⑧-VS 一鬼 ヘレーネ-
中州に辿り着いたユキトは、自分とアルルの手枷を切り外したあと、陸地の中央に移動して座り込んでいた。
アルルは離れた場所で休息している。疲労が蓄積したこともあるが、死の恐怖から解き放たれたことで気が抜けているようだった。
介抱してあげたいところだったが、今のユキトは構うことができない。体の主導権はライオットの魂に移っている。彼はユキトへ事情説明を求めていた。
ライオット自身は温厚で人柄のいい人間のようだが、未練を抱える幽霊には今日会ったばかりの平民の少女を優先するほどの精神的余裕がない。
しかしアルルも「休んでいますのでお話を続けてください」と気を遣ってくれた。失踪したライオットの噂は彼女も知っている。ことの深刻さを理解しての配慮だった。
ユキトは少し心配になりつつも、アルルの好意に甘えさせてもらった。肉体の内側から、今までの経緯を語り聞かせていく。
真顔だったライオットの表情は、みるみるうちにポカンとした虚ろなものへ変貌していった。
「ルゥナール様が、死んだ……?」
愕然とした呟きだった。ここが異世界だと知らされたときの動揺をユキトは思い出す。彼の中では信じ難い思いと、現実を受け止めようとする相反した感情がせめぎ合っている。
「本当、なのか?」
『はい。俺が最初に出会ったのが彼女の魂でした……そのとき既にもう、ルゥナは生きて――』
「待ってくれ!」
いきなり制止したライオットは、地面を拳で殴りつけた。
「頼む、待ってくれ……」
地面に突き立てた拳がわなわなと震えている。ライオットは、かき乱された心を必至に抑えつけていた。
「……事実、なのか」
衝撃に打ちのめされていた彼は、念を押すように聞いた。間違いであって欲しい、という懇願が透けて見えた。
だがユキトには事実を捻じ曲げることはできない。『そうです』と簡潔に答えるしかなかった。
「……そうか」
途端、ライオットは前髪をぐしゃりと握りしめた。
「何をやっていたんだ、僕は……あのとき、ルゥナール様から離れなければこんなことにならなかったのに……!」
青年は地面に両手をつき、爪を立てる。自己嫌悪と後悔で体が震えていた。心の底からルゥナの死を嘆き、自分の不甲斐なさを憎悪している。
ルゥナとライオットがどんな関係性だったのか、ユキトは知る由もない。だが今の彼を眺めていると、敵前逃亡の話はまったくの誤解なのだと実感できた。
死してなおもこれほどルゥナを想う人間が、彼女を置いて逃げるはずはない。
だから、彼の名誉を傷つけられたまま終わせてはいけないと、ユキトの内から衝動が起こった。
なによりルゥナは現世に留まってる。まだ間に合う。断ち切れた関係を元に戻すには今しかない。
『ライオットさん……俺達は、ルゥナを奇襲した連中の正体を探っています。そいつらの思惑を突き止めたい。ルゥナとゼスペリアに悪意を向ける奴らを、暴き出したいんです』
ライオットは反応せず、うつむいたままだ。構わずユキトは続ける。
『だから、真実を伝えてルゥナを救えるのは、ライオットさんです』
「……」
『ルゥナに会いにいきましょう。こんな形での再会なんて不本意かもしれないけど、でも、ルゥナはあなたが敵前逃亡したと思ってる。その誤解だって解かないと』
「……敵前逃亡、か」
ライオットの頬が歪に動き、口角が少しだけ上がった。
「事実として僕は、敵前逃亡したようなものだ。愛する人を置き去りにして勝手に殺され、その人の窮地を救うこともできなかった愚かで無能な男だ……そんな人間が今更会ったところでなんと釈明する? 僕は、魂となった彼女になんと言えばいい?」
彼の胸中を占める空虚が、ユキトにも痛いほど突き刺さった。
『ルゥナのこと……本当に好きなんですね』
確かルゥナからは、周囲に決められた政略婚約だと聞かされていた。
しかしライオットの愛情は深い。他人に押し付けられただけの関係ではこうはならないだろう。
そこでふとユキトは、ライオットの未練の輪郭に触れた気がした。
もしかすると彼の未練とは、ルゥナとの関係性に繋がっているのかもしれない。
しばらく沈黙していたライオットは、重苦しい息を吐いて空を見上げた。
「ああ……そうだよ。僕は彼女を心から愛してる」
気取った気配のない真っ直ぐな台詞だった。
ライオットは過去を思い出すように遠くを見つめる。
「父に婚姻を決められるそのずっと前から、ルゥナール様だけを見ていた。あのお方さえ傍にいてくれれば、僕はそれで良かったんだ」
快晴の空に男の述懐が吸い込まれていく。皮肉に思えるほど陽光が眩しく、ライオットは目を細めた。
