『門出に非ず、其れは虎口からの脱出だった』
目的地を決める途上の作戦会議は長引かず、混乱もなかった。長老の決断に異論を挟む者は居ない。選択肢が限られていたという事情もある。
「温泉街を目指すのじゃ。あそこなら、まあ、何とかなるじゃろ」
場当たり的な発案とは言えない。温泉街の老舗旅館、
その決定は章一郎の希望にも沿っていた。監禁状態から抜け出した今、安否が気遣われるのが瑞穂だ。春子によれば、転院先は人も獣も寄せ付けない隔離施設ではないと言う。女将からの又聞きだが、容体が極端に悪化しなけば、いずれ面会も可能になるらしい。温泉に浸かるよりも前に、会いに行こう。章一郎には、元気な姿で再会を果たせるとの確信があった。
面倒臭いことを言い出したのは、
「あの運転手は所帯持ちで、駅向こうに住んでます。海から這い上がって帰るところは、そこです」
昨日の一件で彼は何もかも失った。
また、未明から朝にかけて極夜が拳銃を構え、不審者の出入りを監視していたことも判明した。誰も彼も見張り役も、全員が熟睡してしまい、危機感を募らせたのだと語る。これには楽団のリーダーも返答に窮し、面目ない、と頭を下げた。
「ひとつ先の
双子のもう一人は理智的だが、少し融通の利かない子だ。再び
章一郎は考えを改めた。極夜だけではなく、双子共々、長年の呪縛から漸く解き放たれたのかも知れない。二人にとって、あの洋館から離れることは単なる門出でも出奔でもなく、虎口からの脱出だ。
歌劇団のほかの娘二人とは、最寄駅の近くで別れた。一人は秩父、一人は房総の親元に戻るという。
「これで歌劇団は解散。支配人から連絡が来ることはもうないし、わたしたちが会うこともないかな。お達者でね」
慎ましい解散式だった。
「わたしたちも、何だっけ、そう深川曲芸団に入れてくれないかな」
無邪気に笑った。勿論、章一郎は諸手を挙げて歓迎したが、意外にも柏原が待ったを掛けた。ドサ廻りの曲芸団に収まる格ではないと言う。地球上にたった二人しか居ないカストラートなんだ、と同じ台詞を繰り返す。確かに、特殊な事情を差し引いても、美声は天下一品で比類がない。粒揃いの歌劇団でもその容姿は飛び抜け、田舎芝居は役不足だ。
章一郎も楽団リーダーの発言に深く賛同する。カストラートは
ただ、今は二人をそっとしておいて上げたい。束縛から解放されたばかりだ。曲芸団と行動を共にしながら、ゆっくりと将来を考え、自由に選べば良い。
ひとつ先の駅に至る道筋は無邪気ではなかった。海沿いを避けて進んだ
自転車を操る
「素足じゃ無理だ。ちょっと待って」
極夜は旅行鞄から真新しい靴下を取り出して、履かせた。
本当の性別を知っても、白雪姫であることに変わりない、と言い切る辺りが、実に福助らしい。
<注釈>
*薄暗い隧道=逗子〜鎌倉間にある小坪トンネル。
*きゃらこ=薄地で光沢のある印度産の平織り綿布。
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