⑯-黄昏の告白-

『死体が片付けられた後も僕は檻から出られなかった。しかしつい数日前、檻が外に出されたのです。三鬼達が導師殿を捕らえるために用意したようですが、結果としてそれが僕らの出会いに繋がった……自分を殺した相手のおかげというのは、なんとも皮肉な話ですが』


 ライオットはため息を吐いて話し終える。気温が下がったせいか、冷たい風が通り抜けていった。

 その場には静寂が漂う。誰も言葉を発さない。夜の色が濃くなり始めた平原に、重苦しい空気が沈殿している。

 ルゥナは静かに各自の顔を見渡した。ギルバートとファビルは絶句している。想像を絶する狡猾さと悪辣な裏切りに、反応すらできないでいた。

 ユキトも仏頂面で黙り込んでいる。彼は既に話を聞いているというが、あまりに残酷な物語は何度聞いても嫌悪を引き起こすのだろう。

 ライオットのほうは、ルゥナから目を背けて拳を握りしめていた。ルゥナを守るためとはいえ単独で行動したことは悪手に違いない。白状したことで、彼は罪悪感に苛まれている。

 誰も先には進めようとしない。だからこの場を仕切るのは、達観したほどに気持ちが落ち着いている自分の役目なのだろうと、ルゥナは悟った。


『よくぞ話してくださいました、ライオット殿下』


 ライオットが振り返る。ルゥナは真正面から見返し、微笑する。

 彼に対する胸のつかえは消えてはいない。それでも、逃げずに相対するべき人だ。


『私は、真相を知るためにここまで来ました。ですが、全てが明かされることはないのではと、どこかで諦めていた部分もある……予想に反して、全ての事実が詳らかになりました。殿下が現世に留まり続けていてくださったからこそ、叶ったのです。貴方に感謝したい、ライオット殿』


 ライオットが唇を噛みしめ、泣き出しそうなほど顔を崩す。

 反対にルゥナの胸中はズキズキと痛みを発していた。どの口が感謝するなど言えるのか。彼の決死の覚悟も想いも何も知らなかった自分が、のうのうと恩恵を受けているなどおこがましい。

 だから、もっと他に言うべき台詞がある。


『ただ、肝心なことをまだ聞いておりません』


『え……?』


『貴方が現世に残った未練です』


 ライオットが呆気にとられる。ユキトも、なぜここで聞くのか、と不可解そうに眉をひそめていた。

 しかしこれは、避けて通れない問題なのだ。


『あの、現世に留まってしまう原因については、導師殿から伺っております……ですがここで、必要な話なのでしょうか?』


『はい。ぜひ私に、お聞かせください』


 ライオットは戸惑う。だがルゥナは、提案を撤回するつもりは微塵もなかった。

 なぜならこれは、彼女にとっての贖罪だったからだ。


 ライオットと再会した瞬間、ルゥナは激しく動揺した。それは彼が死んでいたことにショックを受けたからではない。

 彼が死んでいる可能性を気づいて、ショックを受けていた。

 ルゥナはライオットが姿を晦ませても、心配はしたが捜そうとまでは考えなかった。聖ライゼルス帝国が迫っていたという事情もあるが、養父のアルメロイ辺境伯が自ら探すと言い出したことで彼のことが頭から抜け落ちた。

 事件や事故に巻き込まれたのであれば由々しき事態だが、皆が噂するように敵前逃亡しただけなら、そのうち別の場所で違う人生でも始めるのだろうと楽観視した。

 つまるところルゥナは、婿となる男を軽んじていた。悪く言うなら、そこらの他人と同じ扱いしかしていなかった。


 一方でライオットは、比べ物にならないほどの強い気持ちを持っていた。彼はルゥナを救うために父親に反旗を翻し、死した後も現世に留まって長い孤独を耐え抜いた。相当の未練がないと成し遂げられないだろう。

