくなったジルナは、その場にぺたりと座り込む。


「わかりましたから……! ルゥナ姉様……!」


 ジルナはボロボロと涙を流す。

 自分の感情がよくわからなかった。姉が死んだとわかって悲しいのか、魂でも会えたことが嬉しいのか、自分に大役を押し付けたのが憎いのか、これからの未来を一緒に考えられることに安堵したのか。

 もしくは、姉に甘えてしまう自分が情けないのか。


「ジルナ? どうして泣く――」


 瞬間、ユキトがその場に崩れ落ちる。ゴルドフが慌てて支えに入るが、彼は意識朦朧といった調子でぐったりとしていた。


「どうしたんだルゥナ様!?」


「いや……今は、俺なんです」


 声の雰囲気でジルナはすぐ気づいた。姉ではなくユキトが出てきている。副作用と呼んでいた憑依後の異変かもしれない。


「す……すいませんが、俺を、ジルナさんのところに……連れて行って、くれませんか」


 ゴルドフは不可解そうにしていたが、何も言わずにユキトに肩を貸した。そして二人はゆっくりとジルナの元まで歩く。ゴルドフから離れたユキトはジルナの前で座り込み、荒い息を吐いた。


「ジルナ、さん……ルゥナから、の、言葉を伝え、ます」


 剣を杖代わりにしてやっと姿勢を保っているユキトは、必死になって伝言役を務めようとしていた。

 彼は他人のはずだ。こんな状態になってまでなぜ頑張ろうとするのか、ジルナにはわからない。

 だが、姉のためを思ってくれている優しさだけは、はっきりと伝わった。


「ごめんね、ジルナ……先に、行ってしまって。そして、一人だけ残して」


 涙を流しながら、ジルナはコクリと頷く。


「私はもう、この世にはいない、人間だけど……少しだけ、未練がある。だからユキトの、力を借りて、残ってるの。私は……もうちょっとだけ、貴女を見ていたい」


 ジルナは頷く。涙で洋服が濡れていくが止めようがない。


「貴女の決断を、見届けたいんだ。そうしたら私は、きっと、満足して逝けるよ……だって私の、自慢の妹だもの」


 ニコリとユキトは笑った。それは彼の意思なのか、それともルゥナの意思なのか。


「駄目、かな?」


 ジルナはゆっくりと首を振る。


「ほんと……姉様らしいんだから」


 そして堪えきれなくなったように、ジルナは大声で泣いた。

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