『変装した狼男は少女歌劇団と交叉する』

 勢いよく黒幕を剥ぎ取ると、水槽の中の美女は消えていた。


「これにて当一座の公演は終了となります。どうか、みなの者に今一度盛大な拍手をお願いします」


 初日の公演は、客足こそ伸び悩んだが、反響は大きかった。舞台は庭園を望む大広間に設置され、その半分から六分が客席用に割り当てられていた。およそ曲芸団の大天幕おおテントと同じ収容人数だった。ここで昼と夜、二回の公演が催される。座員たちは昼の部をマチネ、夜の部をソワレと呼ぶ。


 彩雲閣さいうんかくの大広間は団体客の晩餐や宴会用で、入場した客の多くは変わった宴会芸程度と思っていたようだ。その為か、完璧な軽業や大仕掛けの演目に度肝を抜かれ、惜しみない喝采を送った。


 一方で初日ならではの不具合も目立った。し物に使う道具を運ぶ通路がなく、いちいち隣の部屋から持ち込むので段取りが遅れ、舞台の進行は再三滞った。司会役の耶絵やえこ子が愛嬌と少々の色気を振りまいて何度もその場を凌いだが、霊交術の不手際は隠しようがなかった。縁側のガラス戸は目張りをしたものの、天井近くの小窓から差し込む日光が強く、真っ暗闇を作り出すのに失敗したのだ。

 

「親父さんにしては珍しい落ち度だ」


 座員たちは口々に言った。普段の大天幕と違う急拵きゅうごしらえの舞台とあって調整する部分は多いが、初の試みではなかった。これまでにあった同様の興行では、太夫元は工夫して、微に入り細に入り道具方に指示を出し、総仕上げの点検も入念に行った。


 予定では昨夜中に舞台設置に取り掛かるはずだった。それが瑞穂の緊急入院で翌朝に変更された。マチネの開演時間も迫り、慌ただしく、見切り発車に等しかったことは否めない。けれども、急場を乗り切るに充分な力量を持った深川が、天窓を見逃すような下手を打つのは初めてだった。


「手一杯だったんだよ」


 年長の道具方が弁護した。峠道に始まって旅館到着後も続いた混乱で、落ち着く間もなかった。深川は早朝にも医院を訪れたという。気を揉み、心もそぞろであったに違い。演し物の最中、隣室で放心する太夫元の姿を何人もが見掛けた。いつもとは違って、ひどく思い詰めた様子に見えたと心配する座員もいた。



「そんな暇があるなら手伝ってくれないかしら」


 章一郎と福助は旅館の玄関先で、女性陣に呼び止められた。深川曲芸団の文字が書かれたのぼりを持つ春子とタスキを掛けた耶絵子。そして小人楽団の紅一点、珠代たまよだ。これから温泉街の目抜き通りに行って、興行の宣伝をするという。


「遊びに行くんじゃないぞ。おいらたちは夕飯のおかずを獲りに行くのさ」


 半分冗談で、半分本気だった。福助は釣り竿を誇らしげに見せた。章一郎は竿とびくかごを持っている。丘を下ったところに格好の磯場があり、旅館では宿泊客に釣り道具一式を貸し出していた。仲居が言うには穴場中の穴場で、潮の加減によっては入れ食いで困るほどらしい。 


「僕まで一緒に宣伝隊に居たら、ダメでしょ」


 章一郎はそう言って、はたと気付いた。普段、狼男は巡業先でやたらに姿を見せない。最後に登場して客を驚かす役回りだ。しかし、今回は身を隠す必要がなかった。出演する予定がないのだ。伴奏なしで歌うと申し出たが、ぶっつけ本番は上手くいかない恐れが高く、演出的にも物足りない。太夫元は、演し物として成立しないという判断を下した。


 厳しい裁定にも思えたが、それは憔悴した章一郎を慮ってのことだったかも知れない。また女性陣が街頭宣伝に誘ったのも、舞台の仕事を失った狼男への気遣いだったかも知れない。


「なあ章一郎、ちょっとだけ街を覗いてみないか」

 

 福助は乗り気で、章一郎も温泉街の空気に軽く触れてみたかった。先頭を歩く珠代が、音程を確かめるようにアコーディオンを弾く。その姿はぎこちなくも見える。同じ楽団員の坂田が舞台で使っているものだ。


 違和感の正体が判った。街頭宣伝のアコーディオン担当は瑞穂だった。重たそうに抱えて、宣伝隊に参加する姿を章一郎は何度か見た覚えがあった。薄化粧で、舞台衣装よりも派手な色の、子供っぽい服を着ていた。何事もなければ、小さな背中が目の前にあったろう…病床の彼女を想うとまた胸が痛む。

 

 古めかしい旅館が立ち並ぶ十字路に差し掛かると、人通りが増えてきた。それでも章一郎は怯まなかった。先日の繁華街探索で自信を得たわけではなく、変装の具合が抜群だったのだ。つばの広い麦わら帽に黒眼鏡、口元は手拭いで覆う。


「それにゴム長を履けば完全無欠じゃ」


 彩雲閣の玄関で盆栽の手入れをしていた爺やが、お墨付きをくれた。典型的な釣り人の格好で、黒眼鏡を掛けるのも不自然ではないという。この姿で釣り竿を持ち、びく籠を下げれば疑う者はいない。好奇と恐怖の目を跳ね除ける甲冑かっちゅうのようだ、と章一郎は思った。  


「きっと映画館もあるわよ」


 耶絵子がいたずらっぽく笑った。豪奢なホテルの両隣に土産物屋が並び、その奥に演芸場と遊技施設があった。演芸場には少女歌劇団と書かれた横断幕が掲げられ、入り口付近では若い娘たちがチラシを配っているようだった。都会の賑わいとは異なる風景で、ここが日常生活と掛け離れた歓楽街であることは、一目瞭然だった。


 長老のたつみによると温泉街に中心らしい中心はなく、細い路地が迷路のように入り組んでいるという。しかも山あり谷ありで坂道が多く、大きな建物が邪魔で見晴らしも悪い。迷子になったら一旦目抜き通りに出るか、海岸沿いを歩いて帰ってくるよう座員に教示していた。


 ひと昔前よりも背の高い建物が増えて、迷いやすくなっているに違いない。章一郎は、どの辺りに花街があるのだろうかと思い巡らした。抜け駆けする気は毛頭なく、相棒が重篤な時に遊ぶつもりもなかったが、艶やかな街の淫靡いんびな匂いが鼻に付く。


 女性陣が呼び込み宣伝を始めると、福助は釣り竿を振り回して催促した。色気や食い気よりも、今は魚釣りが優っているようだ。来た道を引き返すのは味気ない。海沿いを進もうと狼男が提案するや否や、一寸法師はあらぬ方向に駆け出した。

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