『荒縄で縛られた美女を毒ヘビが睨む』

 黒い布に覆われた台の上に、大量の水を湛えた巨大な水槽が据えられる。まるで棺のようだ。奥の垂れ幕を背景にした水槽は、鈍い光を発する鏡となって、幾人もの客の顔を水の中に描き出した。今から何が繰り広げられるのか、好奇心の旺盛な客たちは固唾かたずを呑んで棺桶を見詰める。 


 この棺の底に沈む者は、進行役を務める耶絵子だった。彼女に代わって、燕尾服の奇術師・堂上どうがみが口上を垂れる。


「この水槽の中に、頑丈な縄で手足を縛ったまま投げ入れます。むろん、縄はきつく縛られ、たやすく解けません。さて、美女は哀れにも水中で格闘し、自力で縄を解かなくてはならないのですが、彼女に与えられた時間は僅か二分。二分が経ちますと容赦なく、水槽にヘビが放たれます。猛毒を持った凶暴なヘビが噛み付くが早いか、それとも縄を解いて脱出するが早いか。いずれにしても危機一髪。決死の大奇術でございます」


 前口上よろしく、薄手の淫らな衣装をまとった耶絵子やえこが登場。先ほどまでの赤いドレスを脱ぎ捨てた半裸同然の美女に客の男どもは興奮を隠せなかった。美女の傍らには、とぐろを巻く毒ヘビの収まるかご。ヘビは鎌首を上げて不気味に揺れ、獰猛に威嚇する。

 

 荒縄で耶絵子を縛り上げると、堂上は最前列の客を招き、きつく縛られていることを確認させた。


「この通り、縄は固く固く結われております。奇跡の脱出を遂げるか、あるいは無惨、毒ヘビの餌食となるか」


 荒縄で窮屈に縛り上げられた美女を抱え上げ、静かに水中に落とすと、堂上は漆黒の大きな幕で覆った。


「では、ただ今より、ちょうど二分後にこの毒ヘビを投じます」


 まだら模様の気色が悪い身体をくねらせて籠の中で出番を待つヘビは、魔物のよう。堂上は水槽横で時間を読み上げる。黒幕で奥で行われているであろう美女との格闘を想像しているのか、観客の緊張は冷酷に時が刻まれるに従って高まった。水槽が波打つ音はまったく聞こえず、しんとしている。美女の命運やいかに…客たちは刮目し、しだいに不安を募らせていった。


「残り時間、一分。哀れにして美女は今宵、ついに毒牙の餌食となってしまうのか」


 堂上は煽り文句を繰り返しながら、経過時間を告げる。舞台袖で小人楽団の演奏が始まり、見守る客の鼓動を高鳴らせてこの一座が誇る大奇術を盛り上げた。残り時間、三十秒。堂上はヘビの籠を担ぎ上げ、水槽に放つ準備を整えた。まだらの毒ヘビは三角形の奇妙な頭部を震わせ、鋭い牙を見せた。


「二分が経ちました。毒ヘビを水槽に入れましょう」


 堂上は冷然と言い放ち、棒を用いて籠の中からヘビを掻き出すと、黒幕の端をたくし上げ、水槽に落とした。水に驚いたヘビが狂ったように泳ぎ回る音、水槽のガラスに激しくぶつかる音が、緊迫する天幕に響く。客席のいたる所から、押しつぶした悲鳴が湧き出る。美女の生死やいかに…空になった籠は粗雑に放り棄てられ、舞台後方に転がる。運命の瞬間を前に、最大級の緊張が走る。堂上は水槽を覆う黒幕を一気呵成に剥がした。


 そこには、水中を縦横に泳ぐ一匹のヘビが、湖面に揺らぐ幻影のように映し出されるばかりだった。耶絵子の姿はどこにもない。見事、水没した美女は脱出に成功したのだ。観客はそれまでの不安感と悪寒を快感に昇華させて狂喜乱舞し、誰もいない水槽に絶賛の拍手を捧げた。


 止まない歓声を受けて深々と礼をする堂上の後ろから、すぶ濡れの耶絵子が大勢の座員を引き連れて登壇した。畸型たちにに囲まれた耶絵子と堂上は、手を握り合うと客の声援に応えてその手を挙げ、終幕を華々しく飾る。

 

 番組表に掲載された演目は、これで全て終わった。余韻を残しつつ出演者が去り、客が帰り支度を始めた矢先、舞台奥の幕が突如開いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る