『天幕の底で蛭娘の四肢が蠢く』

 天幕の賑わいをよそに、太夫元の深川は椅子に深くもたれ掛かり、パイプをくゆらせていた。先刻、この小屋を訪れていた町長は、曲芸団に異形の者が在籍していると知るや絶句し、あからさまに深川を蔑視した。そして、真偽をあらためるべく大天幕に赴き、帰ってくることはなかった。

 

 窓から見える景色は、真冬の田舎町の夜そのままに寂寞せきばくとしていた。扉の裂け目から冷たい風が忍び込んで来る。深川はジャンパーの襟を立てて寒さに堪えた。物悲しい夜空と同じく、彼もまた淋しげだった。


 深川が曲芸団の経営に着手したのは二十年ほど前のことであった。彼はかつて大サーカス団で二丁撞木にちょうしゅもく*の名手として活躍し、人気を博していた。しかし、たった一度の失敗が無残に彼の腕を砕き、人生を狂わせた。栄光の道を歩んでいた者が初めて味わった挫折感、崩れた自尊心。それらは腕が完治しても深川を再び檜舞台に登らせることを阻んだ。サーカス団の花形から道化師に転落し、最後には道具方となった。

 

 一方、彼が所属していた「新帝都チャリネ*」も事業の無謀な拡張が原因で破綻し、四つの小さな曲芸団に分裂した。深川は自転車部の座員らを誘って自らの一座を旗揚げした。創設当時の深川曲芸団はほかのサーカス団と比べても決して見劣りしない規模を誇り、サイカホールなど大仕掛けの自転車芸を披露していた。


 しかし、時の潮流にうまく乗れず、相次いで座員が離れて規模は小さくなり、ついには自転車を操る芸人が一人しか居なくなってしまった。以後、深川は志を変えて自らの一座を地味な奇術と畸型を売り物にする行儀のよろしくない曲芸団に変貌させて行った。

 

 何が彼をそうさせたのか…深川は天幕から聴こえてくる笑い声に耳を傾け、椅子の上で微睡まどろむ。



 舞台では百貫女ひゃっかんおんなと骸骨男による夫婦喜劇が会場を沸かしていた。百貫女は傲慢な鬼女房を演じ、骸骨男は気弱で無抵抗の亭主役に徹する。客の笑いを誘う奇妙な対比。浄瑠璃人形のようなくびれた手首足首を恥じらいもなく晒してかしましく笑う百貫女は、世にも醜悪な肥満体であったが、それは体質と生活習慣によるもので、異形の者とは一線を画す。


 他方で夫の骸骨男は明らかな畸型だった。飢えた孤児のように不憫で酷たらしい痩躯そうくは、骨と皮ばかりと形容するも虚しく、正に着色された骸骨、泥を浴びた骸骨だった。

 

 枯れ木と怠惰な牛が演じる寸劇は、頓智とんちを効かせたジョークもなく、ただ不釣り合いな互いの体型を茶化すことに終始し、爆笑のうちに幕となった。畸型と接した時に人々が抱く恐怖感、あるいは得体の知れぬ罪悪感は笑いに包まれて、少しばかり緩和されたに違いない。舞台は続いて、六番目の演し物に進んだ。


「さて、次は可憐な少女による曲芸をお楽しみ下さい。いまだ幼さも残る齢十五のこの少女は生来せいらい骨がなく、その身体はヘビやミミズの如く自由自在に曲がり、頭の鉢が通ればどんな穴でも潜り抜け、足の裏に額を付けて踊る、人呼んで蛭娘ひるむすめ。美しく哀しい妙技をとくとご覧下さいまし」


 底が抜かれた細いドラム缶のような筒が舞台に置かれると、袖から現れた蛭娘は筒に肘掛けて微笑んでみせた。蛭娘は純白の体操着を着ていて、売り文句の身体的欠陥を外見から窺い知ることは出来ない。実際、この少女は畸型ではなく、柔軟性に優れた身体を持っているに過ぎなかった。


 だが、深川曲芸団において異類異形は美徳であり、才能であった。その為、少女は畸型と紹介されることを厭わず、逆に、少しばかりの誇りを持っていた。


 まず、蛭娘こと春子は手始めとして股を大きく広げ、身体のしなやかさを示した。両脚は滑らかに開かれ、骨がないかのように見えた。蛭娘は脚を伸ばしたまま尻を床に落とすと、その姿勢から次に胸と頭を前方に倒し、両手を左右に大きく広げた。暗がりの中で白い浜のように輝く舞台、宵の月灯りにも似た照明の下、一匹のヒトデが夢を見ている。


「男性の胴回り程しかないこの鉄の筒を、今から蛭娘が潜り抜けてご覧にいれます。見事成功いたしましたら、盛大な拍手を」


 舞台袖で耶絵子が大仰に解説を加えた。


 後見役が筒を立て、その傍らに高さ半分ほどの台を用意した。ヒトデは起立して台に登り、筒の上縁に腰掛ける。単に頭から入るのではなく、尻から先に筒に入り、両脚と胸を密着させるかたちで潜り込むのであった。


 蛭娘の身体は吸い込まれるようにして筒の中ほどにストンと落ちた。その瞬間を見計らって後見役が筒を抱え上げ、中身を客に見せる。少女は暗い筒の奥で塊となっていた。


 次いで後見役は筒を床に横たえ、揺れぬよう支える。蛭娘は土の中で蠢くミミズのように柔軟な身体を駆使し、尻を先して筒から抜け出た。少女の白肌は摩擦で桃色を帯び、痛いしくも見えた。擦れた肌の傷みにも負けず、蛭娘は誇らしげな面持ちで客席を仰ぎ、喝采を頂戴した。


 蛭娘は柳の枝のような嫋々じょうじょうたる身体を操り、曲芸を続けた。上半身を後ろに反らし、両手で両足首を握って楕円をつくり、そのままの姿勢で一回転。腹の上に置かれたコップから水が溢れぬよう股の間から慎重に顔を出して飲み干す。


 最後の芸も筒抜けに劣らず、圧巻だった。二人の侏儒しゅじゅが銀色の球体を持って登場。地球儀の二倍ほどの大きさで、くす玉のように二つ割れた。その中に蛭娘が入るという。多くの客が無理な芸当といぶかるのも不思議ではなかった。

 

 お椀のような半球に尻を落とし、膝を折る。上半身の大部分は見えているが、少し時間を掛けて徐々に沈んでゆく。蛭娘の顔は苦痛で歪んでいるようだった。それが演技だとは気付かれない。客たちは心配そうな表情で、自らを収納する少女を見守る。


 顔をうずめたのを合図に、侏儒が蓋をし、球体は完成した。前の演目のペテン師とは正反対の本物の曲芸だ。一拍遅れで歓声が上がると、侏儒の一人が球体に乗り、足で転がして舞台を巡り、舞台裏へと去って行った。


 完成度の高い驚愕の芸でありながら、か弱い少女による痛々しい演目でもあった。およそ見物客は、洗練された優雅な芸よりも、陰惨な匂いが漂う背徳で猟奇的な芸を好み、惹き込まれる。


 公演も終盤に近付き、もはや観客は畸型たちに驚くことも目を背けることもなく、素直に迎え入れていた。蛭娘による秀逸な芸の後、舞台上では大掛かりな奇術の準備が始まった。



<注釈>

*二丁撞木=空中ブランコ。撞木はバーを指す。

*チャリネ=明治十四年に来日したイタリア最大のサーカス団『キャリニー(Chiarini)』に由来し、サーカス全般を意味することもあった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る