幕間-そして闇は空で嗤う-
執務室は重苦しい沈黙に包まれていた。
床に跪き頭を垂れる宰相ノーマンはゴクリと唾を飲み込む。
テーブルを挟んだ向かいにはガルディーンが椅子に座り、報告書を読み込んでいた。
「で、ヘレーネの行方は?」
「はっ、依然捜索中にございます。ですが生き残った配下の聴取によれば……おそらくは既に」
「そうか」
ガルディーンは言葉少なに応える。それ以上は聞こうともしない。
ヘレーネといえば極秘部隊の中でも特に可愛がっていた配下だが、生死不明の一報にもガルディーンは眉一つ動かさなかった。
任務に失敗すれば温情もなく切り捨てる。誰であろうと冷酷な態度に変わりはない。逆にいえば、その徹底ぶりが隙を生じさせぬ強みでもあった。
「ですが一点、気になることがございまして。ヘレーネと行動を共にしていた配下の者は、黒い波濤に襲われた、と意味不明の供述をしておるのです」
「黒い波濤? ……黒、か」
ガルディーンは椅子にもたれ掛かる。ギッと軋む音が鳴った。
「確か中央州で衛兵ユキトを襲った者も、黒の塵になって消え失せたと言ったな。今回もあの小僧がいる中で類似する現象……どうやら衛兵ユキトは、黒色の化け物共にしつこく口説かれているようだ」
ガルディーンは軽口でそう評しているが、ノーマンも同意見だった。
異質な黒の物質に襲われたと聞いて、真っ先に浮かんだのは中央州を騒がせた無法者の存在だ。当時狙われたユキトという衛兵が関わっているなら、関わりがある確率はより高まる。
「さて、となればあのガキは何者だろうな。ロド家に深入りしているだけでなく、俺の足元まで近寄った嗅覚もある……奴特有の何かでもあるのか」
「黒の化け物に狙われているのも、その何かのせい、でしょうか」
「さてな。予定通り捕獲していれば尋問のしようもあったが、生憎とこの場には姿が見当たらん」
暗に任務の失敗を揶揄されてノーマンは黙り込む。
すると主君は、報告をしたためた羊皮紙を手の甲で叩いた。
「それと、ここに書いてある黒い霧とやらは何だ」
「え? あ、それは奇襲作戦に関する事後調査の一部でございまして。ロド家の家臣ゴルドフが、ドルニア戦役を生き残った兵達に奇襲のことを聞き回っていたとのことです。そこで黒い霧を見たという情報が上がったとか」
「黒、黒、黒……いい加減、偶然で終わらせるには片付けられなくなってきたか」
主の思考が読めずノーマンは眉をひそめる。しかしガルディーンは肘掛けに肘をつくと、別のことに言及した。
「衛兵ユキトは案内役を担った傭兵の家族に接触しているな。奴はどこまでの情報を得た」
「妻娘共に輜重隊に合流した後で尋問は厳しく……ただ家探しの結果、傭兵が所持していた地図の幾つかを確認いたしました。ドルニア平原の中継地点を記したものであり、おそらく奇襲に関与していたことは見抜いているかと」
「こちらとの接点は」
「当の傭兵も実行部隊もヘルメス様が処分しております。証拠は何も残っておりませぬ。たとえ連合国内に奇襲をしかけた存在がいると知っても、こちらに辿り着くことは万に一つもないかと」
「だといいがな」
ガルディーンは皮肉げに笑う。何か懸念材料があるようだが、内容がわからないのでは応えようもない。できるとすれば別の人物だ。
「奇襲部隊の編成および人材調達はヘルメス様が一任しております。傭兵は商人を伝って雇ったようですが、何か問題があるとすればヘルメス様がご存じでは」
「つまり貴様は、俺の息子が証拠を残すようなヘマをしていると、そう言いたいのか」
ノーマンの顔が青ざめる。即座に謝罪しようとしたが、その前にガルディーンが鼻で笑った。
「ありえん話ではないな。この状況に浮かれてるのか知らんが、最近の奴はどこか人を食った態度でいやがる。まぁ、自分がライオットの二の舞いになりかねんことは気づいているだろう。精々、全力で尻拭いすればいい」
高みからの物言いは息子に対する言葉ではなかった。ノーマンの背筋を冷たいものが走り、失言の謝罪も忘れてしまう。
「で、その本人はどこに行った」
「確か外遊されておいでかと……」
「呼び戻せ。他に聞きたいこともある」
ノーマンが顎を引くと、ガルディーンは報告書を机に放り投げる。
「さて、あとはライゼルスの出方だな。動きは」
「本日中に斥候から報告が入る予定にございます」
計画ではロド家だけでなく、聖ライゼルス帝国の動向も重要だ。
先の戦争で疲弊しているゼスペリアは、ガルディーン派閥かヴラド諸侯王のどちらかの陣営に頼らなければ軍を立て直すこともできない。その焦燥につけ込んで合併軍に取り込む、あるいはアルメロイ辺境伯に実権を握らせることが計画の要となる。
だが脅威となるライゼルスが一歩も動かなければゼスペリアの危機感も薄れる。再侵攻が遅くなればなるほど、ゼスペリアも自力再建に乗り出すだろう。そうなれば合併軍に取り込むことも、アルメロイが裏から牛耳ることも難しくなる。
