『門出に非ず、其れは虎口からの脱出だった』

 目的地を決める途上の作戦会議は長引かず、混乱もなかった。長老の決断に異論を挟む者は居ない。選択肢が限られていたという事情もある。


「温泉街を目指すのじゃ。あそこなら、まあ、何とかなるじゃろ」


 場当たり的な発案とは言えない。温泉街の老舗旅館、彩雲閣さいうんかくには定期的に曲芸団から連絡が届いているに違いなかった。章一郎の相方である瑞穂みずほが、やや離れた場所に入院している。南に位置する高原の療養施設だ。太夫元たゆうもとが放置して音信不通になることはない。


 その決定は章一郎の希望にも沿っていた。監禁状態から抜け出した今、安否が気遣われるのが瑞穂だ。春子によれば、転院先は人も獣も寄せ付けない隔離施設ではないと言う。女将からの又聞きだが、容体が極端に悪化しなけば、いずれ面会も可能になるらしい。温泉に浸かるよりも前に、会いに行こう。章一郎には、元気な姿で再会を果たせるとの確信があった。


 面倒臭いことを言い出したのは、極夜きょくやだった。最寄駅は待ち伏せの危険があると主張する。さすがに心配のし過ぎではないか、と狼男は苦笑する。副島は噴火して波間に消え、運転手は巨人の遠投で最長の飛距離を記録したのだ。


「あの運転手は所帯持ちで、駅向こうに住んでます。海から這い上がって帰るところは、そこです」


 昨日の一件で彼は何もかも失った。自棄やけになって復讐してくるかも知れない…そう強く警戒する。柏原が「冒険小説の読み過ぎだ」と茶化しても、口を真一文字に結び、首を振る。真摯な瞳で、憂いも帯びている。


 また、未明から朝にかけて極夜が拳銃を構え、不審者の出入りを監視していたことも判明した。誰も彼も見張り役も、全員が熟睡してしまい、危機感を募らせたのだと語る。これには楽団のリーダーも返答に窮し、面目ない、と頭を下げた。


「ひとつ先の八幡様はちまんさまの駅まで、歩いて一時間半くらいでしょうか。仰言おっしゃる通り、待ち伏せの可能性は低いでしょうが、零ではありません」


 双子のもう一人は理智的だが、少し融通の利かない子だ。再び白夜びゃくやたしなめるかと思われたが、豈図あにはからんや相好を崩していた。近頃は口数が減って、見知らぬ他人と会話することなんて滅多にないのに、活発にお喋りしていて嬉しいと言う。


 章一郎は考えを改めた。極夜だけではなく、双子共々、長年の呪縛から漸く解き放たれたのかも知れない。二人にとって、あの洋館から離れることは単なる門出でも出奔でもなく、虎口からの脱出だ。


 歌劇団のほかの娘二人とは、最寄駅の近くで別れた。一人は秩父、一人は房総の親元に戻るという。たつみは汽車賃の心配をして、幾らか手渡そうとしたが、娘たちは断った。歌劇団で稼いだお金があるという。別れ際、白夜は手を握り、はっきりと言った。


「これで歌劇団は解散。支配人から連絡が来ることはもうないし、わたしたちが会うこともないかな。お達者でね」


 慎ましい解散式だった。維納ウィーン聖少女歌劇団。その名を世間が耳にすることは二度となく、半年もすれば忘れ去られてしまうだろう。花形だった双子の正体は遂に明かされず、永遠に謎のまま埋もれる。娘たちを見送る二人は、少しも淋しげではなく、寧ろ晴れ晴れとしていた。


「わたしたちも、何だっけ、そう深川曲芸団に入れてくれないかな」


 無邪気に笑った。勿論、章一郎は諸手を挙げて歓迎したが、意外にも柏原が待ったを掛けた。ドサ廻りの曲芸団に収まる格ではないと言う。地球上にたった二人しか居ないカストラートなんだ、と同じ台詞を繰り返す。確かに、特殊な事情を差し引いても、美声は天下一品で比類がない。粒揃いの歌劇団でもその容姿は飛び抜け、田舎芝居は役不足だ。


 章一郎も楽団リーダーの発言に深く賛同する。カストラートは伊太利亞イタリアに留まらず、当時の欧州を席巻し、後の国際的な銀幕スタアにも等しい人気を博したと言う。オペラ全盛期の寵児。奇蹟の歌声に王侯貴族も酔い痴れた。仄暗い天幕の底などではなく、着飾った都会人の集うまばゆい大舞台こそが相応しい。


 ただ、今は二人をそっとしておいて上げたい。束縛から解放されたばかりだ。曲芸団と行動を共にしながら、ゆっくりと将来を考え、自由に選べば良い。


 ひとつ先の駅に至る道筋は無邪気ではなかった。海沿いを避けて進んだ捷径しょうけいは、雑木林に囲まれて始終暗く、薄気味の悪い隧道すいどう*も待ち構えていた。苔生こけむす内壁は湿気を含み、声も足音も吸い込まれるかように響かない。空気が澱み、生温くも冷たくも感じられる。この一帯が古戦場だとする話しが出ると、誰もが真に受けた。


 自転車を操るたつみは連続する坂道に苦言を吐き、福助は足が痛いと文句を垂れる。不慣れな編み上げ靴を履いて、擦れたようだ。双子が舞台で使っていた靴を頂戴して喜んでいたが、一寸法師は普段*の白足袋か草履、しくは裸足で、硬い革靴は初めてだった。


「素足じゃ無理だ。ちょっと待って」


 極夜は旅行鞄から真新しい靴下を取り出して、履かせた。なついたという表現はやや不適切だが、極夜は福助が大の鉄道好きだと知ると、積極的に話し掛けた。嗜好が合うようだ。一寸法師も徐々に慣れ、顔面が真っ赤に染まる時間も短縮傾向で、会話も自然体に近くなった。


 本当の性別を知っても、白雪姫であることに変わりない、と言い切る辺りが、実に福助らしい。



<注釈>

*薄暗い隧道=逗子〜鎌倉間にある小坪トンネル。

*きゃらこ=薄地で光沢のある印度産の平織り綿布。

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