 その気持ちが誰に向けられているのかは、既にこの場の全員が察している。


 だがルゥナは、もっと早い段階から彼の気持ちに気づいていた。

 なぜならライオットが、ルゥナの姿を捉えた僅か一瞬、まるで救われたように安堵していたからだ。

 待ち焦がれていた人にようやく会えた男の表情を見て、女の直感が働いた。

 彼は、自分の元へ戻りたかったのだろう、と。

 お互いただの政略結婚の相手で恋愛感情は皆無だと思っていた。しかし、ライオットはそうではなかった。

 片方は愛する人のために現世に留まり、片方は今まで気に留めず心配もしていなかった。気持ちのすれ違いとはいえ、ライオットの願いを踏みにじっていたことに違いはない。


『……僕の、未練は』


 ライオットは静かに立ち上がると、ルゥナを見下ろした。

 真っ直ぐな視線を向けられることに、ルゥナは恐怖する。熱意がないことを悟られるのが、彼を傷つけてしまうのが怖い。だからルゥナはずっと視線を合わせられなかった。

 しかしライオットは、身内の恥も自分の想いも全て曝け出して、真実を伝えてくれた。諦めることなく現世に留まり続け、会いに来てくれた。

 ここで誤魔化すほうがもっと彼を傷つける。たとえ本心を見透かされてライオットに蔑まれても、ユキトに見損なわれても、真剣に向き合う責任がルゥナにはあった。


『未練は……最後に、貴女に会うことでした』


 その瞬間、ユキトが「あっ」と声を上げる。


「体が……!」


 気づいたルゥナもギョッとする。ライオットの透明度が高くなり、体が薄くなり始めていた。

 慌てて立ち上がるルゥナ達だが、ライオットは平静のまま自分の体を見下ろす。


『これは……僕の体が消えようとしている、のか』


「だと、思います……未練が解消されてきてるんです」


 ユキトはそう答えるが腑に落ちない様子だ。なにがキッカケで解消に向かっているのか明確ではない。

 だが当の本人であるライオットは心当たりがあるのか、悟ったように微苦笑を浮かべた。


『なるほど……いや確かに、僕の未練は解消されつつあるかもしれない』


 彼はそこでルゥナに向き直る。寂しげな表情だった。


『僕が最後に願ったのは、ルゥナール様の元で死にたい、ということでした。貴女に出会えたことでそれが達成できるのです』


『っ……』


『本当は色々と伝えたいこと、託したいこともありました。でも、この状況ではそれも叶いそうにない。だから貴女に看取られて逝くことが、僕の未練の全てになったのでしょうね』


 想い人のルゥナ自身が死亡していたという事実が、逆に一部の願いを諦めさせていたのだ。


『けれど、僕は満足しています。父上の計画についてもお伝えすることができた。思い残すことはない』


 そこでライオットがユキトに目を向ける。


『ただ、導師殿。この状態で新たな未練が増えたとしたら、どうなるでしょうか。まだ現世に留まることができますか?』


「……可能、だとは思います。だけどライオットさんの体はもう消えかかってる。心の充足を掻き消すほどの強い心残りじゃないと、効果がありません』


『そう、ですか。ルゥナール様のお手伝いがしたかったのですが……正直に申し上げれば、僕にとってゼスペリアという領地はそれほど思い入れがない。貴女がいたからこそ守る価値があったのです。全てが終わった今、僕は強い未練を抱けない……こんな身勝手な人間、心底失望するでしょう』


