『変装した狼男は少女歌劇団と交叉する』
勢いよく黒幕を剥ぎ取ると、水槽の中の美女は消えていた。
「これにて当一座の公演は終了となります。どうか、みなの者に今一度盛大な拍手をお願いします」
初日の公演は、客足こそ伸び悩んだが、反響は大きかった。舞台は庭園を望む大広間に設置され、その半分から六分が客席用に割り当てられていた。およそ曲芸団の
一方で初日ならではの不具合も目立った。
「親父さんにしては珍しい落ち度だ」
座員たちは口々に言った。普段の大天幕と違う
予定では昨夜中に舞台設置に取り掛かるはずだった。それが瑞穂の緊急入院で翌朝に変更された。マチネの開演時間も迫り、慌ただしく、見切り発車に等しかったことは否めない。けれども、急場を乗り切るに充分な力量を持った深川が、天窓を見逃すような下手を打つのは初めてだった。
「手一杯だったんだよ」
年長の道具方が弁護した。峠道に始まって旅館到着後も続いた混乱で、落ち着く間もなかった。深川は早朝にも医院を訪れたという。気を揉み、心も
「そんな暇があるなら手伝ってくれないかしら」
章一郎と福助は旅館の玄関先で、女性陣に呼び止められた。深川曲芸団の文字が書かれた
「遊びに行くんじゃないぞ。おいらたちは夕飯のおかずを獲りに行くのさ」
半分冗談で、半分本気だった。福助は釣り竿を誇らしげに見せた。章一郎は竿とびく
「僕まで一緒に宣伝隊に居たら、ダメでしょ」
章一郎はそう言って、はたと気付いた。普段、狼男は巡業先でやたらに姿を見せない。最後に登場して客を驚かす役回りだ。しかし、今回は身を隠す必要がなかった。出演する予定がないのだ。伴奏なしで歌うと申し出たが、ぶっつけ本番は上手くいかない恐れが高く、演出的にも物足りない。太夫元は、演し物として成立しないという判断を下した。
厳しい裁定にも思えたが、それは憔悴した章一郎を慮ってのことだったかも知れない。また女性陣が街頭宣伝に誘ったのも、舞台の仕事を失った狼男への気遣いだったかも知れない。
「なあ章一郎、ちょっとだけ街を覗いてみないか」
福助は乗り気で、章一郎も温泉街の空気に軽く触れてみたかった。先頭を歩く珠代が、音程を確かめるようにアコーディオンを弾く。その姿はぎこちなくも見える。同じ楽団員の坂田が舞台で使っているものだ。
違和感の正体が判った。街頭宣伝のアコーディオン担当は瑞穂だった。重たそうに抱えて、宣伝隊に参加する姿を章一郎は何度か見た覚えがあった。薄化粧で、舞台衣装よりも派手な色の、子供っぽい服を着ていた。何事もなければ、小さな背中が目の前にあったろう…病床の彼女を想うとまた胸が痛む。
古めかしい旅館が立ち並ぶ十字路に差し掛かると、人通りが増えてきた。それでも章一郎は怯まなかった。先日の繁華街探索で自信を得たわけではなく、変装の具合が抜群だったのだ。つばの広い麦わら帽に黒眼鏡、口元は手拭いで覆う。
「それにゴム長を履けば完全無欠じゃ」
彩雲閣の玄関で盆栽の手入れをしていた爺やが、お墨付きをくれた。典型的な釣り人の格好で、黒眼鏡を掛けるのも不自然ではないという。この姿で釣り竿を持ち、びく籠を下げれば疑う者はいない。好奇と恐怖の目を跳ね除ける
「きっと映画館もあるわよ」
耶絵子がいたずらっぽく笑った。豪奢なホテルの両隣に土産物屋が並び、その奥に演芸場と遊技施設があった。演芸場には少女歌劇団と書かれた横断幕が掲げられ、入り口付近では若い娘たちがチラシを配っているようだった。都会の賑わいとは異なる風景で、ここが日常生活と掛け離れた歓楽街であることは、一目瞭然だった。
長老の
ひと昔前よりも背の高い建物が増えて、迷いやすくなっているに違いない。章一郎は、どの辺りに花街があるのだろうかと思い巡らした。抜け駆けする気は毛頭なく、相棒が重篤な時に遊ぶつもりもなかったが、艶やかな街の
女性陣が呼び込み宣伝を始めると、福助は釣り竿を振り回して催促した。色気や食い気よりも、今は魚釣りが優っているようだ。来た道を引き返すのは味気ない。海沿いを進もうと狼男が提案するや否や、一寸法師はあらぬ方向に駆け出した。
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