しばらく沈黙したライオットは、絞り出すように言った。
「……導師殿。やはり僕は、ルゥナール様との別れがこんな形になるなんて、納得できない」
若干の憤りが込められていた。それは自分自身へ向けてなのか、ルゥナを殺した相手に向けてなのか、それともその両方か。
「許されたいわけじゃない。罵られ蔑まれようと、消える前にあのお方の前に立ち、一言だけでも僕の気持ちを伝えたい……笑ってくれ。こんな我が儘な僕を」
『別に変じゃない。人間そういうもんですよ』
そう言うとライオットは、金縛りから解き放たれたように軽く笑った。
「導師ユキト殿。これが偶然の邂逅とはいえ、よくぞ我が前に来ていただいた。このご恩に報いるため、僕が知りうる情報は全てお話ししよう。ゼスペリアを、そしてルゥナール様を救うため、僕も微力ながら協力したい」
ライオットは剣を拾って腰に装着すると立ち上がり、毅然と背筋を正した。生前は立派な騎士だったことをうかがわせる立ち居住まいだ。
「ひとまず詳しい事情は道すがら話していこう。まだ敵が周囲にいるかもしれない」
ライオットは警戒するように辺りを睥睨する。話が終わったと気づいたアルルも立ち上がっていた。
「それに三鬼はともかく、あの黒い靄……あんなもの、僕は見たことがない」
不気味さに眉根を寄せるライオットだが、反対にユキトはある可能性に行き当たっていた。
ダイアロン中央州でユキトを襲撃した弓兵は、黒い粒子となって消え去る異質な矢を持っていた。規模は段違いだが、フードの男が放出した黒い粒子の波濤は弓兵の矢と酷似している。
そんな超常現象を引き起こせる特殊な人間が偶然ユキトを狙うはずがない。十中八九、黒の襲撃者の仲間だ。
そして一つはっきりしたことがある。奴らの狙いはユキトのほうで、ルゥナではなかった。
だとすれば奇襲時の黒い霧とは無関係だろうか。ラウアーロというガルディーンの配下とフードの男が同一人物であれば全ての線は繋がるが、同じガルディーン配下の女盗賊は知らない様子だった。
矛盾が横たわり、そこで糸口が途切れてしまっている。釈然としない感覚を抱きながらユキトは話に合わせた。
『俺にも正体はわかりません。だけど狙いが俺である以上、必ずどこかで襲ってくるはず。早く移動したいのはそうなんですけど……馬もないしアルルも疲れてる。まさか置いてくわけには……』
「貴公の従者だ、僕も無碍にはしたくない。方法を考えよう。一番近くの街まで身を隠しながら進むか、もしくは誰かに助けを請うか」
『そうだ、ここまで明るくなったならセイラさん達とも合流を――』
言葉の途中、川辺から何かが動く音がした。
「だめ!」
アルルの叫び声が聞こえた。
ライオットが振り返ると、走り寄るアルルの姿が視界に映る。
だが合流の寸前で彼女は上体を逸らし、勢いよく地面に倒れ込んだ。
『アルル!』
「ああー! アルルちゃんに当たったじゃんかもうー!」
苛ついた声が過ぎった。
いつの間に現れたのか、びしょ濡れの女盗賊ヘレーネが川辺に立っていた。
ライオットはすぐさまアルルの元へ駆け寄った。アルルは苦悶に顔を歪めながらぎゅっと目を閉じて震えていた。額には滝のような汗が浮かんでいる。
『アルル! しっかりしろ!』
ユキトは必死になって叫ぶが内側の声が聞こえるはずもない。
ライオットは慌てることなく彼女の身体を確認し始めた。
「これか」
アルルの首筋から極小の物体を摘まみ取る。
小さな
「毒か。もし致死性の高いものだったら……」
「心配しなくても死にゃしない。って鬱陶しいなこれ」
ヘレーネは水滴をぼたぼたと垂らしながら上陸し、手で頭部の毛皮をはぎ取った。女の顔が露わになる。
不快そうに眉根を寄せる顔は意外に美形だったが、酷い火傷の跡がそれを台無しにしていた。
「前のように動きを鈍らせる毒よ。でも量は増やしてるからちょーっと息は苦しいだろうね。失禁しちゃうかもしれない。あ、恥ずかしがるアルルちゃんも最高」
わけのわからない妄想を滾らせてヘレーネがぐふぐふと笑う。
ライオットはアルルを静かに横たわらせると剣を抜いて構えた。
「彼女の体を治せ。今すぐに」
ライオットの全身に覇気が漲る。慌てたのはユキトだった。
『待ってくださいライオットさん! 憑依したままだ! このままだとあなたが戦うことに……!』
「問題ない。任せろ」
小さい呟きにユキトは驚く。一方でヘレーネは肩を竦めて答えた。
「安静にしてりゃ戻るんだけどね。でもこんな場所に寝させるなんて可哀想じゃない。早くアジトに戻ろうねぇアルルちゃん!」
ヘレーネが腰の後ろから何かを取り出した。細長い筒だ。ヘレーネはその筒を口元に持って息を吹き込む。