『そんなことは……』


 ルゥナは微かに首を振るのが精一杯だった。最低なのは自分のほうだと口をついて出そうになる。

 ライオットは目礼すると、周囲の面々に向けて告げた。


『すまないが、ルゥナール様と二人きりにして貰えないか。最後はこのお方とだけ話したい』


 ユキトとギルバートは顔を見合わせた。二人の意思は同じだったようで、頷き合うとファビルを連れて離れられる限界のところまで移動していく。

 ライオットも三人から離れていった。胸の前で手を組んだルゥナは、震える足で彼に近づいていく。

 太陽が山脈の向こうに沈み、茜色が尾を引いて消えていく。黄昏の空を眺めていたライオットは、ルゥナに向けて微笑した。


『申し訳ございません、ルゥナール様。このような身勝手にお付き合いいただいて』


『い、いえ……それに、そこまでかしこまらないでください。私などは、貴方の最後の話し相手に相応しいかどうかも……』


『相応しいか、ですか』


 吟味するように呟いたライオットは、じっとルゥナの瞳の奥を見つめた。


『お聞きしたいことがあります……貴女は、僕のことを愛していましたか?』


 心臓が跳ねる。ルゥナの罪悪感が刺激され胸が疼いた。

 困惑する彼女の前で、ライオットは優しい眼差しになる。


『すみません、狡い質問でした。僕たちは単なる政略結婚の間柄でしかない。特別な感情がなくても何もおかしくはありません』


『も、申し訳ありません』


『責めているわけではないのです。ただ僕は、知りたかった。僕たちの関係がどうなるかを……既にお察しかもしれませんが、僕は貴女に好意を抱いています。たぶん、初めて会ったそのときから』


 ライオットは淀みなく告白した。だが、その言葉に未来への期待はない。気持ちの整理をつけるために、悔いのないように、淡々と伝えているだけだ。

 既に察していたとはいえ、面と向かって告白されることにルゥナは慣れていない。恥ずかしさと、返事のしようがない虚しさが混ざって胸が詰まる。

 何も返せないでいると『では聞き方を変えましょうか』とライオットが言い換えた。


『将来的に、僕のことを愛してくれる可能性は、ありましたか?』


 ルゥナは内心で呻く。先ほどの質問のほうがまだ気が楽だったかもしれない。

 どう答えればいいだろうか。ライオットを悲しませたくはない。しかし、この場で取り繕うことに果たして意味はあるのか。

 逡巡した末、ルゥナが発したのは、正直な感情だった。


『……わかりません』


 昔のルゥナなら、きっと違う答えを出していた。

 たとえ周囲に決められた結婚だとしても、共にゼスペリアの未来を築き上げていく中で次第に愛情が育まれていくはず――順当に答えるならそんなところだ。

 しかしルゥナは、もはや以前の彼女とは違う。愛情というものがどれほどに深く、残酷で、尊いものか知ってしまった。簡単に愛せますとは言い切れない。

 ルゥナはちらりと振り返る。離れた場所ではユキトが不安げな眼差しを送っていた。心配してくれている彼のことを考えて笑みが溢れる。

 この温かい感情は何にも代えがたい。だからこそ、紛い物の愛情でライオットを喜ばせるのは、冒涜のような気がした。


『ライオット殿下。私は貴方の懸命な姿に敬服いたします。だからこそ、この時に適当な答えを言うべきではありません……正直なところ、私の中で貴方の存在は、それほど大きくはなかった。おそらく私が、女としての人生を諦めていたせいだと思います。貴方との婚姻は使命であり、それ以上でも以下でもなかった』


 ライオットは先を促すように黙っている。強かった風が止み、ルゥナの声だけがはっきりと響く。


『貴方と本気で向き合おうとしていなかった。役目を遂げることだけ考えて、子を産んで育てればそれで済むと思っていた。軽蔑すべき人間だ。ここで罵倒されても、甘んじて受け入れます』


 最低の告白であることを、ルゥナは承知している。

 ライオットが壮絶な死を遂げてもルゥナの元へ辿り着いたのは、執念とも呼ぶべき恋心がもたらした奇蹟だ。

 その彼に報いるどころか、自分本位の考えを優先して安らぎを奪おうとしている。

 罪悪感に苛まれながらもルゥナは、自分の心を吐き出そうとした。どうしても彼に届けたい言葉があった。


『だけど……私は、貴方の真っ直ぐな剣が好きでした。きっと実直で、心根の澄んだ方なのだろうと感じた。そのお方に、私の剣を褒めていただいたことが嬉しかったことを覚えています』


