『紫煙は立ち昇り、消えることなく渦を巻いた』

「じゃあ、作造を引っ張ってくのは、どういう了見なんだ」


「作造だけはサーカスじゃなくて、武術家みたいな、見世物のような、そんなもんらしい」


 食い下がる柏原に対し、堂上が施した説明は荒唐無稽だった。どこまで理解しているのか怪しい部分も多かったが、怪力の巨人はレスリングの選手に取立てられるという。手品師は、西洋角力せいようずもうともラスリングとも言い換えた。選手と言っても五輪競技会の種目とは違い、観客を沸かせる興行で、派手に暴れ回る。巴里パリなど西洋で人気を博しているが、東洋人の選手はまだ居ない。そこで作造に白羽の矢が立った。副島は、高い値で売れると自信満々だという。


 作造は自分の名を連呼されて覚醒したようだが、章一郎の真後ろで縛られていて、様子は窺えなかった。回廊に立つ堂上からも顔は見えていないはずだ。手品師は慣れない手付きで葉巻をくゆらせる。普段にも増して尊大で、饒舌だった。お喋りが過ぎて、作造以外の者がサーカス団に売り飛ばされることも判明した。人身売買と直結する犯罪集団紛いの興行社が異国にはあるのか…章一郎にとっては想像のほかだ。


「異国とは恐れ入ったが、堂上よ、お前さんは何時いつからそんな大悪党になったんじゃ」


 黙って話しを聞いていたたつみが呼び掛けた。珍しく低い声で、脅すような口調で語り始めた。


「誘拐に監禁。おまけに人身取引と来た。それも異国にな。こそ泥とは天と地ほど違う重大犯罪で、捕まれば死罪は決まったようなもんじゃ。お前さん、逃げ切れるとでも思っとるのか」


 明らかな脅迫だった。正当な脅しだ。巽は約一年前に堂上が耶絵やえこ子に求婚した話しから切り出した。初耳である。章一郎はそんな話しがあったことを誰からも聞いていない。求婚した際、堂上は自分のことを大きな蔵元くらもとの息子だと自慢した。富士山麓の開けた町の古い蔵元だと得意気に語った。


「耶絵子は信じなかった。口から出任せの奇術師だ。が、暫くして同じ県下で巡業した時、耶絵子は電話番号簿*を見る機会があったそうじゃ。嘘だとは思ったが、念の為に調べると、堂上という屋号の付いた造り酒屋を見付けた。住所はお前さんが言った通りの町じゃった」


 手品師は顔を硬らせただろうか。窓の日差しが先程よりも濃い影を作って良く見えない。それでも、口答えせずに黙って話しを聞いているのは判った。この電話番号簿の話しは耶絵子本人のほか仲良しの瑞穂みずほ、そして自分と太夫元たゆうもとの三人しか知らないはずだという。


「あの子は意外と執念深いぞ。生家はもう割り出されているんじゃ。お前さんは手配されて、直ぐにも捕まって、それで死罪になる」 


 死罪という言葉は恐ろしい響きを伴っていた。章一郎は巽の話しを聞き、他人事ながら戦慄した。人身売買とはくも大きな犯罪なのか。小物の手品師が戯れに手を染める類いの悪行ではない。堂上が二本目か三本目の葉巻に火を点けた時、その手が震えているように見えた。

 

「わしはもう老い先短い身じゃ。この若い連中、柏原も含めて、逃げさせてはくれんか。考えてもみろ。こんなことでお前さんが手にする金は、賞金首になって追われる今後の人生と見合うもんなのか」


 堂上はそれでも何ら口答えしなかった。普段なら嫌味を言い捲り、誰彼構わず毒づく傲慢な男が沈黙した。そして、点したばかりの葉巻を捨て、足で踏み付けると、回廊の端の出口から去って行った。日頃は安い煙草を半分に切り、鼈甲柄の吸口に挿して吸う吝な男だ。明らかに動揺していた。


別当べっとう君とたぶん同じで、この老いた身体じゃ、長い船旅に耐えられそうもない。遺言と言ったら大袈裟じゃが、章一郎よ、恨みっこなしで聞いとくれ。お前さんの父様とっさまのことじゃ」


 捨てられた葉巻の火が消えない内に、巽は予告もなく、語り出した。


「お前さんの苗字は深川という。深川章一郎。太夫元が実の父親じゃ」


 脳天を金槌で一撃されたような強い衝撃が走った。眩暈めまいがする。頭がくらくらして考えが追い付かない。言葉も出ない。


 眼光鋭く、真剣で、巽は覚悟を決めたような表情をしていた。



<注釈>

*電話番号簿=電電公社発行の電話帳に相当する大判の冊子

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