鏃を飛ばすための吹き筒だ。
小さな鏃はどこを飛来しているか視認できない。
あわや着弾という瞬間、ライオットは首を傾けた。
それ以上の変化は起こらない。
「はい……?」
予想外な結果にヘレーネは驚くも、続けて吹き矢を放つ。
ライオットはまた身体を少し傾けた。やはり矢が刺さった感触はない。
つまり、ライオットは見えない矢を全て避けていた。
「なんで避けるんだよ……!」
「一度は貴様と戦っているからな。到達までの早さは身をもって体感している。撃つ角度がわかれば避けるのは造作も無い」
ライオットは三鬼と呼ばれる兵士と死ぬ間際まで戦っている。確かにヘレーネの攻撃手段も知っていて当然だった。
しかし把握しているからといって容易く回避できるとは限らない。
ライオットの実力が並外れているからこそ可能となる芸当だ。
「わけわかんないこと言ってんじゃねぇよ!」
苛立ち混じりにヘレーネが吹き矢を放つ。
ライオットは巧みな体捌きで回避しつつ剣の切っ先を女に向け、反対の手は顔のあたりに持ち上げた。
まるでフェンシングの構えのようだ。
ライオットが地を蹴る。ヘレーネへ肉薄し刺突を放った。
ヘレーネは横っ飛びで回避しつつ吹き筒を向けるが、女が息を吹き込む前にライオットの剣が追撃する。
「ぐっ……!」
堪らずヘレーネは地面に転がって回避する。そこから手頃な石を掴むと彼めがけて石つぶてを投げ放った。
既に追撃に入っていたライオットは回避が間に合わない。微かでも攻撃の手が止まれば即座にヘレーネの毒針に襲われる。
だがその直後、ライオットの目の前にあった石全てが粉々に粉砕された。
鋭い刺突が大小全ての石を貫き、衝撃の余波で粉々にしたのだ。
目を剥くヘレーネめがけてライオットは刺突を放つ。ほぼ同時に女は後方に飛び退る。
両者の距離が開き戦いの流れが止まった。
ライオットは剣を構え直すが、ヘレーネは肩を押さえて片膝をついていた。
押さえた手からは血が滲み出ている。
「ふざけんなよてめぇ……!」
歯を剥いたヘレーネは血のついた手を振り、そのまま腰に装着していた短剣を取り出した。
「お前は殺す。生け捕りなんて止めだ。男は皆殺し!」
ヘレーネは疾走し短剣を振り放った。
だが勢いとは裏腹に、ライオットは剣の腹で易々と受け止める。
「道中のお前たちの会話は役に立った。確かその短剣にも毒が塗られているんだったな」
ヘレーネが微かに眉を上げ、ギリと奥歯を噛み鳴らす。
「種がわかっているなら対処もできる。そして貴様の腕と僕の剣術では、僕のほうが上だ」
「っせぇぞ!」
ヘレーネは力任せに剣を振り回すが、その斬撃の隙間を縫うようにしてライオットが刺突を放った。切っ先は女の手の甲を穿ち、血みどろになった掌から短剣がこぼれ落ちる。
利き腕を押さえて後ずさるヘレーネに向けて、ライオットは切っ先を突きつけた。
「貴様に勝ち目はない。降参すれば命だけは救おう」
「ぐっ……これだから、男って生き物は……!」
窮地に立たされて尚、ヘレーネの敵愾心は更に増した。
「すぐ見下した物言いをしやがる! 自分が絶対だと調子に乗る……!」
そのときだった。
ライオットは目眩を引き起こしたようにぐらりと体を揺らした。
「そんなんだから気づかねぇのさ!」
喜悦を浮かべたヘレーネが急接近した。ライオットは迎撃ではなく後方に飛び退って回避しようとする。
だがなぜかバランスを崩してしまい、思ったほど距離が取れない。
女盗賊の蹴りが容赦なくライオットの鳩尾に入る。入れ物であるユキトの肉体は後方に弾き飛ばされた。
砂利だらけの地面を転がったライオットだが、蹴り自体の威力はそれほどではない。切れた唇を拭いながらすぐに立ち上がる。
だが、本人としてはまっすぐ立ったつもりでも、体が斜めに傾いて足下がおぼつかなくなっていた。
まるで船酔いしたかのように方向感覚が狂っている。
『ライオットさん!』
「毒、が……!」
鼻面に皺を寄せたライオットが呻く。内側に押し込められたユキトには把握できないが、おそらく酷い症状が押し寄せてきているはずだ。
しかしユキトは訝しむ。毒針は全て回避していた。いつ毒を受けたのか、と考えると、ヘレーネが哄笑した。
「ひゃははは! ほんと間抜けだよな男って生き物はさ。あたしが暗殺専門ってわかっていながら易々と懐に入ってくる。同情するよその馬鹿さには」
肩を揺らすヘレーネは無事なほうの左手で短剣を握ると、じりじりとライオットに接近した。
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