 沈黙を貫いていたライオットに微かな変化があった。彼の瞳は何らかの感情で揺れ動く。


『貴方を愛し始めていたなんて、軽々しく答えることはできません。だけど私はもう一度、貴方と手合わせがしたかった。貴方と一緒の時間をもっと過ごしていてれば……先のことはわからないけれど、今とは違う関係になっていたかもしれません。それが嘘偽りのない、私の本心です』


 ライオットは深いため息を吐くと『変わらないな貴女は』と諦めたように呟いた。


『いいんです、それで。そんな貴女だからこそ、僕は好きになったのですから』


『ライオット殿……』


『それに悪いのは僕のほうです。貴女の就任祝いの席でも、婚姻式の前も、貴女と打ち解ける機会はいくらでもあった。僕のほうこそただ舞い上がるばかりで距離を縮めようともせず……何度も何度も、話をしておけばよかったと、後悔しました』


 苦笑いするライオットの、その体がもうほとんど透き通っている。自分の掌を見つめたライオットは、終りが近いことを悟っていた。

 すると彼は意を決したように言う。


『……ルゥナール様。一つだけお願いがあります。聞いてくれますか』


『今の私にできることであれば、何なりと』


『全てが終わった後で構いません。僕の葬儀を執り行うよう、導師殿と協力して進めていただきたい……きっと家族は誰も、僕の死を知らないでしょうから』


 父親の陰謀により、ライオットは行方不明扱いのままだ。誰かが周知しなければこの先もずっと闇に葬られたままだろう。同じ死人として、その状況がどれほど無念かは痛いほどわかった。

『約束いたします』とルゥナは力強く頷く。


『良かった……これで貴女を、天界でお待ちできる』


『天界で、待つ?』


『確かラオクリア教の教義では、死者は花と共に神の御前へ誘われるといいます。しかし僕は花葬で送り出されてはいない。その場合、辿り着けるのか不安だったもので』


 ルゥナが困惑を深めると、ライオットは胸の内を明かす。


『もし可能であれば、僕は貴女が天界に来るその日まで待っていようと思います』


『そんなことは、できるのでしょうか?』


『わかりません。だけど神に頼んででも、僕は待ちたい。そして、神の御前に赴くまでの少しの間だけでも、僕は夫婦として貴女の傍に寄り添いたいのす……駄目、でしょうか?』


 おずおずとライオットが問う。引っ込み思案な彼の姿に、ルゥナはふと州長代理就任の晩餐会を思い出した。

 あのとき話しかけてきたライオットもかなり緊張した様子だった。きっと勇気を振り絞っていたのだろう。何も気づけなかったことを、ルゥナは改めて申し訳なく思う。


『……わかりました』


 ルゥナは微笑む。生前はできなかったが、せめて今だけは、彼に対して真摯でありたい。


『全てが終わった後、必ず貴方のもとに参ります。ライオット』


『……ありがとう』


 彼は消え去る最後のときまで、ルゥナに笑いかけた。


『願わくば、来世でも貴女に会えますように』


 全てが儚く消えていく。

 ルゥナの婿になるはずだった男は、内に秘めた未練を解き放ち、この世から完全に消え去った。

 太陽が沈み、平原は夜を迎える。青黒い空の中に星々が瞬いている。


『……必ず、行きます。だけどもう少しだけ、待っていてください』


 星空を見上げてルゥナは呟き、胸の前で手を交差させる。

 

『成し遂げたい未練があります。妹のために、そして、彼のために』


 今までルゥナは、使命に縛られた人生を送ってきた。円燐剣を覚えることも、騎士になることも、州長代理に就任することも、そしてライオットとの結婚も。自分で決めた道のようで、実は誰かの意志に背中を押された結果に過ぎない。

 だが今は違う。死しても尚、愛する妹のために剣を振るいたい。

 そして、優しすぎる少年を守りたい。

 それは誰の指図でもない、ルゥナ自身が決めた道だ。

 彼女は今ようやく、自分というものを掴むことができた。


 ルゥナは踵を返してユキトの元へと歩いて行く。新たな覚悟を胸に秘めながら。

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