多少の不安を覚えた宰相はガルディーンに問うた。
「かの国はまた我らに牙を剥くのでしょうか……?」
「愚問だな。耄碌し始めた帝王ギュスターヴはともかく、血の気に飢えた四皇子は格好の餌を前にして座してなどいられん。獣共は必ずまたゼスペリアの領土を狙う。俺の掌の上とも知らずにな」
ガルディーンの言葉には絶対の自信と策謀家としての愉悦が混じっていた。
主は現実を予想通りにする不思議な力を持っている。それを知るノーマンは、次の瞬間に再び実感することとなった。
「失礼します閣下……!」
執務室のドアを開けて兵士が駆け込んでくる。振り向いたノーマンは、肩で息をする兵士を睨みつけた。
「誰が無断で入れと言った。今は取り込み中で――」
「も、申し訳ございません。ですがたった今、ピレトー山脈側の砦から報告がありまして。ライゼルス帝国が……!」
緊張で声が詰まったような兵士が羊皮紙の切れ端を持ってくる。
受け取ったノーマンは目を剥いた。紙を持った手が震え始める。
宰相はガルディーンへ振り向き、血の気の引いた顔で告げた。
「ガルディーン様……聖ライゼルス帝国の再侵攻が始まりました」
確かにガルディーンの予測通り、ライゼルスは動き出した。予測よりだいぶ早い動きだが、あくまで想定の範囲内だ。
ある一点を除いて。
「そうか。観測はオアズス街道だな?」
「はい……加えて、他に五つの街道を、ライゼルス軍が北上しております」
無表情だったガルディーンの眉がピクリと動く。
「我が国へ繋がる六街道全てに大軍の遠征が確認されました。総数はおよそ十万以上。て、帝国は、我らに総攻撃を仕掛けてきております……!」
ノーマンの声は知らず震えていた。街道全てを使った行軍が意味するのは、ライゼルスの全兵力投入に他ならない。
およそ二十数年ぶりの全面戦争が起ころうとしているのだ。
しかし、この予想だにしなかった動きで計画は大幅に狂う。ライゼルスの圧倒的な武力には連合国も全州を総動員して対応しなければいけないだろう。そうなれば弱体化しているゼスペリアに兵員を送ることも、軍備を支援する余裕もなくなってしまう。態勢の整っていないゼスペリアは無残に突破され、州の一つが陥落する恐れがあった。
それでもガルディーンは「ほう」と笑うだけだ。ノーマンの推測など瞬時に把握しているだろうが、慌てた様子は欠片もない。
「やるじゃねぇか帝国の糞野郎共。少しは面白くなりそうだ」
ガルディーンは立ち上がると、マントを翻し歩き始める。
******
雲一つない晴天の空に染みがあった。それは浮遊する黒の塊だ。
空中を揺れ動く黒は、周囲に漂う小さな塵を巻き込みながら次第に大きくなっていく。塊は人型となり、やがて輪郭がはっきりとしてくる。
「ふいー。疲れた。やっぱり自分で動くべきじゃないな」
麻布のローブを纏った男――ラウアーロは、空中を漂いながらやれやれと首を振った。
「しかしあの剣術、どこかで見たと思ったらライオットのものだったか……まずいなぁ。どこで遭遇したのか知らないけど、普通に計画バレバレじゃん。アルメロイの懐柔策も頓挫だ」
全ての事情を知っているラウアーロは、投げやりに嘆息した。
ガルディーンの計画では、ジルナがアルメロイの推薦する婿ポメロを選択したとしても、なし崩し的に実権を奪われる手筈となっている。
だがアルメロイとガルディーンが共謀していることが判明したとあれば、どちらの婿も取り入れないだろう。たとえライゼルスが再侵攻しても、自力で退ける方法を模索するに違いない。
それが予定通り、ゼスペリアだけを狙った侵略であれば、だが。
「ま、いいでしょう。ガルディーンにはお膳立てということで、この全面戦争をうまく使ってもらおうかな。失敗してダイアロンが滅んでも別に構わないし。そしたら次は帝王ギュスターヴにでも取り入ろうかなぁ」
子供が浮かべるような悪戯な笑みを浮かべてラウアーロは嗤う。
それから額に手をかざして遠くを眺めた。
「それにしても壮観壮観。十万、いや十五万の派兵か」
空高く浮かんでいるラウアーロには山の麓が見えている。
山脈の間を通るように敷かれた六つの街道を、黒い甲冑を纏った兵士達が密集してぞろぞろと動いていた。それはまるで六つの巨大な虫が蠢いているような異様な光景だ。普通の人間が眺めれば怖気が走っただろう。
ラウアーロは、ライゼルスの行軍を眺めながら興奮したように肩を揺らした。
「いいねぇ、いい。戦争はいいよ。たくさんの人間が死ぬ。絶望と悲しみが蔓延する。絶対的な死から目を逸らして希望に縋ろうとする。ふふ、楽しみにしておくんだね人間共。直に飴をやるよ。再生という名のね」
嗤うラウアーロは、再び黒の粒子となって空を飛翔していった。
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